3 魔の影

 コウモリの死骸を踏まないように歩いていくと、少し広い場所に出た。学院の相談室と同じか、それより狭いくらいの場所である。けれどここには燭台の跡すらなく、やはり角灯が欠かせない。再び角灯の光を強めているロトの横で、アニーは大きく息を吸った。深呼吸をしたあと、そわそわとあたりを見回す。

「なんだろ、ここ。不思議な場所」

「そうだな」

 アニーの言葉に、ロトが苦い顔で同意した。

「どういうことをする場所だったんだろう。あそこに、机みたいなものがあるけど」

 フェイが不安そうに呟いた。彼の言うとおり、部屋の隅にはふみづくえが二台、くっつけて置いてある。上に、筆記具と思われるものが散乱していた。誰からともなく、机の方に歩いていき、のぞきこむ。散らばっているのは黄色く変色した紙で、ざらざらした表面には奇妙な文字が躍っている。「こんなの、見たことない」と呟くアニーの横から、ロトが身を乗り出した。

「ずいぶん昔の文字だな。九百年……いや、もっと前か?」

「そんなに!?」

「ですかっ!?」

 ロトの言葉に、アニーとフェイは同時に叫んだ。直後、慌てて口を押さえ、そうっと古い紙をのぞきこむ。紙には、狼とも大きな猫ともつかない動物の絵も描いてある。そしてよく見れば、紙だけでなく、文字の彫りこまれた石板があることにも気がついた。

「何が書いてあるんでしょう、これ」

 フェイが、紙や石板をまじまじと見つめる。

「専攻科の授業でやらないのか?」

「いや、古代文字なんて習いませんよ。……たぶん」

 少なくとも六回生ではやりません、と少年は自信なさげに首を振った。たとえ最上級生でも、授業でそれを習いはしないだろうと思ったアニーは、しかめっ面で首をひねる。

 空気が重くなった。それを打ち払うように、ロトがぱんっと手を叩く。「ま、ひとまず休憩にするぞ」と言い、二人の子どもを机の前から引きはがした。

 部屋になっているここには、不思議と魔物たちも寄りつかないようだ。それを確かめた三人は、朝食を摂ることにした。乾パンにかじりついたアニーは、しばらくもぐもぐと咀嚼そしゃくしてから、顔をしかめた。

「味ないー」

 情けない声がこぼれる。

 ぶつぶつと不満をこぼしながら食べるアニーを「文句言わないの」とフェイがたしなめる。だが、少しずつ乾パンをかじる彼もまた、顔をしかめていた。二人に対してロトは、いつもどおりの仏頂面だ。

「保存食なんてそんなもんだ」

 自分の分を食べ終えている彼は、水筒の水を一口含んで飲みこんだ。

「ロトは平気なの?」

「確かにまずいはまずいけどな。味気のない食事には慣れてる」

 乾パンに苦戦する子ども二人を放って、ロトは静かに立ちあがった。ずかずかと机の方へ歩いていき、足を止める。そしてそのまま、沈黙した。なんとかして自分の食事を終えたアニーは、無言になった青年の背に気づいて、首をひねった。

「ロト。どうかした?」

 呼びかけてみても返事がない。代わりに、何かを呟く声が聞こえた。

「どういうことだ。ここの人間、何を考えて……」

 アニーは、ちょうど乾パンをのみこんだフェイと、顔を見合わせ、首をひねる。水を飲んで荷物を整えた彼女はすくっと立ち上がり、ととと、とロトの後ろまで歩いていった。真剣に何事かを考えている青年を、後ろからのぞきこむ。

「ねえ、どうしたの」

 大きめの声で呼びかけると、ロトは、目をみはった。ゆっくりアニーを振り返ると「なんでもない」と力なく返す。アニーはなんでもない感じじゃない、と追及しかけるが、相手にさえぎられた。

「準備しといてくれ。こっちの仕事が終わったら出発する」

 そう言うなり彼は、自分の背嚢から紙とペンを取り出すと、机に向かいあって何やら書きものを始めた。アニーもフェイもふくらむばかりの疑問を抱えていたが、しかたなく言われたとおりに背嚢の中身を点検する。

 そして、ロトの作業が済んだところで、三人は四角い空間を出て、また細い道を歩きはじめた。

 

 部屋の先の道は、それまでより少し広かった。ところどころに燭台がとりつけてあるものの、そこに火は灯っていない。ロトの持つ角灯の明かりだけが、先頭で静かに揺らめいていた。

 アニーとフェイは緊張した面持ちで歩き続ける。先程から、あちこちで、羽音やうなり声、息遣いが聞こえてくるのだ。魔物だろう。「やっつけた方がいいんじゃない?」とアニーは提案したが、ロトは拒否した。

「むこうが襲ってこないなら、こちらから仕掛ける理由もない。無駄に体力を使うこともないしな。だから、無視しろ」

 なるほど、聞いてみればもっともな意見だ。アニーとしても必要のない戦いはしたくなかったので、その場では大人しくうなずいた。ただ、魔物独特の鋭い、というより怖い気配を無視するというのは、子どもたちにはきつかった。フェイなど、まっさおになりながら歩いている。

 相変わらず、地下はしんしんと冷えている。規則的に聞こえる三人分の足音が寒さを引きたてているように、アニーには思えた。こつ、こつと響き続ける硬質な靴音は――けれど、突然にやんだ。前を行くロトが立ち止まったことに気づき、アニーも慌てて足を止めた。直後、背中に衝撃がくる。「ぎゃっ」と悲鳴が聞こえる。フェイがぶつかったらしい。どんくさい、とアニーは思ったが、今は文句を言う気にはなれなかった。

「何、いきなり止まってどうしたの?」

 その代わり、青年にとげとげしい質問をぶつけた。ロトはすぐには答えない。ただ、むっと低い声を漏らして、角灯を持つ腕を伸ばした。照らし出された地面を、アニーとフェイは青年の背中からのぞきこむ。そして同時に、小さく息をのんだ。

「こっ、これって」

 地面に、不自然な穴があいている。何かが爆発したあとだと、アニーにはわかった。ゆらりと揺れた赤い光に目を細め、ロトが投げやりに答える。

「罠だな。地雷みたいなもんだ」

「でも、跡だけ残ってるってことは……」

「誰かが踏んだあと、ってこった。いつのことかは知らないけどな」

 彼の言葉に、さすがのアニーも沈黙する。狭い地下道に、地雷なんて置いて、よく崩れなかったなと、そんなことを思う。

「どこのどいつか知らねえが、犠牲者に感謝しないといけないな」

 なあ? と言っているような青瞳せいどうが、アニーたちを見つめる。彼らは、揃って、からくり人形のようにうなずいた。


 細くなったり太くなったりを繰り返す道を、静かに進んでゆく。最初に大穴を発見してからというもの、先々で罠の残骸を見かけるようになった。地雷系のものだけではない。天井から針が降ってくるものや、木の杭を踏みつけると、岩が転がってくるようなものもある。なんだか古臭いな、とアニーは思ったが、それは確かに人々を苦しめたようだった。

「すごい数の罠ですね」

 またひとつ残骸を踏み越えたあと、フェイがロトに向かって言う。青年は一瞬だけ振り返ったあと、前へ向き直った。

「それだけ、部外者を奥に入れたくなかった、ってことだろうな」

「ということは、守護獣もいるかもしれないんですよね……」

 呟いたフェイがうつむく。喜んでいるような怖がっているような、複雑な声だ。一方のロトも、「守護獣、ね」とこぼして顔をしかめた。彼は足を止め、ごつごつとしている壁を手でなでた。手袋に通した指が、続けて眉間に触れる。

「どうも、嫌な感じがするな」

 言った青年の顔色は、最初に見たときよりも悪くなっている。明かりでそれに気づいたアニーは、目を軽くみはった。

「どういうこと?」

「魔力が、進むにつれてどんどん濃くなってるんだよ。術師でもなけりゃ感じ取れないと思うが。――案外、あたりかもな」

 アニーとフェイは思わず顔を見合わせた。彼の言う「あたり」はおそらく、「魔物の大量発生の原因」がここにある、ということだろうと、さすがに察した。

「そういえば、ロトさんはどうして、フェルツ遺跡に原因があると思ったんですか?」

 再び靴音が鳴るなかで、フェイがロトを見上げて問うた。彼は数秒黙ったが、やがて前を見たまま答える。

「今みたいに魔力を探ったり、人里近くに下りてきた魔物の行動を観察してみたり、あとは足跡なんかを探したり。いろいろしてたんだ。そのうち、魔物のほとんどが同じ方向から来て同じ方向に逃げていくのに気づいてな。それを追っかけてみたら、フェルツ遺跡があったってわけだ」

 へえ、という声が、子どもたちの口から同時に漏れた。それを不快に思ったというよりは、ただ単純に空気が悪くて嫌だ、という雰囲気で、ロトが眉をひそめる。彼は乱暴に頭をかくと、一歩を踏み出した。

「ちっ。考えててもしかたないな。なるようにするしかない。行くぞ」

 つっけんどんに言い放ったロトは、そのままずんずんと歩いていってしまう。角灯の明かりが遠ざかり、あたりの闇が濃くなった。

「あ、こら! 待ちなさいよ!」

 憤慨して叫んだアニーが走り出し、フェイも慌てて後を追う。だが二人は、震動で天井が軽く軋んだ音を聞き、最初のロトの注意を思い出した。一気に速度を落として、とぼとぼとロトに追いつく。青年はそれを見てため息をついていたが、すぐに何事もなかったかのように歩きだした。

 その後、何度か曲がると、いきなり一本道に出た。そのまま角ばった通路が続く。自然ではありえない単調さになんだか気味が悪くなって、アニーは眉をひそめた。胸に渦巻くもやを振り払うつもりで、足を上げたとき――肌がしびれるのを感じて、止まった。

 ちりちりと嫌な感覚が頬をなでていく。後ろでフェイが声を上げていたが、耳に入っていなかった。前を見ると、ロトも立ち止まっている。

 先にはなんの生き物の気配もない。細い道が、不気味な暗闇にのみこまれていっているだけだ。

 だが、三人がしばらく息を殺して立ち止まっていると、闇の奥が唐突に光った。

 アニーは反射的に、剣に手を伸ばす。しかし今度、前に出たのはロトだった。

「おまえらは下がってろ!」

 潜めた声でそういうと、彼は闇をにらみつけた。

 直後、ごうっと空気がうなる。視界が、まっ赤になった。思わず目をつぶったアニーは、赤が薄らいだあと、おそるおそる目を開ける。愕然として固まった。

「火だ!」

 後ろからフェイの引きつった声がする。

 そう。奥から突然、火の球が飛んできたのだ。いくつも、いくつも。

 呆気にとられていたアニーは、けれどすぐに、はっとして叫んだ。

「ロト!」

 慌てるアニーとは対照的に、前にいる魔術師は、平然として火球を見ている。黙って、飛んでくる炎を受けとめるかのようにも見えたが――彼はふいにかがみこんだ。地面に指をつけてすばやくなぞる。指先の軌跡を描くように淡い光が走って、間もなく見慣れない図形が浮かびあがった。方陣だ。三角にひびを入れたような記号を四角形が囲んでいる。方陣は一瞬、強く明滅して消える。すると、岩がきりのように盛り上がった。

 錐に勢いよく一突きされた火球は、煙とともにかき消える。ロトはそれを何度も繰り返し、火球をすべて消してしまった。闇の奥から追撃が来ないことを確認した彼は、ぼこぼこになった地面を踏みしめ、五本の指で虚空を叩く。今度は水色の光が新たな方陣を描き、氷の刃を生み出した。氷は一直線に飛んでいき、やがて、黒に吸い込まれた。

 わずかな空隙の後、奥の方から何かの雄叫びが聞こえてくる。

「ひゃっ! な、何!?」

 悲鳴を上げるアニーの横で、ロトは顎に手を当てて考えていた。彼は少しして、ゆっくりと足を踏み出す。

「黙ってついてこい」

 彼は振り返らず、二人に向かってそう言った。二人は顔を見合わせ、眉間にしわを寄せながらも大人しくついていった。

 息を殺して歩きながら、アニーは前を行く青年を見る。何を考えているのかさっぱりわからない。アニーの理解が追いついていないというだけの可能性はあるが、フェイも難しそうな顔をしていた。

 せめてもうちょっと説明してくれればいいのに――そう思ってアニーはふてくされたが、すぐ後にまばたきした。

 わずかだが、道の先に銀色の光が見えたような気がした。

 だが、首をひねったアニーが目をこすり、じっとむこうを見てみても、やはり暗い地下道が広がっているばかりだ。おまけに、ロトが前にいるせいでよく見えない。横からのぞいてみようか、と踏み出したところで、当のロトがぴたりと止まった。

「わっ!」

 背中にぶつかりそうになり、アニーはたたらを踏んだ。しかしロトは、そんなことはどうでもいいと言わんばかりの態度で、前を指さす。

「見てみろ。声出すなよ」

 ロトに言われてその指を辿ったアニーは、叫びそうになって慌てて口を押さえた。背後から、フェイの息をのむ音も聞こえてくる。

 闇の中で、影がうごめいていた。獣の影だ。とがった耳、四足歩行、聞こえてくるうなり声……狼だろうか。だが、普通の狼とは何か違う気がする。目を凝らして見つめていたアニーは、影の前足に何かが刺さっているのを見つけた。

 それが氷だと分かった直後、獣の影が、地面を踏みしめた。だが、獣が飛びあがる直前に、ロトが後ろに手を回し、腰のあたりから何かを引き抜いて、投げる。投げたそれは相手の顔面に直撃した。獣は、凄まじい雄叫びをあげながら崩れ落ちた。

 あっという間の出来事だった。アニーも、フェイも唖然とした。ただ一人、ロトだけが平然と歩いていく。彼は、闇の中から二人を呼んだ。

「来い。大丈夫だ、もう襲われねえよ」

 アニーは少し迷ったが、息をのんで歩きだす。フェイもそっとついてきていた。二人がロトの隣まで行くと、彼は角灯で正面を照らした。横たわる狼の姿が浮かび上がった。眉間を短剣に貫かれ、絶命している。

「え……ひょっとしてこれ、さっきの一発?」

 アニーは思わず、上ずった声を上げる。ロトはあっさりとうなずいた。

「最初の術は、こいつがいることを確かめるために撃った。短剣これで確実に仕留めるためにな」

 ロトは狼の前にしゃがみこんで、短剣を引き抜いた。血に濡れた刃はよく見ると、普通より厚く鋭いもののようだ。「狩猟に使うやつでな。丈夫にできてる」と言いながら、彼は短剣の血をふきとって、腰の鞘に収める。

「そ、そうは言っても……ほ、ほんとにそれで殺しちゃったの?」

「狼の目も見えなかったのに、一発で見抜いたんですか!?」

 ひたすら驚いているアニーに続いて、青い顔のフェイも訊いた。魔術師の青年はあっけらかんと、「あの影と、動きを見てなんとなく」と答えて立ち上がった。険しい目で洞窟の奥を睨んでいる。

「それよりも、だ。この先は今まで以上に気をつけないとやばいぞ」

 怖いくらい真剣な声に、子どもたちは驚いた。

「どういうこと?」

「本格的に能力を使う魔物が出てきたんだ。この先、もっと強い魔物が出てきてもおかしくない」

 淡々と語る声につられるようにして、アニーは狼の死体を見下ろした。そして、息をのんだ。

 横たわるその姿はただの狼にしか見えなかったが、口のあたりには、確かに赤い残り火が漂っていて――全身は、もやにも似た銀色の光に覆われていたのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る