第35話

「ねえ、孝くん。いつだったか、花火のときにピアノ弾けるって言ったでしょ」

 サオリは突然そんなことを言いだした。

 「ああ、そういえば、そんなこと言ったっけ」

 僕は長いあいだピアノを弾いていなかった。僕はいつもお母さんにせかされてピアノを弾いていたからだ。そしてそれを言うお母さんはいない。

 「もしよかったら、今から弾いてくれる?」

 サオリはじっと僕を見つめて言った。断る理由もないし、久しぶりにピアノを弾きたい気分にもなったので「いいよ」と言って僕はサオリと2階の楽器売り場へ行った。

 楽器屋にはピアノが何台か置いてあった。僕は一番値段の高いヤマハのアップライトピアノの前に座って、フタをあげた。とりあえずソシレを叩いてみた。久しぶりに聴く和音だった。

 「ああ、ピアノってこんな音がするのね」

 サオリはこの音を聴いただけで目を輝かせていた。まるで初めて音楽に触れるような様子だ。僕は続いて和音をいくつか弾いてみた。

 「わー、すごーい!いい音。孝くん、上手ね」

 「そ、そう?まだ一曲も弾いてないんだけどな」

 僕はサオリにほめられて舞い上がってしまった。イスに座って深呼吸する。サオリが期待に満ちた目で見ている。僕は今までに出た、どのコンクールや発表会よりも緊張した。

 ――タン、タ、タン・・・

 僕は『月光』を弾き始めた。もしかしたら、もうこのままコンクールに出ることはないかもしれない。それでも僕はこの曲を弾かずにはいられなかった。

 ――大事な人を思うつもりで弾いてみて・・・

 ピアノの先生の言葉を思い出す。あの時、僕はその言葉の意味がよくわからなかった。でも、今ならわかる。毎日の生活、学校、友達・・・すべてが愛おしかった。そして、お父さん、お母さん・・・。

 ――タン、タ、タン・・・

 僕は今までとは全く違う気持ちで「月光」を演奏していた。自分でも信じられないくらい音に感情を込めることができる。僕の想いが、僕の指先を通して鍵盤に伝わる。ピアノは僕の気持ちをまわりの空間へとへ広げてゆく。

 ――タン、タ、タン・・・

 完全に僕は音の中にいた。というよりも音と僕は一つになっていたんだ。サオリがそばで聴いていることは忘れてしまった。ピアノと、僕だけだった。

 会いたい・・・お母さんに会いたい・・・。家へ帰りたい・・・

 目をつむり、その想いだけを込めた「月光」を僕は静かに弾き終えた。知らない間に僕は泣いていた。


 突然、拍手が聴こえた。目を向けると、サオリが涙を流して手をたたいている。そしていつの間にか、カッコも英ちゃんもいた。同じように2人も泣いていた。

 「孝くん・・・とってもよかった。キミの気持ちが音をとおして伝わってきたよ。大切な人に会いたいって、家に帰りたいってね。言葉に出さなくても、伝わることってあるんだね・・・」

 サオリはハンカチで目をぬぐった。それでも涙がとめどなくあふれてくるようだった。それを見ている僕も、英ちゃんも、カッコもやっぱり涙が止まらない。僕らは楽器屋の中で声を上げて泣いた。

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