4 狂気と理知

 勢いよく駆けだした男の瞳を見て、アニーは意味もわからずぞっとした。けれど、頭の奥が凍りついている間にも、体は勝手に動いていた。水平にすべって少女の首を飛ばそうとしてきた剣を、半身にして、得物をななめに構えて受けとめる。今まで感じたことのない、強烈で暴力的な一撃が叩きこまれて、アニーはあやうくよろめきそうになった。刃を受けた剣を、その方向へ滑らせて相手から逃れたあとに、一度後ろに跳んで距離を稼いだ。男が再び襲ってくる前に、今度はアニーの方が彼めがけて走りだす。長い剣が振り上げられた瞬間を狙って、懐に飛びこもうとしたが、剣ではなく肘が打ちおろされたのでぎょっとした。慌てて飛びのいたが、一撃は額をかすめた。痛みとともに、軽いめまいが襲ってくる。それでもアニーは男の剣撃をはじいたあと、刃をくるりと回して、その腕を浅く切り裂いた。

 男が舌打ちする。少女は肩で息をする。誰も割って入ることのできない戦場の空気が、二人のなかに漂っていた。

 直後に瞬いた光は、その空気をあえて打ち壊そうとしていた。男を見ていたアニーは、彼の背後から飛んできた光の矢に、ぎょっとした。しかし、彼女が何かをするより早く、目の前に魔術の壁が現れる。光を軽くはじいて消した小さな壁は、音もなく霧散した。一部始終を見ていた男が、忌々しそうに振り返る。

「おい、ルナティア、邪魔をするな。おまえはあの魔術師をどうにかしろ」

「はいはい」

 短い返事と、忍び笑いが返ってくる。鼻を鳴らした男は、再びアニーに剣の切っ先を向けた。

 そのまま何度となく打ちあいが続く。剣のぶつかりあいの合間を縫うようにして、彼らの上や横で魔術の光や衝撃が弾けた。今も、ルナティアというらしい女性が放った銀色の炎が飛んでくる。アニーは身をかがめ、剣と魔術を同時に避けた。長剣が空を切り、金色と銀色が爆ぜて散る。軽く地面を蹴ったアニーは、降り注ぐ火の粉を避けながら、男の脚を狙って走る。意図に気づいた男が半歩下がると、アニーは上半身を起こして剣を突いた。かすかな手ごたえとともに赤い血が飛ぶ。嫌がっても、安心してもいられない。彼女はすぐさま身をかがめ、『黒い盗賊』の剣撃をかわした。

 転がるような勢いで長剣から逃れたアニーは、考えるより先に突く。剣先どうしが触れあって、かたい音を立てた。そのとき、すぐ横でふたつの方陣が弾けて、岩の槍と水の球がぶつかりあった。

「それにしても、どんな奇跡を起こしたのかしら。あの子、今頃は呪いの副作用でのたうちまわっているとばかり」

「……え」

 男のななめ後ろから聞こえた声に、アニーはつい動きを止めた。その瞬間を狙って、長剣がぶれる。ぎょっとした少女は、体をひねって剣の柄を敵の刃にぶつけて耐えた。黒い男があからさまな舌打ちをする。

 あの子、と言った女性の目は、目の前の敵を見ていなかった。もっと後ろに視線が向いている、と先に気づいたのは、向かいあっているマリオンだ。

「やっぱりあんた、何かしたのね」

「……医療魔術のなかでもっとも簡単な術の中に、術師の魔力を一時的に膨張させる、というものがあるわよね。あれ、先に方陣さえ編んでおけば、あとは相手に触れるだけでも発動できるのよ。ああ、あなたくらい優秀な術師なら、ご存じかしらね」

 言いながら、彼女は自分のあいている手を広げてみせた。そこには、刺青のように刻まれた、見慣れない方陣がある。横目でそれをうかがっていたアニーは首をひねったが、マリオンの方は顔色を変えた。不意を突かれたような、呆然とした顔は、しだいに強い怒りに染まってゆく。

「あんた、何考えてるの。呪われた人を殺す気なの? それにしてはずいぶんと、手のこんだことをするじゃない」

「殺すなんてとんでもない。連れていくときに抵抗されたら面倒だから、弱らせようとしただけよ」

 答えのあとには笑い声が降る。わきあがる感情を噛み殺したアニーは、再び男へ意識を向けた。

「あんたは、知ってたの」

「もちろん。知らない計画に危険を冒して協力する阿呆がどこにいる」

 男は淡々と答えた。添えられた余計な一言に反応し、少女の眉が跳ねあがる。じっとりとにじむ汗を感じなくなっていることに、彼女はまだ、気づいていない。

「じゃあ、あんたたちのいう魔女の人形を連れてって、何をする気なの」

「そちらはルナティアに訊いてくれ。俺は興味がないのでな」

「……さっきと言ってることが違う」

 アニーが声を低めて言うと、男は喉を鳴らして笑った。

「あいつに協力するのには、俺なりの理由がある」

「理由?」

「そう」

 男が軽く答えた瞬間、その姿がぶれた。アニーは直感に従って、剣を振る。強い力が打ちこまれ、ギィン、と刃が激しく鳴った。

「――俺は血と混乱が欲しいのさ。あいつは俺が見たいものを見せてくれる」

 耳元で、低い声がささやいた。駆け抜ける悪寒。響く痛み。吐き気がこみあげ、うめき声が吐き出された瞬間――アニーのなかで、おさえこまれていたものが、音を立てて弾けた。歯を食いしばる。力をこめる。色彩を失った世界を振りはらうように、ただがむしゃらに、剣を振った。男は一撃を受けとめ、押し返すと、大きく跳んで距離をとった。その姿に彼女は、いらだちをおぼえ、あせりをおぼえる。だというのに、ひどく高揚していることにも気づく。

 それはいけない、と理性が叫ぶ。けれど叫びは、彼女の芯を打つには、あまりにも弱すぎた。

 笑い声が聞こえる。それはわずかに、少女本来の意識を目ざめさせた。今までの狂乱と違うのは、わずかに意識があってもなお、続くこと。快感と不快感の間に立つ彼女は、顔をしかめ、震える手で剣をにぎる。

「ほう。最初に見たときから、気になってはいたが……やはり、そうか」

「な、んの、こと」

 流暢な、そして楽しそうな声と反対に、アニーはあえぎながら問いかける。男はにやりと、唇をゆがめた。

「おまえは、俺によく似ている。――そのままでいたならば、いずれは正真正銘の狂人となるだろうな。俺と同じように」

 さりげなく放たれた言葉は、驚くほど、冷たく、あっさりとアニーの中にしみこんできた。言葉そのものはほとんど理解できなかったのに、彼が何を言いたいのかだけは、明確に伝わってきた。頭の中を揺さぶられる。体の中の熱が渦を巻く。反論しようと口を開いた彼女はけれど、声を出す前に宙を舞っていた。

 呆然とする。何が起きたかわからなかった。自分の体から、ほんのわずかな赤い飛沫が飛んでいるのを見て、やっと状況を理解した。

 草の上に叩きつけられる。遠くで金属の音がした。考える間もなく起きあがろうとしたアニーはけれど、強い力に胸を押されて動けなくなる。驚いている間に、首に剣を突きつけられた。男の暗い瞳が、碧眼をとらえて笑う。

「ちょ……どけ!」

 押しつけられる黒い靴をにらんで、アニーは怒鳴る。が、男は歯牙にもかけず話しだした。

「狂うのがそんなに嫌か、娘」

「あっ――たりまえでしょうが!」

「そうか。なら」

 剣の切っ先が、首に当てられた。薄く切られたところから血がにじむ。その熱を感じたアニーは、声を失い凍りついた。

「――狂う前に、俺が殺してやろう」

 冷たい宣言は、ゆがんで聞こえた。

 剣が持ちあげられる。遠くから悲鳴が聞こえる。目尻に溜まり、つたい落ちる涙には気づかない。

 今まで考えもしなかった死の形を前にして、幼い意識は凍りつく。

 だが、それが完全に闇に閉ざされる前に変化が起きた。

 ほんの一瞬、光が舞う。あたりの空気が、揺らいで――

 

 

     ※

     

     

『魔術ってのは、確かに宗教めいた部分もあるけどな。少なくとも俺が学んできた魔術は、おまえらが想像する以上の理屈の塊だ』

 いつか、ロトはそんなふうに語っていた。遺跡探索のあとから、今にいたるまでの、平和な日々の中で。そのときフェイは彼の言葉をなんとなく受け流していた。だが、こうして方陣の解除という魔術のひとつの工程に立ちあうと、彼の言葉が実感できる。

「第二周二百番、縛りの円環を消去。隣の、炎の紋章に触れないように気をつけろ」

「はい……えっと、何か式が出てきたんですが」

「そっちは俺がやる。その間に歪みの円環を消去。第二周百九十七番だ」

「わかりました。……これ、三次関数ですか?」

「消せるか」

「やってみます」

 背後で戦いの音が響く中、青年と少女は動揺することもなく、式と記号と古代文字の相手をしている。むしろ、フェイの方が轟音や剣の音に意識を持っていかれそうになり、そのたびに、絶え間なく響くロトの声に集中するようにしていた。彼は息をのむほど鮮やかな手つきで、記号を打ち消し、浮かびあがった式をれいへと変えてゆく。かたわらで奮闘するエルフリーデもなかなかのものだ。が、さすがに三次関数は相手が悪すぎるだろうと、ヴェローネル学院の優等生は思う。案の定、エルフリーデは間もなく、眉間に深いしわを刻んだ。フェイは慌ててそばに寄り、彼女の手もとをのぞきこむ。

 光とともに浮かびあがった式を見て、めまいをおぼえた。いくら名門学院の研究科でも、十一歳にこんな式は解かせないと叫びたくなる複雑さ。しかも、使われているのはほとんどが古代文字。青年がくれた紙と照らしあわせれば、読めないことはないが、読めても解けないのでは、意味がない。

「で、でも、これを零にすればいいんだよね」

「うん。けど、絶対に間違ったらいけないの。一か所でも間違ったら、ボカン、だから」

 苦しげなエルフリーデの言葉に、フェイはとうとう沈黙する。学院の試験問題と思えば怖くない、と暗示をかけたばかりだが、つまり彼は見くびっていたのだ。方陣の術式は、試験よりもずっと、たちが悪かった。

 それでも彼らは、奮闘した。フェイの、これまでの勉学の成果と、エルフリーデの中のかすかな魔術基礎知識を総動員した。フェイは、今にも目を回しそうなエルフリーデに、方陣を指さしながら言葉をかけた。

「えっと……だから、ここを移項すればいいんだ」

「う、えっと、こう? あ、本当だ。消せそう」

「ああ、でも次の項との関係が……」

 しばらく健闘した子どもたちだが、自分の作業をひとまず終えた青年に助け舟を出されて、次の記号を消しにかかる。

 どこまでも淡々とした作業と、しだいに激しくなってゆく戦いの音は、少年少女をあせらせた。彼らが平常心を保てたのは、流れるような手つきで方陣を解除してゆく青年の、仏頂面が見えていたからだった。

 方陣を解くのに費やした時間は、それほど長くはなかった。けれど、フェイは半日同じことをして過ごしたような気分になっていた。ようやく、光輝く方陣は、人ひとりがぎりぎり乗れる程度の大きさにまで小さくなった。

「第五周二十三番から十五番、属性記号と方角記号を削除」

 エルフリーデが小声ではい、と言い、光をまとった五指を滑らせる。ゆっくりと方陣を形作る記号が消えてゆく様は、手品でも見ているかのようだった。フェイは長く息を吐いた。が、記号が消えたあとに浮かび上がってきた文字の羅列を見て、感動も消えうせる。

 げんなりしている子どもたちをみやった青年が、口の端をもちあげた。

「これはいくらなんでも複雑すぎる。俺がやるから安心しろ」

 言うなり、青年は文字を指で弾いた。ときどき目を閉じたり、何事かを呟いたりしながら、よどみのない手つきで式を動かしてゆく。そして、彼の手指の動きが止まった瞬間――文字が強く光り、弾けた。方陣をつくっていた細かな光は、粒となって空気の中に溶けてゆく。

 方陣は、音も光も、残さずに消えた。はでなことは、何一つ起きなかった。ただ、なんとなく空気の流れが変わったように、フェイは感じていた。

「――よし。消えたな。二人とも、よくやった」

 どことなく、ふわふわしていた「終わり」の余韻は、青年の言葉ではっきりとした形を得る。

 フェイも、エルフリーデも、わきあがってくる達成感を噛みしめて、その場に座りこんだ。

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