5 苦悩、あるいは願い

 明かりの乏しい地下道に、白刃が閃いた。空中を滑った刃は、飛び出してきた四本足の獣の胴体をまっぷたつにする。たれ耳の犬のような魔物は、それこそ犬のような甲高い声をあげ、こげ茶色の血を噴き上げながら地面に落ちる。けれどその向こうから、さらに羽音とキィキィという鳴き声とともに、コウモリの群が飛び出してきた。まとわりつく銀色の光が尾を引いて、消える。

 どす黒い感情が。いや、感情とすらいえない、目に見えない波が襲ってくる。

 それはあるいは、敵意とも悪意とも、言いかえられるのだろう。たが、少女にはただ暗いものに映った。


 気持ちが悪い。怖い。振りきってしまわなければ、打ち払ってしまわなければ。私が、私が。


 熱いようで冷たいものが、ひたひたと、彼女のすべてを満たす。

 血臭たちこめる地下道のただ中で、アニーは息を吸った。コウモリたちの動きを目で追い、しとめられるものを確実にしとめる。剣を逃れたコウモリたちは、けれど直後、空中の水分を凝縮してつくられた氷でまるごと覆われてしまった。獲物の血を振りきりながら、少女の剣が氷を割り砕く。透明なかけらと鮮血が、ぱっと散った。

 影はまだまだ現れる。アニーは夢中で剣を振った。そうしてだんだん、頭がくらくらしてくるのを感じる。酔うってこういうことかなと、頭の中の冷たい部分が思った。ただ認識しているのは、においと、色と、暗いもの。目の前にある悪いものを打ち払わなければならないという意識。それはだんだん、強烈になって世界を侵していく。


 だめだと、冷静な部分がささやいた。これは覚えのある、危ない感覚だ。けれど、わかっていても、体は止まるものではない。それもまた知っていた。じょじょに、視界がいびつになっていくのを感じて――


「アニー!!」

 突然、大声が叩きつけられた。アニーははっと息をのむ。すうっと、感覚が静かになってゆく。さながら、頭から冷水をかけられたときのような気分だった。足もとがやけに不安定なことに気づき、慌てて下へ力をこめると、靴はかたいものを踏みしめた。大丈夫だ、地面はある。安堵の息を吐いた彼女はまず、自分の剣を見た。刃にはたくさん傷がついているが、まだこぼれはしていない。続けて体中をながめ、顔をしかめる。

「げっ」

 そんな声が漏れた。目立った外傷はないものの、ところどころにべっとり、こげ茶色の血がついている。まだ、ぬるりと生温かい感触があった。

「……あの」

 おさえられた声が響く。先程、アニーを呼んだのと同じ、幼馴染の声だ。彼女がそちらに視線をやると、フェイがうかがうように見つめてきていた。

「あ、フェイ。ごめん」

「うん。もう、魔物、みんなやっつけちゃったよ。……まあ、まだまだたくさんいるけど、襲ってこないし」

「そうだね」

 アニーは声を上げて笑い、それから剣を鞘に収めた。ぱちん、とつばと鞘が鳴る。同時にアニーはもう一人の息遣いに気づいて、目をみはった。背中を氷が滑り落ちていくような感じがした。おそるおそる、フェイのさらに後ろを見ると、そこには魔術師の青年が立っていた。「お疲れ」と無愛想に言った彼に、アニーはまごつきながらも、「うん、ありがとう」というようなことを返した。なんだか退屈そうにしているロトを、アニーはじっと見つめてしまう。そのうち、彼のつり目が細められた。

「なに」

「あっ、ええと……その」

 口を開いてみたものの、何を言っていいかわからない。結局うつむいてしまったアニーに、ロトは何も言わなかった。いつものように、ため息混じりの声で「行くか」と二人をうながして歩き出す。しょんぼりしたまま彼を追うアニーの背を、フェイが優しく叩いた。

「……難しいな」

 ロトがその様子を一瞥し、ぽつりと呟いていたことに、二人は気づかないままだった。

 

 地下道にまた、足音が響く。そこらじゅうから突き刺さってくる魔物の気配に、アニーは小さく震えた。戦いのさなかに感じた黒いものは、いまだ、薄い布のようにその辺りに漂っている気がした。薄布をびりびりに引き裂いたい衝動にかられ、自然と手が剣にのびる。けれどアニーは、自分の五指をむりやり止めた。

 模擬戦闘にしろ、実戦にしろ、戦ったあとにこの衝動が残ってしまうのはいつものことだ。ここは耐えなければ、フェイやロトにまで迷惑がかかってしまう。繰り返し言い聞かせて、ようやくアニーは自分の手が剣から離れていくのを感じた。

 ほっと息を吐いたとき、少し後ろから声が聞こえる。

「なんかさ、ごめんね」

 唐突な謝罪に、アニーは目を丸くした。え? と言って振り返ると、幼馴染は目を伏せて、唇をかるく噛んでいる。その表情には見覚えがある。彼が時折見せる、本当に切なそうな顔。かつては何度も見た。懐かしさと悔しさを同時に噛みしめ、飲み下し、アニーはかぶりを振って前を見た。

「なーんで謝るのよ! 変なの!」

 口をついて出た言葉は、やけにとんがっている。彼女自身が、不思議に思うほどに。その言葉に一瞬だけ震えたフェイは、けれど歩きながら、言葉を続けた。

「だって……思い返せばぼく、全然役に立ててないし。せめて、少しでも戦えたら――」

 フェイはそこで口を閉じた。だが、付き合いの長いアニーには、彼が何を言いたいのか、すぐにわかった。わかったからこそ腹が立つ。アニーが何かを言おうとしたところで、別の声が先手を打った。

「戦いなんぞにこだわっても、ろくなことがねえよ」

 静かな声で言ったのは、先頭のロトだった。二人は驚いて、つかのま立ち止まる。角灯の火にうながされるように再び歩き出すと、ロトの声も続いた。

「ここらへんに限って言えば、戦えなけりゃ死ぬ、なんていう物騒な状況でもないしな。武器をとらずに済むのなら、その方がいい。切り刻まれたり氷漬けにされたりしてる魔物を見ると、そう思わないか?」

「で、でも」

「――まあ、俺も似たようなこと、思ってた時期があった」

 反論しかけたフェイの声が、穏やかな言葉にさえぎられる。アニーとフェイがそろってぽかんとしていると、振り返ったロトが苦笑した。今までのふてくされたような雰囲気が鳴りを潜め、今の彼のまわりに漂っているのは、昔話をしてくれる親にも似た、苦味と静けさをはらんだ空気。彼が困ったようにしている理由ははっきりとせず、けれどアニーたちには、思い当たる節があった。――彼が魔術師であるということ。そして、「あまり魔術が使えない」という彼の言葉。

 そしてその予想は、おそらくは間違っていなかった。

「俺も、力のない人間だ。で、昔は力を求めた。あの頃、俺の故郷では力がすべてで、それがなけりゃ生きていくのも難しかったし。でも結局、どうにもならなかった。求めただけの力は手に入らなかった。でも、その代わりに得たものも、あったよ」

 知識とか人脈とかな。おどけたように言って、ロトは肩をすくめる。

 彼の言い回しは、いつにもなく曖昧で難しい。アニーにはそのすべてを理解することはできなかった。けれど、彼が本当に言いたいことは、なんとなく察した。彼はいささか乱暴に、落ち込んでいるフェイに言葉を投げつける。

「求めたり、努力したりするのはいいことだ。けど、どうしてもできないことを無理にしようとしたって、苦しいだけだろ。できることをするしかない。そう気を落とすもんじゃねえさ。戦いができない代わりに、おまえ、できのいい頭持ってんじゃねえか」

 ロトは、指で自分のこめかみをつつく。それでも、フェイは戸惑ったような顔をした。

「そう言われても」

 彼の声が小さくこぼれる。

 アニーとしては、フェイがあまりにも弱腰なので、ときどきいらつくこともある。そこに謙遜が含まれていることも、無意識のうちに感じ取っているからか。ただ、今回の彼の言葉はまぎれもない本心だろう。アニーは長い睫毛まつげを伏せて、自分の両手をそっと見た。「そう言われても」、自分でも、何度も繰り返した言葉が、頭に響く。

「――たとえば、さっきの祈祷杯の話。あれは大事な情報だぞ」

 暗くなりかけた空気を打ち破る声があった。唐突に口を開いたロトは、つま先で小さな石を蹴り上げる。石は、乾いた音を立てて転がった。思いもよらぬ単語に驚いたのか、フェイが弾かれたように顔をあげた。「そ、そうですか?」と小声で問う。ロトは小さくうなずいた。

「あれが祈祷杯ってことは、だ。少なくとも、かつて都市の神殿だったここでは、生贄を捧げる儀式かそれに近いことが行われてたってことだろ。これは、俺がフェルツ遺跡について調べたときには得られなかった情報だ。それが魔物の発生や守護獣に関係してくるかは、まだはっきりしねえけど、関係してる可能性はじゅうぶんにある」

「どうして?」

 アニーが前のめりになって問うと、ロトは少し考えたあとに答える。

「あの部屋に……あの紙と石板があったからだ。

猫みたいな狼みたいな、動物の絵が描いてあったろ? あれは、たぶん」

 珍しく饒舌になっていたロトは、けれど言葉を途中で切った。厳しい目で前を向き、闇の先をにらみつける。アニーは首をかしげたものの、すぐにその表情をひきしめた。

 ぴりりと、肌をなぞる鋭い空気。背筋がしびれて凍る。――闇の奥から感じたそれは、獰猛どうもうな殺意だ。

「なんか、来る」

 わかりきったことを口にして、アニーは剣に手をかける。しかし、身構えていたはずなのに、直後にはすくみあがってしまった。

――道の先から複数のうなり声が聞こえて、たくさんの目が光ったのである。漂ってくる銀色の光は、霧のようだった。

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