3 黒い盗賊

 馬の鋭いいななきが聞こえ、続けて馬車の中は短い悲鳴に包まれた。アニーもとっさに壁に手をついて踏んばり、もう片方の手で、座席から転がり落ちそうなフェイを支えた。ついでに、倒れかかってきたエルフリーデからの軽い頭突きをお腹に食らったが、たいして痛くもなく、気にしている余裕もなかった。

 馬車が揺れたのはほんの一瞬だった。車内には居心地の悪い沈黙が落ちる。が、すぐに誰かが「なんだよ」と不平をもらし、あっという間にざわめきが戻った。アニーが呆然としている間に、フェイがお礼を言い、エルフリーデが、がばっと顔を上げた。

「うわっ」

「ご、ごめんなさい、わたしったら……。大丈夫だった?」

 涙目のエルフリーデに詰め寄られ、アニーは慌てた。両手を顔の前で振り、大丈夫、なんともない、と示す。するとようやくエルフリーデは身を引っ込めて、座席に座りなおした。アニーも安心して息を吐く。そんなとき、向かいの席の窓際から「おいおい、大丈夫か」と、大きなしゃがれ声が聞こえた。ずっしりした大きな男の人が、その腕で細身の青年を支えている。彼は顔を少し上向けてから謝罪した。

「悪い。少し、めまいがして」

「めまい? 酔ったのかね。まあ、具合悪いなら、大人しく座ってな」

 青年は、ああともいやともつかぬ声で返事をして、座席にもたれかかる。彼の、ロトの顔が青いことに気づいたアニーは身を乗り出しかかったが、直後に聞こえた怒声に驚いて、肩をすくめた。フェイなどは飛び上がっている。どうやら、誰かが御者に文句を言ったようだった。対して、御者も車を振り返り、困り果てた顔をしている。

「おかしなことが起きているんだよ。進んでも、進んでも。同じ景色がずうっと続いてるんだ。こりゃ、まずいことになったかもしんねえ」

 情けないほど細い御者の言葉に、乗客たちも不安そうな顔を見合わせた。アニーたちも、あたりを見回したあとで互いに視線を向ける。

「これって」

「わたしたち、本当に行方不明者の仲間入り……?」

 震えながら呟いたフェイの言葉の続きを、口もとを手で覆ったエルフリーデが引きとる。アニーは、あちゃあ、と頭をおさえた。

 

 狭い車内で騒いでいてもしょうがないと思ったのか、乗客たちはぞろぞろと外へ出はじめた。中には、異変にいち早く気づいた銀髪の女性もいる。アニーたちもそれにならって外へ飛び出してはみたものの、車内に残ったままの青年がなんとなく気になった。別の不安に駆りたてられる少年少女をよそに、乗客たちは周囲の景色をながめてどよめいた。本当にまったく変わっていない、道のむこうは霧に包まれているみたいに白くにごって何も見えない、と大騒ぎ。

「ど、どうしよう」

 フェイが頭を抱えてうずくまる。すでに泣きだしそうな少年を一瞥し、アニーは「どうしようもないんじゃない」と、いっそ清々しいほど冷徹な言葉を投げかけた。エルフリーデがその様子を見て戸惑っているのに気づきながら、あえて知らないふりをする。

 しかしながら、不安になるのは無理もなかった。アニーもまた、内心冷や汗をかいていて、それを必死でごまかしている。つい先ほど、車内で『噂』の話をしたのがまずかったのかもしれない。噂をすればなんとやら、とはよく言ったものである。

「でも、本当にどうしましょう。わたしたち、ずうっと立ち往生ってことには……下手すると一生このままかもしれないし……」

「ちょ、ちょっと! エルフリーデって、意外と、怖いことをさらっと言うよね」

 涙目になりながら、フェイが少女をたしなめる。彼女はごめんなさい、と消え入りそうな声で言い、目を伏せた。そのとき、草を踏む音がしたのを聞きとったアニーは、振り返る。

「――でも、そうはならない、ってわかってるよな」

「あ、ロト。出てきて平気なの?」

 剣呑な目をして立つ青年に、アニーはとと、と駆けよる。ロトは彼女に向かってひらりと手を振ったあと、もう一人の少女をじっと見た。エルフリーデはしばらく、視線を左右に泳がせていたが、それから観念したようにうなずく。アニーもフェイも、驚いて、目をみはった。どういうこと、と問おうとしたとき、ロトがアニーのかたわらによいせと腰を下ろす。

「さっきから、異様な魔力を感じる。たぶん、進んでも進まないっつーこの状況は、魔術で作り出されたものだ」

「魔術って、そんなこともできちゃう、の?」と、フェイが目を丸くする。

「方陣をいくつか使えば、誰かを決められた空間に閉じこめちまうことは可能だ」

 青年の手が、落ちていた木の枝をつかんで、そばに生えている草花のまわりに四角形を描く。そして、角に小さな円を重ねて描いた。おおよその意味を察したアニーは、納得してうなずいた。すぐ後、長い黒髪が、ふわっと頬をくすぐる。

方陣それを壊せば、ここから出られるということですね」

「けど、そうとう広い空間を区切ってあると思う。探すのは骨が折れるぞ」

「乗客のみなさんに説明して、手伝ってもらえば大丈夫です」

 エルフリーデが意気込んで、胸の前で拳をにぎる。はりきっている彼女を、氷のような瞳が見つめた。

「手伝ってもらえれば、な」

 含みのある物言いが気になって、アニーもフェイも、むう、とうなる。直後、フェイが目を瞬いた。

「あれ、エルフリーデ。なんというか、わかってたみたいだね」

 フェイの指摘に少女は肩を震わせる。アニーも遅れて意味を察した。問いかけようと口を開きかけ――けれど、その前に、頭の奥で警鐘が鳴り響く。アニーはとっさに身をひるがえして走った。追いかけてきた声を無視し、乗客たちのすぐそばで、隠し持っていた真剣を抜き放つ。ぎりぎりのところで、迫ってきた白刃を打ち払った。あとから慌てて駆けつけてきた三人が、息をのむ。中でもエルフリーデはぎょっとした顔で、少女の名を呼んでいた。

 けれど、今のアニーにそれらを気にする余裕はなかった。視線は一点、目の前の人へ向く。「誰!?」と鋭く誰何すいかの声をあげると、その人物は低く笑った。

「ほう。今回の獲物たちは、ずいぶん無防備だと思っていたが……野獣が一頭、まぎれこんでいたか」

「誰が野獣よ」

 アニーは強気で言い返す。震えだした足をごまかすように。すぐそばに立つ男は、楽しげに微笑した。抜き身の長剣を少女へ向ける。瞬間、人々がどよめいた。

「大人しくして、金目のものを置いていけ、と。形だけは言うつもりだったが。今回はそんな気分じゃないな」

 無感情な台詞に、人々のざわめきが強くなる。御者が、震え声で叫んだ。「まさか、『黒い盗賊』か」と。

 アニーは顔をしかめ、男を見た。確かに、通り名どおり、まっ黒だ。髪も目もぞっとするほどの漆黒。衣服でさえも。前時代の貴族を思わせる長い上着のすそにほどこされた刺繍だけが、鈍い金色に光っている。長剣をちらつかせた男は、無言で唇を持ちあげた。

「それで、どうする?」

「ばっかじゃないの。物を置いてったところで、私たちを生かしておく気なんてないんでしょ。見え見えだわ」

 彼の問いに、まっさきにアニーが答えた。はりつめた空気を感じ取ったのか、乗客たちがたじろぐ気配がある。

 刹那せつなの沈黙のあと、アニーが動いた。地面を軽く蹴って、駆けだす。気合の入ったかけ声とともに、剣を一閃、突き出した。視線の先の黒い瞳に、冷たい光が宿るのを見る。男は無造作に長剣を振るうと、アニーの剣をいともたやすく打ち払った。それどころか、一撃にこめられた力は少女を体ごと突き飛ばす。

 エルフリーデの悲鳴が聞こえる。アニーは空中で受け身の体勢をとり、わずかに口をつり上げた。地面に落ちると同時、左手で草地を叩いて衝撃を逃がす。剣先を土に軽く突き立て立ち上がり、すぐさま剣を構えた。正面から来た衝撃を、踏んばって横へと流す。男の感情の読めなかった目が、はじめておもしろそうに見開かれた。

 付け焼刃の受け流しでは、この長身の男をよろめかせるのがせいいっぱいだった。アニーは大きく呼吸して、じんじんとしびれる両手を叱咤する。

「子どもにしてはなかなかの腕前だな」

「……おほめの言葉、どうも」

 楽しげな男の称賛に軽い調子で返したアニーは、唇をかむ。

 少し剣を交わしただけでもわかった。――この男は、とにかく、強い。

 アニーと彼とでは、体力も、体格も、そして剣の技にも差がありすぎる。なら、とアニーは幼馴染たちの方へ目配せした。視線に気づいたらしいフェイが、ほんの一瞬驚いたような顔をすると、そばにいるロトの背後に隠れるふりをしながら、乗客の方へ走ってゆく。

 よし、と思った瞬間、とんでもなく強い力で殴りつけられ、遅れて金属音がした。アニーは、食いしばった歯の隙間からうめき声がもれるのを、他人事のように聞く。

「よそ見をしている場合か」

 男が嘲笑した。そして、さりげない所作で、剣を薙いだ。アニーははっと息を詰める。刃がとらえたのは、戦うことのできない少年で。彼も剣の気配に気づくと青ざめた。間に合わない、とアニーはぞっとしたが、もう少しで刃が届くというところで、遠くから何かが光って飛び、剣の軌道をわずかにそらす。地面を転げて逃げだすフェイを見て、男は嫌そうに舌打ちをしたが、すぐ表情を消すとアニーに向き直った。

「ほかの者たちを逃がそうとしてもむだだ。わかっているだろう? 今のおまえたちは、外界から切り離された空間の中にいる」

「っ……!」

――見すかされてる、何もかも……!

 背中を冷や汗がつたうのを感じた。子どもの浅知恵は通じない。時間稼ぎも意味がない。

 ならば、真正面から立ち向かうだけだ。大きな碧眼に炎が灯る。少女は大男をぎっとにらんだ。

「あんた、何を考えてるの。盗むのが目的じゃ、ないんでしょう。さっき、形だけとかなんとか、言ってたし」

 男はすぐには答えない。アニーをつまらなそうにながめたあと、急にまた剣を手に迫ってきた。アニーは思いっきり悪態をつきたいのをこらえて、剣撃を受けとめる。何度か同じやり取りが続き、いつしかつばぜり合いが始まっていた。

 すぐそばで交差する刃と刃。そのむこうに見える男が、静かに声を発した。

「ならば、まずは、おまえに訊こう。魔女の人形はどこにいる」

 アニーは顔をしかめた。言われた意味がわからない。たどたどしく相手の質問を繰り返していると、男はつかのま呆れたような顔をしたあと、言いなおした。

「魔女の呪いを受けた者のことだ」


 魔女の呪い。

 一語は空虚に響いて消える。

 ほんの少し、思考が白く染まって。一拍遅れで、言葉と人が、結びついた。

 

 アニーは目をみはった。心臓が凍りついた気がした。悟られてはならないと、唇を引き結ぶ。

「答えろ。おまえは魔女の人形を知っているのか、知らないのか。隠しだてをすれば、命はないと思え」

 近くで響く声は、揺らぎも色もない。教科書をただ読み上げるだけのような声音に、恐怖心をかきたてられる。それでもアニーは、せり上がる不快感をすべてのみこみ、不敵な笑みをつくってみせた。

「呪いとか人形とか、なんなのよ。私はそんなの、知らない」

 吐き捨てるように言ったアニーは、剣をにぎる手に力をこめて、むりやり前へ踏み出そうとする。金属同士がぎちぎちと、苦しげに鳴った。わずかも動かない黒い瞳は、まるで深い穴。見ているだけでのみこまれそうな深淵に、少女は我知らずひるんだ。闇より暗い瞳の奥に剣より鋭い敵意が走る。

 剣が高く鳴った。力を押しこまれ、アニーは大きくよろめいてしまう。直後、彼女の手から剣が跳ね飛ばされて、その小さな体は容赦なく蹴り上げられる。こらえないと、と思っても、関係なく悲鳴はもれた。恐ろしげにことのなりゆきを見守っていた人々が、この世の終わりのような顔をしているのを、隅にとらえる。間もなく視界がめちゃくちゃに回転して、痛みが全身を打ちつけた。

 すべてがようやくおさまったとき、アニーはやっと、自分が地面に叩きつけられたと気づいた。痛くてすぐには動けない。顔を少しあげると、剣は遠くに落ちている。どうしよう、と思っていたとき、聞きたくなかった足音と声を聞いた。

「おまえ、知っているな」

 氷よりも冷たい声は、断言した。それでもアニーは、見おろしてくる黒い男をにらみつける。

「なんのこと」

「とぼけるな」ささやきがさえぎって、首筋がちくりとした。

「次はない。正直に答えろ」

 長剣の切っ先が、うなじのあたりをつつく。それでも彼女が押し黙っていると、とうとう男は目をすがめた。

 あ、まずい。十一歳の少女は、驚くほど静かにそう思う。瞬間、切っ先がすばやく離れ、風を切り裂く音がした。アニーはとっさに目をつぶる。

 しかし、覚悟していた痛みはこなかった。かわりに、甲高くわめく声と、どん、という低い音がした。アニーはおそるおそる目を開けて、ぎょっとする。男はほんの少し体勢を崩し、すぐそばには目尻をつりあげたフェイ・グリュースターの姿。

 胸が詰まった。今まで、こんな怖い顔をしたフェイを、見たことがなかったから。

 いや、それよりも。

――男が、いらだった様子でフェイをにらんだ。

「なに、してんの、ばか」

 鈍痛も死への恐怖もどこへやら。今はただ、別の恐怖が全身を満たしていた。失う恐怖。あの長い剣が、自分以外の誰かに向くことへの。アニーはそれに気づいた瞬間、跳ね起きた。

「やめて! 早く逃げて!」

 何も考えず金切り声をあげた。男の剣がするりと動き、今度は少年をとらえる。邪魔をするな、と、薄い唇が、音を出さずにささやいた。もう動ける、だから動かないと、アニーはただひたすらそう思うが、思うばかりで体は言うことを聞いてくれない。どろりと、熱いものが頭を満たす。なのに、指は氷のように冷えている。

 長剣がぶれたとき、見えない少女が殺せと歌った。

 だが――剣は斬り裂くことができず、おぞましい歌はすぐにやむ。長剣がフェイめがけて動いた瞬間、いつの間にかできあがっていた方陣が光を発し、少年のすぐ前に、半透明の防壁をつくりあげたのだ。一撃は、鎧にでも当たったかのように弾かれ、フェイと剣の間に火花が散る。

 最初こそ呆然としていたアニーだが、すぐにはっとなると、少し離れた場所を見た。この状況で、魔術を使ってフェイを守れる人間を、アニーは一人知っていた。その一人は、術を使ったあとの左手で、右腕を強く押さえて、肩で息をしている。隣で、エルフリーデがすごく驚いた顔をしていた。

 やった、と喝采しかけたアニーだが、すぐに凍りついた。

 嬉しげな低い声を、そばで聞く。

「あいつか」

 そう言ったのは、黒い男だった。嫌な汗が吹き出す。アニーはろくに考えもせず、青年たちに向かって叫んでいた。

「だめ、こいつが探してるのは――!!」

 しかし、アニーがすべてを言い終わる前に、横を漆黒が通りすぎてゆく。

 時が止まった気がした。あたりはただひたすらに、沈黙している。

 そのとき、はじめてアニーは、自分たち以外の人々が、かたまっておびえていることに気づいた。盗賊におびえるのは当然のはずなのに、そこになぜか、違和感をおぼえる。

 違う。そんなことを考えている場合じゃない。

 アニーが体を引きずって、黒を追いかけようとしたとき。

 

 突然、目に見えない大きな力が、ふくれて弾け――暴風が、吹き荒れた。

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