4 見えない壁を知った日

 ふらりとかたむき、支えた腕は、どうしてか、切ないほど震えていた。

 そのあと迫ってきた剣が、どうしようもなく怖かった。

 けれどそのとき――俺はいいからおまえは逃げろとささやかれ、

 

 守らないと、と思った。

 

 

     ※

     

     

 巻き起こった風は、嵐もかくやという勢いだった。声を出すことも、目を開けていることもままならない。風の舞踏は、幸いすぐにおさまった。アニーは、ぐしゃぐしゃになった髪をおさえつけながら顔を上げて、絶句した。

 風が襲ったあとの地面はめちゃくちゃになっていた。けれど、木は一本も折れていなかった。とても奇妙な光景だった。それよりアニーの目をひいたのは、空中で爆ぜる、桃色の火花と思しき何かと――同じ色の光を全身にまとう、少女だった。風がおさまったはずなのに、彼女の長い黒髪だけは、ふわふわと舞っている。今にも泣きそうな、怒りを爆発させそうな顔で黒い男をにらむ少女は、荒い呼吸を繰り返していた。

「エル、フリーデ……?」

 アニーはただ、少女の名前を呼ぶ。その声が、幼馴染の少年と重なっているとも、知らずに。

 男はしばらく、息を切らせる少女をながめていた。だが、やがて、つまらなそうに視線をそらす。

「魔術師以下の魔力持ち、か。想定外の存在には違いないが」

 男はため息混じりに呟くと、ほんの一瞬、アニーの方へ視線を向ける。だが、彼女が身構えたときにはもう、男はそちらを見ていなかった。淡々と、剣を鞘に収めていた。誰もが唖然としているなかで、彼はエルフリーデを見た。

「いろいろと楽しくなりそうなものが見つかったので、おまえたちは見逃してやる。まあ、どのみちここから出られはしないだろうが」

 独り言のように言った後、今度ははっきりと、エルフリーデに対して「それと娘」と言い放った。ぴくりと肩を震わせ、ひるんだ少女を気にもせず、男は言葉を続けた。

「ひとつ忠告してやろう。――制御できもしない力をむやみに使えば、身を滅ぼすぞ」

 もともと白いエルフリーデの肌が、血の気を失いさらに白くなる。男はそんな彼女を馬鹿にすることもせず、馬車に背を向けて歩き出した。彼が数歩歩いたあと、まっ黒な後ろ姿はどういうわけか、景色の中に溶けるように消えてしまった。唖然としたアニーはけれど、木々のそよぐ音を聞いて正気に戻ると、かっと怒りだした。

「何あれ! ひっかきまわすだけひっかきまわして、さっさと行っちゃった!」

「しかも、あの人、たぶん先に進んだよね。どうやったんだろう」

 疲れきった様子のフェイが近づいてきて、そんなふうに付け加える。アニーはますます憤慨し、とうとう馬鹿野郎、というようなことを、ぼやけた景色の先に叫んだ。男がそばにいたときに感じた威圧感が、まるごと怒りに変わったような感じだった。そのまま、彼女は幼馴染をにらみつける。フェイは、おびえた小鹿のように縮こまった。

 アニーはしばらく彼をにらみつけたあと、ふん、と言ってそっぽを向いた。

「――ありがと」

 本当に小さな声で、感謝を述べると、フェイはぽかんとしていた。アニーとしてはほかに言いたいことがあったはずなのに、ありがとうを言ってしまうと急にほかがどうでもよくなってしまった。それよりも、今は別に気にすべきことがある。

 安堵感に包まれた乗合馬車の客たちが散らばりはじめるなか、アニーとフェイは少女と青年のもとに駆け寄った。どちらにともなく「大丈夫?」と声をかけると、まずはエルフリーデが息を吐いて、へたりこむ。

「だいじょうぶ……。驚かせて、ごめんなさい」

 今にも溶けてしまいそうな声でそう言ったエルフリーデは、がっくりとうなだれた。地面にたれた黒髪が汚れてしまっているが、それどころではないようだ。二人は首を振り、それから、フェイが感心しきった様子で呟く。

「それにしても、エルフリーデが魔術師だったなんて。でも、それなら、魔術のこともわかってあたりまえだよね」

 アニーも、うんうん、とうなずいた。エルフリーデはびっくりしたように顔を上げ、それから恥ずかしそうにする。

「正確には、魔術師じゃないよ。わたしはただ、魔術師になれるだけの魔力を持っているだけで、術師としての勉強は、ちゃんとしてないから」

「え? 魔力が使えればみんな魔術師、ってわけじゃないの?」

「うん。方陣とか理論とか、いろいろ勉強して、きちんと術が使えるようになって――そうしてはじめて、魔術師って名乗れるの」

 エルフリーデはそう言い苦笑して、そのあとなぜか、目を大きく見開いて、アニーとフェイを交互に見ていた。アニーが不思議に思って尋ねる前に、別の方向から、青年の声がする。

「気づいてはいたんだけど。あれだけ人が密集してるところだったから、暴露するわけにもいかなくてな」

 そう言ったのは、両足を投げ出して座っているロトだった。彼はエルフリーデをちらりと見ると、笑ったような怒ったような、よくわからない表情をする。エルフリーデは彼に、日だまりのようなほほ笑みを返した。

 二人の間に漂う妙な空気。アニーとフェイはその中で、何ができるというわけでもない。なので、フェイは乗客の様子を見にいくと言って走り出し、アニーはとぼとぼ歩いて自分の剣を拾いにいった。

 

 ひとしきり騒いで、ようやく『黒い盗賊』襲来の余韻が消えてきたころ。乗客たちが乗合馬車のまわりに集まって、今後のことを話しあいはじめた。救助を呼ぶ方法はないか、出る方法は、ここでどれだけ過ごすのか。決定的な意見が出ない、不安が募るだけの話しあいが続く。この話しあいが始まる前、盗賊に立ち向かった勇敢な――あるいは無謀な――子どもたちとして、さんざん大人たちになでまわされたアニーとフェイは、そばで聞き耳を立てていた。

 あるとき、ふっと記憶が刺激されて、思わず「あ」と声をあげる。

 ロトとエルフリーデがしていた話を思い出したのだ。この現象は魔術で起こされたもので、方陣をどうにかできれば外に出られるということ。彼らの言葉は、何にも勝る手がかりに違いない。なのにどういうわけか、二人とも、まだ発言をしていない。まったくもう、とアニーが心の中で呟いて、人々の方へ身を乗り出したとき。

「なあ、おたくら」

 御者の声がそばでした。声の方を見ると、御者が、話しあいを外から見ていたロトとエルフリーデに近づいている。彼は二人のすぐそばまで行くと、どういうわけか、数枚の硬貨をぞんざいに放り投げた。アニーは不思議に思い、ロトたちに歩み寄る。フェイも彼女の後ろについてきた。

「おたくらは、ここで降りてくれないか」

 ふいに聞こえてきた言葉に、二人の足が止まった。

 アニーは御者を見つめる。言われたことが理解できない。続けて二人を見てみると、エルフリーデはひどくおびえた様子だったが、ロトは冷静だった。不自然なくらいに。御者をまっすぐに見上げて「理由をきいても?」と問うている。御者はしばらく、決まり悪そうに目を泳がせたあと、言った。

「おたくら二人とも、魔術師なんだろう」

「それが、何か問題か」

「この奇妙な出来事と、『黒い盗賊』が出たこと――いろいろ重なっちまって、乗客が不安がってる」

 突き刺さる視線を感じたアニーは、後ろを向いた。乗客たちが、うかがうようにこちらを、いや、ロトたちの方を見ている。彼らの目つきにぞっとした。

 その目は、アニーという少女に『暴れん坊』の名を与えた人々の目と、よく似ていた。

 恐怖して、「異物」を排除しようとしている人のまなざし。

「しらばっくれてんじゃねえ! おまえらが、何か仕掛けたんだろう!」

 恐ろしさがふくれるより早く、怒声が響いた。客たちも御者も、迷惑そうに、一人を見た。筋骨隆々とした、白髪交じりの黒髪の男性だった。ロトがあからさまに眉をひそめたのに気づいているのかいないのか、つばを飛ばしてわめき続ける。『黒い盗賊』と裏でつながっているんだろう、何をたくらんでいる、などと。

「おい、やめろって、親父。そんな真似する人たちに見えるか」

 とうとう、かたわらにいた若者が、男性の肩をたたいた。けれど彼は、息子らしい若者をぎろりとにらんだ。

「うるせえ、俺は昔っから、魔術師がだいっきらいなんだよ!」

「だから落ちつけって」

 父をなだめる息子の声は、弱々しい。やり取りを聞いていたアニーは、ぶるりと震えた。

 嫌な予感がした。予感を確信に変えたのは、御者の一言だった。

「こんな感じでね。魔術師おたくらがいると困るんだ。だからここで降りてくれ」


 アニーもフェイも、ロトに出会うまでは「魔術師」を知らなかった。

 だからこそ、彼らがいまだに「妖しいまじない師」「化け物」と呼ばれ続けていることも、知らずにいたのだ。

 魔術師の青年と出会ってひと月。この日はじめて、彼らは知った。

 

 なんだそれ、とフェイが言う。けれど、ロトの声がかき消した。

「――わかった」

 彼は恐ろしく低い声で言うと、手早く硬貨を拾い上げて、しまった。エルフリーデもおろおろしながら、それにならう。

「けど、おっさんよ。あの子どもたちは面倒見てやってくれ」

 御者はアニーたちを一瞥する。ロトへ向き直ると、無言でうなずいた。ロトは、どうも、と言い捨てると、よろめきながら歩いていった。出ていけないことはわかっているはずなのだが、せめて馬車から距離を取ろうというつもりらしい。エルフリーデも御者にぺこりと一礼すると、青年を追いかけて駆け去っていった。

 二人の子どもは、一部始終を呆然と見ていた。御者に頭を軽く叩かれたことで我に返ったアニーは、客たちの様子を確かめようと振り返り、愕然とする。彼らは冷やかに、あるいは気まずげに青年と少女を見送ったあと、何事もなかったふりをして、話しあいを再開したのだ。

 去った影を気にする人はいる。けれど、追いかけようとする人や、ほかの人々をいさめようとする者はいなかった。

 フェイがおろおろと、客と道の先を見比べる。

 アニーは足もとが崩れ落ちてゆく気がしていた。無意識のうちに拳をにぎる。

「――な」

 喉が震えて、声が出た。誰かが聞き返す。次の瞬間、アニーの口から、今までにないような低くおどろおどろしい音がもれていた。

「ふざけんな」

 決して大声ではなかった。なのに、その一声は、誰もに届いていた。

 発した張本人は、人々の反応を見ることもせず、反転して走り出す。とにかくロトとエルフリーデを追いかける、そればかり考えていた。

「ま、待ってアニー! 一人は危ないよ!」

 フェイが追いかけてくる。そのことに、アニーは自分でも気づかないうちに安心していた。慌てふためく御者の制止の声をふりきって、子どもたちは霧の中へ飛びこんだ。

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