第9話

 譜面台にはベートーベンの『月光』第1楽章がのっている。来週のコンクールで弾く曲だ。僕は3歳のときからピアノを習っている。自分で言うのもなんだけど、同じピアノ教室の子達よりは上手く弾けると思ってる。でも、実は、最近あまり弾くのが楽しくない。

  ――タン、タ、タン・・・

 『月光』の悲しく、美しいメロディーを楽譜通りに、正確に弾いていく。この曲くらいなら、僕は止まることなく弾けるんだ。でもピアノの先生は、それだけじゃダメだって言う。

「心を込めて弾くの。孝之くんは上手なんだけど、まるで機械が演奏しているみたいなのよ。言い方が悪いかもしれないけれど、うわっつらだけしかなぞっていないの。この『月光』はベートーベンが愛する人にささげるために作った曲なの。だから、大事な人を思うつもりで弾いてみて。まだ、そういうのって孝之くんには無理かなあ・・・」

 無理だよ。だって僕、べつに好きな女の子なんていないし、ザリガニとっている方が楽しいんだもん。大事な人を思うって、意味がわかんないよ。

 それでも僕は来週には出なきゃならないコンクールのために、譜面通りにピアノを弾き続けた。

 ・・・最初、それは小さすぎて気がつかなかった。ピアノに集中していたからだろう。そのうちに、なんだかめまいがするような気がしてきた。

「地震だ!」

 そう気づいた頃には、揺れはだいぶ大きくなっていた。こんな揺れ方、初めてだ。僕はあわてて、カベにぶつかりながら階段を降りた。家中がグラグラときしんでいる。外だ。外に出なきゃ。

 靴ひもをむすぶヒマなんかない。僕は靴を抱えてはだしで外に飛び出した。振り返って家を見ると、左右に大きく揺れていた。僕は十字路にへたりこんだ。わあーと言いながら英ちゃんも家から飛び出してきた。あんまり怖くて二人で抱き合った。揺れはどんどん激しくなる。坂の上を見ると、カッコが大泣きしてよろめきながらこちらへやってくる。

「カッコ!早く来―い!」

「急げ!走れよお!」

 僕と英ちゃんは口々に叫んだ。カッコのすぐ後ろでめりめりと電柱が倒れた。もはや立っていられないほどの大地震だった。ごおおん、がああん、どおおんという色々なものの崩れる音が僕らの声をかき消した。どかん、どかんと僕らは何度も下から突き上げられた。

 ――いやだ。死にたくない。お母さん!

 頭をおさえ、目をつぶって地面に伏せていると、ようやくのことで揺れもおさまってきたようだった。

 そして、ついに、止まった。

 しいんとした中で、カッコの泣き声だけがあたりにひびいている。

 僕はおそるおそる目を開け、周りを見回した。信じられなかった。

 あたりはもうもうと茶色の煙が立ち込め、ほとんどの家がつぶれていた。僕の家もとなりの田代さんの家に寄りかかるようにして倒れかかっていた。英ちゃんの家は見事にぺしゃんこになっていた。

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