第一章 少女は今日も嵐を起こす
1 事件のあと
戦士から学者まで。それが、ヴェローネル学院の掲げる標語である。
六歳から十八歳までの子どもたちが学ぶ、国で一、二を争う名門校。学生の大半は、貴族か富豪の子弟だが、中には才能を認められ、試験を通過してきた平民の子もいる。他の学校に比べれば、ヴェローネル学院は開かれた学び舎だった。
とかく、学生たちは十二年間を費やし、学問に没頭し、教養を深め、未来を見いだしていくのである。
……ただし、中には「例外」も存在した。
「準備室に無断で侵入するにとどまらず、学院の『備品』をこうも見事に破壊するとは……何を考えているんだい、アニー・ロズヴェルト?」
刃にあたる部分の上半分が、ぽっきりと折れてしまった木剣を掲げながら、満面の笑みで言ったのは、教師のハリスである。今、彼の目の前でふてくされている問題児、アニー・ロズヴェルトの担任教師だ。
三十を超えた男の黒髪には、早くも白髪が混じりはじめており、顔にもしわが目立つ。だが、穏やかな顔つきは新任のころから変わらない。見る人をほっとさせるようなたれ目は、けれど、今は険しく細められていた。
ハリスと二人の生徒、つまりアニーとフェイがいるのは、学院の広大な敷地の北側に佇む建物、その、二階の隅にある小さな部屋だ。木製の床板と白壁で囲まれた部屋に、大きめの机が一台と、机を囲むように置かれた椅子が四脚。たったそれだけの、殺風景な部屋だった。『相談室』の通称で親しまれ、ふだんは教師と生徒の個人面談などに使われている。そして今は――説教のために使われていた。
アニーとフェイはそれぞれ、扉のある方に座っている。そして向かいあうのがハリス、というかたちだった。
「好奇心旺盛なのはけっこうだ。けど、決まりはちゃんと守らないと大変なことになる、と先生はいつも言っているよな?」
「……はい」
ハリスは、口を笑みのかたちにしてはいるものの、目が笑っていない。そんな教師の問いに、気圧されるように、アニーは低い声で返事をして、そっぽを向いた。隣のフェイが、気の毒なくらいに震えて、うつむいている。対照的な二人の様子を見たハリスは、ため息をついた。
「六回生といえば、専攻科学習も二年目に入る学年。後輩のお手本になってもらわないと、いけないんだけどね」
声には、呆れも
少年、フェイが急き立てられるように、口を開く。
「あ、あの。これ、弁償とか……あ、あります?」
フェイがこれと言ったのは、もちろん、アニーが踏んづけて折ってしまった木剣だ。目を瞬いたハリスは、木剣を横目で見てから、切なそうな表情になった。
「そういうことも、あるかもしれないね」
曖昧な言い方だ。二人が子どもだから、わざとややこしい話をぼかしたのだろうということに、アニーもフェイも気づいていた。フェイが、うなだれる。
「本当にすみません。ぼくが、止められればよかったのに……」
「うん。――確かに、もうちょっと頑張ってほしかったかな」
落ち込んだフェイを見て、ハリスは頬をかく。最後の方は、小声の呟きだった。
フェイ・グリュースターは、成績も授業態度も文句なしの優等生である。彼が説教を食らうときは、たいがい、アニーの暴走に巻き込まれたときだ。友達として、幼馴染として、問題児を止めてやればいいのにという意見が教師や生徒の中では多いのだが、気弱な性格が災いして、なかなかそうはいかない。
悲しい実態を知るハリスの、フェイを見る目には、あわれみがこめられている。だが、ハリスはすぐに目を閉じて感情を殺してしまうと、再び真剣な顔で二人を見た。
「とにかく、だ。備品を壊してしまった罰として、君たちには課題をこなしてもらうよ。放課後、またこの部屋に来なさい」
いっそ冷やかともいえる教師の言葉に、子どもたちの背筋が伸びる。けれど、直後、アニーが目を瞬いた。
「ちょ、ちょっと待ってください。……フェイも?」
彼女は言いながら、幼馴染を横目で見る。ハリスはうなずいた。
「一緒にいたのに止めなかったのだから、連帯責任を負うべきだよね」
厳しい意見に、フェイが背中を丸める。それでも、ハリスから目をそらさない。結果がわかっていたような目つきだった。対してアニーは、ちょっぴり気まずそうにしつつ、顔をしかめた。
今までは、アニーに強引に巻きこまれて、フェイもなんのかのと言いながら、結果的に「共犯者」になってしまったこともあった。だが、今回は違う。少女が少年を引きずっていったのは確かだが、彼はそこから先、何一つ手出しをしなかったのだ。それなのにお仕置きは一緒、というのが、ばつの悪さを覚えることだったのである。
が――もし、ここでフェイがおとがめなしになった場合、事を知った生徒たちからいい顔をされない可能性があった。成績がちょっといいからと言って、悪いことをしても何も言われないのか、と。ただ、まわりの人がどう思うか、などという話は、十一歳の少女には及びもつかぬことではある。アニーがふくれっ面になるのもしかたがなかった。
納得のいかない展開にアニーがむくれる。対して、ハリスはまた説教をしたそうな顔をした。
「あ、あの」
フェイがうろたえて口を開く。これ以上長引いたら、アニーの堪忍袋の緒が切れる、と冷えてゆく空気を肌で感じて悟ったのだった。
「大丈夫です。ぼく、やります」
慌てていた割には、しっかりとした口調で言った。大人びた態度の少年に、ハリスは眉を下げつつもうなずく。
「うん、わかった。では、放課後にもう一度、この部屋まで来なさい。課題はそのとき、言い渡す」
二人の生徒は、それぞれの表情で、教師の言葉を受け入れた。
静かな廊下を歩く少女は、不機嫌な顔のままだった。横を歩く少年は、幼馴染の様子を見ると、ため息をこぼす。
「だから、やめようって言ったじゃないか」
嘆息まじりの文句に、アニーは答えなかった。黙ってそっぽを向いただけだった。
アニーは気まずくて何も言えなかった。自分が説教されたことはともかく、フェイを巻きこんだことは悪いと思っているのだ。ふくれっ面の中に、かすかな悲しみの影がさしている。フェイは、しかたないなというような笑みを浮かべて、ため息をついた。
ひとけのない廊下を歩き、一度外に出る。穏やかな陽気のなか、緩やかに蛇行する石の道を歩くと、目の前に大きな扉が見えた。草花を模した彫刻の施された茶色い扉を開けると、
学院の敷地内には、ひとつの巨大な中庭をぐるりと囲むようにして、いくつかの建物が立ち並んでいる。そしてそれらの建物すべてをまとめてヴェローネル学院と呼んでいるのだ。『相談室』があったのは、北館と呼ばれる小さな建物。対して、今二人が入ったのは、西館と呼ばれる建物だ。十一歳から十八歳までの子どもたちのための教室が密集していて、入学後すぐの生徒たちがいる東館と並ぶ大きさを誇る。まるでお城みたいだ、と、アニーは常々思っていた。本物の城など、遠目からしか見たことがないけれど。
今はちょうど昼休みだ。廊下には生徒がひしめきあっている。小さな集団をつくっておしゃべりに花を咲かせる彼らは、時折無邪気な笑い声を弾けさせた。彼らの間を縫うように歩きながら、アニーとフェイも小声で話す。授業のこと、教室の人のこと。いつもどおりの話だが、説教の後とあってなんとなくぎこちない。
立ち話で盛り上がっていた生徒たちは、アニーとフェイがそばを通りすぎると、ふと口をつぐんで、二人の後ろ姿を目で追った。自分に吸い寄せられるように向く視線に気づいたアニーは、居心地の悪さに顔をしかめる。
二人が通りすぎた後を見計らっているつもりなのか。背後から、ひそひそと嫌な囁き声が聞こえてきた。
「あれ、アニーとフェイだ。ひょっとして、北館行ってたのかな?」
「そうでしょ。どうせまた、お説教だよ」
「ああやだやだ。これだから暴れん坊の問題児は」
「フェイくん、かわいそー」
「あいつだって、いい子ぶってるだけだろ。幼馴染があんなだからさ」
アニーはわざとらしく顎を突き出しながら歩いていたが、最後に聞こえてきた一言に肩を震わせた。唇をかむ彼女を、フェイがはっとしたように見る。
黙りこくって歩く少女の顔はまっ赤になって、くしゃくしゃに歪んでいる。今にも怒鳴り声を上げそうになっていたが、喉を鳴らして必死にこらえている。自分の感情と、幼馴染へ向く気持ちのはざまで、少女の心は揺れていた。
爆発寸前のアニーと、気を揉んでいるフェイの二人は、足早に廊下を歩く。ようやく、人の集団も嫌な話し声も途切れて、ほっと息をついた。
が、直後、彼らの前にひとりの少年が現れる。たまたま廊下を横切った彼と目があって、アニーが眉を上げた。横で、フェイはすくみあがる。そして、少年――クレマン・ウォードはおもしろがるように、笑った。
短く刈った黒髪の下で、いかにも意地悪そうな双眸が光っている。十一の子どもにしてはとても肉づきのよい、がっしりとした体をしていた。
彼は二人を順繰りに見るなり、わざとらしい大声を出す。
「よお、アニー。また説教くらったのか?」
挑発的な物言いに、アニーは鼻を鳴らした。
「別に、あんたには関係ないでしょ、クレマン。さっさと行ってくんない?」
「へっ。本当にお説教かよ。今度は何したんだ?」
「関係ないって言ってるでしょ」
嘲笑うクレマンに対し、アニーが語気を荒げ、重ねて言うと、少年は鼻白んで目を細める。
「なんだよ。感じわりー」
「どっちが!」
ぐるる、と獣のようにうなり出しそうなアニーと、彼女の反応を楽しむクレマン。二人を交互に見たフェイは、両手で頭を抱え込んだ。
学年屈指の問題児といじめっ子。二人の喧嘩はいつものことだが、フェイはそれを鷹揚に流せる人ではなかった。いつ殴り合いを始めるか、気が気でないのである。
それでも彼は、未だ言いあう二人を見て声を上げた。
「ね、ねえ。アニー」
「何よ!」
クレマンとの喧嘩に水を差されたアニーは、怒りをそのままフェイに向けて、にらみつける。フェイは今にも泣き出しそうなほどに顔を歪めたが、なんとか口を動かし続けていた。
「つ、つ、次の授業が始まっちゃうよ」
いつもより声を大きめにしてフェイが言うと、アニーはきょとんとしていた。すぐに不機嫌そうな声で「そうね」と言う。フェイの腕をぐいっとひっぱった。
「こんなバカ放っておいて、行きましょ。購買の前までは一緒だったよね」
「う、うん」
もはや他のことを言う気になれなかったフェイは、こくこくとうなずいた。そのまま、アニーに引きずられるようにして走り出す。
「バカはおまえの方だろうが、アニー・ロズヴェルト!」
途中、背後からそんな捨て台詞のような――けれどとても力強い文句が聞こえてきた。しかしアニーは眉ひとつ動かさず無視して、フェイを引きずって走っていったのである。
西館の購買近くでフェイと別れ、教室に戻り、アニーはうわの空で授業を受けた。剣の型の練習をしているとき、隣にいたクレマンが歯を見せて笑ってきたので、べーっといわんばかりに思いっきり舌を出してささやかな仕返しをしてやった。
そして放課後。北館の扉の前で合流したアニーとフェイは、先生が待っている部屋の前に立った。昼間見たばかりの『相談室』の扉は、木目を見せつけてそっけなく佇んでいる。
フェイが自然と前に出て、扉を二回叩いた。――奥から、「どうぞ」という声が上がり、アニーとフェイは顔を見合わせる。すでに、ハリス先生は来ていたようだ。
扉を開けると、昼間とまったく変わらないところにハリスが座っていた。二人を見ると、「やあ、来たな」と明るく言い、それから椅子を指さした。
「まあ、とりあえず座ってくれ」
二人の子供は言われるがままに座る。大人を想定して作られた机と椅子は、アニーたちには少し高いが、今の彼らにはそれを気にしている余裕がなかった。
わずかに顔をこわばらせた教え子たちを見て、ハリスが姿勢を正した。
「――よし。じゃあさっそくだが、結論から言おう。君たちにこなしてもらう課題が決まった」
「……なんですか?」
少女と少年が異口同音に訊き返す。ハリスはちらりとほほえむと、右の人さし指を天井に向けて立てた。
「一週間以内に、《雪月花》を探してくること。これが課題だよ」
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