4 呪い

 ざわざわした気がした。何がざわついたのかはよくわからなかった。とにかくそれは、少女の目ざめをうながした。アニーは毛布にうずくまった体勢で目を開けて、ぼんやりとあたりを見回す。寮でなかったことにぎょっとしたが、すぐ冷静になった。遺跡の地下にもぐっていたのだと思い出す。しばらく地下の天井を見上げていると、視界の端を、ぼんやりと橙色が照らしていることに気づいた。目だけをそちらに動かしてみると、火のともった角灯があって、一人の青年がそれを持って座っていた。

 しばらくは彼の背中を見つめていたが、だんだん落ちつかなくなってきた。寝なおそうと思ってみたが、どうにも頭がさえてしまって、できなかった。しかたなくアニーは起きあがる。気持ちよさそうに寝息を立てている幼馴染を見つめた。

「まだ交代しなくてもいい」

 無愛想な声が聞こえた。アニーはそちらに目を向けると、わざと低い声で言い返す。

「そうじゃないよ。目、さめちゃったの」

「そうか。寝れそうか?」

「むり」

「……ああそう」

 ロトはアニーに背を向けていたが、苦笑したのだろうということは、声の調子でわかった。頬をふくらませたアニーは大きな背をにらみつけていたが、やがて目をしばたたく。思わず、じいっと目を凝らしてしまった。彼の右の背中、そこだけ、上着が裂けているのを見つけたのだ。いそいそと毛布から出たアニーは、這って彼のそばまで行き、上着の裂け目をのぞきこむ。暗がりで見づらいが、むきだしになった肌から薄く血がにじんでいるのがわかった。なんだよ、と問いかけられたアニーは言う。

「ロト、これ、さっき突撃したときの怪我?」

「は?……ああ、そんなのあったか? 気づかなかった」

「何それー。人には早く手当てしろって言ったくせに」

 魔物の群を突っ切ったあとのことを思い出し、アニーはわざととげとげしい声で言った。

「あー、はいよ。俺が悪うございました」

 すねたような返事に少しだけ優越感をおぼえたアニーは「私、手当てする」と言って道具をあさりはじめる。すぐに自己嫌悪の感情がわいてきたが、今は手当てが先、と言い聞かせて無視をする。薬草をすりつぶしたものが入った瓶を開けた彼女は、薬を塗るための棒をつかんだあと、あいた方の手で上着の破れ目をおさえるために、青年の肩に手を置いた。いざはじめよう、と意気込んだ彼女はしかし、息をのんで固まる。

「何、これ?」

 思わず、上着のむこうをまじまじと見つめてしまった。近づいてはじめて気づいたが、そこにあったのは肌色ではなかった。痣のように変色していたのである。しかも、痣の青紫色ではなかった。壊死する手前のような、それよりもさらに深い、黒色。不気味な黒には濃淡があって、よく見ると、うぞうぞ動いているようにも思える。

「っ――待て、そこは……!!」

 アニーがこみあげたものをこらえて息をのんだとき、しぼりだすような悲鳴があがる。今まで聞いたことのない切迫した声に、アニーはすくんだ。慌てて手をどけたが、もう遅い。ロトの右手が震えだし、角灯を取り落としそうになっているのに気がついた。

「ちょっと!」

 アニーはあせって横から角灯をつかむ。なんとか落ちずに済んだそれを、むりやりロトの手から奪い取り、地面に置いた。彼は抵抗しなかった。正確にはできなかったのだろう。アニーが角灯を置いたあとも、右手の震えはおさまっていなかった。

 アニーが唖然としている間に、ロトは背を丸めた。荒くなった呼吸を、必死で整えているようだった。しばらくして、アニーはそっと彼の顔をのぞきこんでみる。

「あ、の……痛かった?」

「――いや、大丈夫、だ」

 ロトは少しだけ顔を上げて、答えた。大丈夫という顔ではない。まっさおになって、額に汗をにじませて、左手で右腕をゆっくりとさすっている。

「やれやれ、いつもはこんな敏感じゃねえんだけど。今日は魔術を使いすぎたか」

 彼は明るい声を出し、さらに腕をさすり続ける。右手の震えはようやくおさまりはじめていた。

 ロトの指が大人しくなるまでの間、アニーは何もできなかった。気まずさを押しこんで、とりあえず彼の横に座ってみる。ややあって、笑うように揺れる吐息がもれた。

「俺も、人のことあれこれ言える立場じゃねえな。誰しも触れられたくないところはあるって、わかってたはずなのに」

「……え?」

「アニーもそうなんだろ?」

 ロトはそう言うと、手を離して、アニーの方に体を向ける。彼がそっと目を伏せると、少し長めのまつ毛が、深海色の瞳に影を落とした。

「悪かった」

 いきなり飛び出した謝罪に、アニーは目を白黒させた。戸惑ったすえに、あえてすました顔をしてみせる。

「い、いきなり何よ。そんな顔するなんて、ロトらしくない」

 するとロトは、わずかにうつむいたままで吹き出した。らしくないか、と言いながら笑う彼を見ていると、だんだんと居心地が悪くなってくる。しまいには彼女も頭を下げていた。何も考えていなかった。ただ、心の導くままに声を出していた。

「……私も、ごめんなさい」

 音になるかならないか。小さな謝罪はけれど、どうにかロトに届いたらしい。彼は「気にすんな」とだけ言って、アニーの金髪をくしゃくしゃとなでた。知らないうちに心にそびえていた壁が、ぼろぼろと崩れ落ちてゆくのを感じる。なでられながら、アニーは口を開いていた。

「あのさ。私、ときどきわけがわからなくなるんだ」

「ああ」

「でね。なんかね、目の前のものを倒さなきゃとか、追っ払わなきゃとか、殺さなきゃ、とか思っちゃうの」

「……うん」

「それで、気づいたら、めちゃくちゃ暴れててね。こっちに出てくる前から、何度もそれで、悪ガキにひどいけがさせちゃったりして、大人たちは毎回大騒ぎしてた。暴れる私を止めるのに、必死だったんだろうね、たぶん」

 また、鼻の奥がつんとする。泣きそうなのをこらえた少女は、わざとらしい笑顔をつくった。

「もっと落ちつきなさいって何度も言われてきた。私も最初はがんばろうって思ってた。でも、なんでだろうね、何してもだめなんだ。フェイといるときは結構平気なんだけど、でもやっぱり、フェイをからかわれたりするとかっとなっちゃうんだ。変だよね」

 ロトは何も言わなかった。答えに困ったのだろうと、顔を見なくてもわかる。彼は黙ったままアニーを思いっきりなでて、それきりなでまわすのをやめた。大きな手のぬくもりが離れていくのが名残惜しい。アニーはそっと上を向くと、感情の読みとれないロトの目を見つめる。

「ねえ、ロト。訊いても、いい?」

「好きにしろ。おまえは言いたくないはずのこと、言ったんだ」

 ありがとう、と言ってから、アニーはためらいがちに切り出した。

「……背中にある黒いの、何? あざじゃないよね?」

 最初に返されたのは沈黙だった。辛抱強く待っていると、思いのほかはっきりと答えがある。

「呪いだよ」

 そう告げる青年の声は、ぞっとするほど冷たかった。


「のろ、い?」

 繰り返すと、喉が震えた。おとぎ話のような響きなのに、とても恐ろしい。ロトはいびつに唇をつりあげると、地面に置かれた角灯の火に手をかざす。「性悪な魔女がかけた呪いだ」という言葉を聞き、アニーは目をすがめた。

「……あのさ。私、冗談につきあってる余裕ないんだけど」

「俺が冗談を言う奴に見えるか?」

 大真面目に言い返されては、アニーも二の句を継げなくなる。ロトはまるで気にしていないように続けた。

「魔女が何かわからないってんなら、帰ってから先生に訊いてみろ。魔術にうとくてもそのくらいは教えてくれるだろ」

「……魔術のこと、質問すると、怒る先生が多いらしいんだ。教室の子が言ってた」

「なら、怒られたら俺のところに来い。しかたないから教えてやる」

 ロトは、そっと手をひっこめた。アニーは青年の横顔を見上げる。

「どんな呪いなの?」

 にわかには信じられないが、話を合わせてみることにした。ロトはわずかにためらってから、息を吸う。

「魔術を使ったり、強い魔力に触れたりすると、黒いのが少しずつ広がっていくんだ。俺の場合は、知り合いにいいようにしてもらってるから、広がりにくいんだけどな。最後には全身まっくろになるらしい」

 全身にあの黒いものが行き渡ったロトを想像すると、気分が悪くなった。アニーはうっと顔をゆがめる。

「もし、まっくろになったら、どうなるのよ」

「ん……黒いところは、力が入りにくくなるからなあ。もしそれが、『全部』を覆ったら」

 そのまま続けかけたロトは、ふっと言葉を切った。今はやめとくか、と言ってかぶりを振ったあと、アニーの肩を乱暴に叩く。

「さ、寝ろ。それとも見張り代わるか?」

 アニーは無言でうなずく。急にぞわりとして、悪寒を打ち消そうと拳を固めた。

 青年が続けようとした言葉を、想像してしまう。彼は最悪な終わりを迎えるかもしれない。可能性にすぎないとしても、知りたくなかった。

「なら、魔術を使うの、やめればいいのに」

 息をのむ音がした。気まずい沈黙の先に、自分を嘲笑う彼の声がこぼれ落ちる。

「――生粋きっすいの魔術師として育てられたんだ、は。だから、魔術なしじゃ生きられない。心も体も、そうなっちまってる」

 あっさりと贈られた答えの意味は、魔術と無縁だったアニーには理解できなかった。

 ただ、ロトが逃れようのないものにとらわれていることだけはわかって、どうしようもないくらいに、切なくなった。

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