第47話 42
この世で一番美味なる野菜は
二番目は夏の
だがそのどれも、今日は美味いと感じない。
何かを快いと感じる器官が麻痺しているせいだ。
りり、りり、と。
軒に吊られた葦籠の中で、鈴虫が鳴いている。
俺は食べかけの野菜を籠に押し込み、縁側に腰を下ろす。
墨を凍らせたかのような、冷涼な夜空。
池に映る満月は亀が泳ぐたびに揺らめき、庭を通り過ぎる夜風が白い玉砂利を転がす。
額に手を当て、目を閉じる。
ささくれ立っていた心が少しずつ凪を取り戻していく。
オリューシアは恐竜人類だった。
何故だ、とは考えなかった。
鳥に向かって何故お前は鳥なんだと問うても仕方ない。
彼女は恐竜人類で、もはやその事実が動くことはない。
あぐらを組み、水底へ沈むようにして出会いを思い出す。
俺の砦に現れた彼女は、兵を引き連れていた。
兵たちは明らかにエーデルホルンの人間で、俺達に砦から立ち去ることを勧めた。
その時点で俺は彼女を訝しんだ。
あの場に留まる方が恐竜を迎撃する上では有効だというのに、わざわざ撤退を促す彼女に不信感を抱いたのだ。
だが真偽を追求する間もなく冒涜大陸へ引きずり込まれた。
それから、彼女はずっと一緒だった。
銀羽紫の卵を踏み、アロに追われ、川を流された時も。
洞窟に身を潜めた時も。森の中で夜を過ごした時も。
それから――――
(……)
ほろ苦い感傷に浸りかけた俺は自らの頬を叩く。
今は懐かしんでいる場合ではない。
考えるべき「何故」は多い。
①何故、オリューシアを騙ったのか。
②何故、葦原へ来たのか。
③何故、俺を襲わなかったのか。
④何故、誰にも露見しなかったのか。
この内、①彼女がオリューシアを騙った理由と②葦原へ来た目的は本人に聞かない限り分からない。
また、この二つに紐づく③俺を襲わなかった理由も現時点では不明だ。
今の俺に推測できるのは最後の一つ。
彼女が恐竜人類であることに誰一人気づけなかったのは何故か、という命題だ。
彼女の腿や腰骨付近は鱗に覆われていた。
普通に生活していれば露出する部位ではないのだが、それでも気付く機会は何度もあったはずだ。
何故俺や俺の周囲の人間はそれを見落としてしまったのか。
まず葦原。
砦には俺の護衛である忍者二人と目端の利くトヨチカがいた。
だが誰一人、シアが恐竜人類であることを見抜けなかった。
仕方ないと言えば仕方ない。
この時の彼女は肌を露出しない軍服に身を包んでいた。かなり丹念に調べでもしない限り、腿がどうなっているかなど分かりはしない。
次に冒涜大陸。
ここでは――
(!)
そうだ。
あれは確か樹上で夜を過ごした時のこと。
彼女は川の水に濡れた服を脱ぎ、身体を拭いた。
俺は目を逸らしていたが、もし振り向いていたら彼女の身体の異常に気付けたのではないか。
悔しさらしき感情が喉までせり上がったところで、はたと気づく。
(何でそんな危ないことをした……?)
あの時シアは身体を拭く前に俺を挑発するようなそぶりを見せた。確か身体には自信があるとかないとか、そんな言葉で。
俺は確か――羞恥に語調を荒げた。いいからさっさと拭け、と。
自分がもし正体を隠した恐竜人類だったら、挑発どころか着替えすらしない。肌が露出するような状況は極力避けるだろう。
だが彼女はあえてそれをやった。
理由は――――
(俺を試すため……)
彼女は冒涜大陸を単独で突破できるほど強くはなかった。
俺と協力しなければならず、長期間行動を共にする必要にも迫られていた。
そこで問題になるのが俺の『目』だ。
いつ
あるいは着替えを覗かれてしまうかも知れない。
だから彼女はあの時、俺を試し、反応を探ったのだ。
俺が女の裸を覗き見るような男であるかどうか。
衣服の破れた女を正視できる男なのか、それとも反射的に目を逸らしてしまう男なのか。
俺の反応に彼女は満足したに違いない。
何せ俺は上着を少しはだけられただけで顔を赤くし、顔を背けてしまったのだから。
逆に、もし着替えを覗いていたら、寝入った隙に喉を掻き切られていたかも知れない。
(……)
こうして考えてみると、彼女が唐やブアンプラーナであえて脚を露出させる服を着用していた理由も想像がつく。
仮に俺が彼女の立場ならシャク=シャカが着るような男物の軍服を着るだろう。
常に肌を隠していれば鱗のことなど露見しようがないからだ。
だが既に冒涜大陸の恐竜は俺たちの世界に侵入し始めていた。
奴らの爪や牙は人間の衣服など容易に裂いてしまう。
どれほど分厚い衣服に身を包んでも、何かの拍子に鱗が見えてしまう危険性があった。
そしてそれを目撃する可能性が最も高いのは、戦闘時に後方へ下がり、常に周囲を観察する弓兵――つまり俺だ。
だから彼女は逆の発想に至った。
俺が
『初めから脚を晒しておけば、ワカツは自然と脚から目を逸らす』と考えたのだ。
彼女の考えは間違っていない。
衣服で隠されているのなら、俺は女の股にも胸にも尻にも目をやる。必要であれば凝視もするだろう。
だが素肌を晒されたら、思わず目を逸らしてしまう。
裂けたズボンの下に見える鱗と、スカートやスリットドレスからちらりと覗いた鱗。
目撃したのが前者なら俺は彼女の脚を掴んで激しく詰問しただろう。
だが後者なら、目を逸らす。自分の目を疑うだろうし、はぐらかされたり下卑た話にすり替えられたらそれ以上追求できない。
そこに彼女お得意の屁理屈をかぶせられたら終わりだ。
俺は完全に手玉に取られていたらしい。
他の『十弓』ならこうも簡単に騙されたりはしなかっただろう。
それを思うと情けなくもあり、恥ずかしくもあった。
思考を先へ進めたところで、違和感を覚える。
(……。おかしい)
確かに俺は色香で惑わすことができる。
だがルーヴェはどうだろう。
五感を統合されたルーヴェが彼女の『鱗』に気付かないわけがない。
もちろん、誤認する可能性はある。
ルーヴェは恐竜の骨を道具にしていた。シアが『鱗を帯にして巻いている』と考えたのかもしれない。
だが時が経つにつれ、おかしいと分かるはずだ。完全に皮膚と同化した鱗と、道具に加工された鱗では匂いが全く違うはず。
なのにルーヴェは一度もそのことを口にしなかった。
気づいていたのに言わない。
それは彼女が口止めされていたことを意味する。
(!)
そうだ。
彼女は早い時点でルーヴェに真実を明かし、口止めを頼んだに違いない。ワカツにはこの事を言うな、と。
ルーヴェはそれを承諾したのだ。
(あいつ……!)
込み上げる怒りが、ふっと灰のように散った。
よくよく考えてみれば、それは俺も同じだ。
俺はルーヴェの「五感統合」の件を彼女に直接話してはいない。
なぜなら俺は――心のどこかで彼女のことを信用してはいなかったからだ。
ともすれば唐の連中のようにルーヴェを攫い、利用する可能性があるのではないかとさえ考えていた。
彼女もそれは同じだろう。
俺は初めて会った時、彼女に対する不信を顔に出し、口にも出した。
その後も定期的に彼女を探り、訝しむような言動を繰り返した。
彼女は俺を警戒した。
俺を利用することは考えても、信用しようとは思わなかった。
辿れば辿るほど、俺と彼女の関係は歪だった。
俺たちを結んでいたのは『不信』という感情だった。
俺と彼女に挟まれたルーヴェは、そのことをどう感じていたのだろう。
籠の中の鈴虫は、ゆっくりと翅を動かしている。
風が吹き、宵闇に抗う灯篭の火が嘲るように揺れた。
「……」
暗澹たる思いに駆られながら思考を先へ進める。
恐竜人類、アキやヨルは彼女のことを知らなかった。
驚いた様子も、違和感を覚えた様子もなかった。
戦い方や前後の経緯、顛末を見る限り、演技をしていたようにも見えない。
おそらく彼女とアキ達の間に協力関係は敷かれていない。
そう言えば、彼女とアキ達の間には厳然とした外見上の違いが存在する。
彼女の肉体で恐竜人類らしい部分と言えば鱗だけだ。
尾も、翼も持っていない。
目は黒で、緑色などではない。
これは一体どういうことなのか。
(……)
ともかく、恐竜人類たちは彼女の仲間ではなかった。
アキ、ヨル。そしてブアンプラーナの老婆。
恐竜人類たちは彼女を明らかに他の人間と同列の存在として扱っていた。
これが何を意味するのかは分からない。
ただ、彼女が恐竜人類と通じていたわけではないという推測は俺に僅かな安堵感をもたらした。
そして、唐。
大きな疑問が横たわっているのはここでの出来事だ。
彼女は俺やルーヴェとは別室に監禁されていた。
その時、確実に身体検査を受けている。それに香油を塗り込まれていた。素性が露見しないわけがない。
だが、誰も彼女の正体に気付かなかった。
これが何より不可解だ。
後にコンピーの襲撃があった際、俺とルーヴェは昏倒した彼女を目撃した。
うっかりすると誰かに正体を知られてもおかしくない状況だ。
現に俺は彼女を担いだ。もう少しで鱗に気付くところだった。
だが、気づけなかった。
彼女の身体に鱗らしき感触は存在しなかった。
上から皮膚に近い素材でも被せていたのだろうか。
そうだとして、そんなものが都合よく部屋に落ちているだろうか。いや、そんなわけがない。
可能性は二つ。
一つ。彼女は何らかの方法で全裸になっても鱗を隠し通した。
一つ。彼女には「共犯者」がいた。
状況を見るに、二つ目の可能性が高い。
あの時、シアを助けた者がいた。
そいつは身体検査や按摩、聴取といった「おもてなし」を管理することができる人物で、兵が妙なことを考えないよう釘を刺せる人物。
それでいて、後で問題が起きた時に揉み消せる程度の権力と、それを実行する胆力のある人物。
俺の知る限り、該当するのは二人。
ただし一人は盲目だった。
つまり、シアを助けたのはもう片方だ。
(ハンリ=バンリ……!)
元からそうした関係だったのか、その場で何らかの取引があったのかは分からない。
ただ、奴が彼女に手を貸したのなら色々と筋が通る。
思い起こせば、彼女とバンリが対面で話している姿はほとんど見かけなかった。
会話の端々から違和感がこぼれるのを防ぐためなのかも知れない。
ルーヴェはあの時点で彼女側の人間だった。
そこにハンリ=バンリが加われば俺を騙し遂すことなど眉毛を抜くより容易い。
かくて俺は騙されたまま、唐を後にした。
冷たい風が吹き、じりりと膝が痛んだ。
冒涜大陸でついた傷だ。
「……」
最後はブアンプラーナ。
彼女にとっては幸いなことに、シャク=シャカは色に興味を示さなかった。
俺は頓馬で、ルーヴェは味方。
順風満帆だと考えていたに違いない。
だがセルディナがすべてを台無しにした。
彼は大勢の猛者をかき集め、更に俺を恫喝することで救助作戦に参加させることに成功した。
ここで初めて彼女は焦った。
横には大勢の猛者。行く手には大勢の恐竜。自分の素性が露見する危険性がある。
だから彼女は一刻も早くあの場を去ろうとしていたのだ。
彼女が危惧した通り、俺は水中で彼女の脚を見てしまった。
そして彼女が期待した通り、目の錯覚だと考えた。
だが彼女の悪運もそこで尽きた。
彼女の素性を探った『十弓』が葦原で待ち構えていた。
――そして今に至る。
りり、りり、と。
再び鈴虫が鳴き始めた。
とぷん、と。
亀が池の満月を揺らめかせる。
(……)
これで疑問の一つが氷解した。
彼女は俺を騙すためルーヴェやハンリ=バンリを味方に引き込んでいたのだ。
そして――――
いや、それはつまり――――
――――
そこまで考え、気付く。
俺は彼女を全く理解していないことに。
彼女はかくて俺を騙した。 ――――それで?
それを知ってどうするんだ。
彼女に告げて悦に入るのか。
彼女が俺を騙した方法を明らかにしたところで、事態が好転するのか。
「……」
俺は自らの額を拳でがつんと殴った。
そうだ。
俺に知り得る事情など、知っても無意味な事情なのだ。
俺が本当に考えるべきは「今分かることは何か」などではない。
俺は彼女をどうしたいのか。
その為に何が必要なのかが重要なのだ。
立ち上がり、屋敷を出る。
水底のように暗い牢獄だった。
分厚い扉の向こうで、彼女は拘束衣を着せられていた。
両脚は錠で繋がれており、顔には布袋を被せられている。
元々表情に乏しい女だが、今は文字通り完全な「無表情」。
いや。
こいつはたまに笑っていた。
動物を見た時。美味いものを食べた時。俺をからかう時。
脈絡のない雰囲気の変わりように俺はずいぶん戸惑ったものだった。
女はやはりよく分からない。そんなことを思いながら。
布袋が外され、汗で乱れた山吹色の髪が露わになった。
彼女は萎れかけた花のようだった。
「……あなたですか」
目配せで牢屋番に退出を命じる。
改まって対面すると、何を言えばいいのか分からなかった。
彼女は三位に射られてすぐに捕縛、護送されてしまったため話す機会が無かったのだ。
俺にできたのは牢屋番にまともな奴を遇するよう嘆願することだけ。
通ったのかどうかは知らないが、少なくとも女の牢屋番がついたことだけは喜ぶべきなのだろう。
たっぷり数十秒の沈黙を経て、俺の喉が震えた。
「何で黙ってたんだ」
更にたっぷり数十秒の沈黙。
「なぜ話すと思ったんですか?」
「……」
共に死線を越えたから。
いや、違う。
俺は隠し事をされるのが嫌いだからだ。
その本音に触れた瞬間、俺は自分を恥じた。
俺は小さな男だ。
「言ってくれたら力になれたかも知れない」
「何のですか」
「……」
「私が誰で、なぜここにいるのかも分からないあなたに何ができるんですか」
拒絶ではない。事実を示されただけだ。
俺は頭の冴えた男ではなく、駆け引きに長ける男でもない。
まんまと彼女に騙された俺が、彼女の役に立てるわけがない。
頭では分かっていた。
ただ、頭以外のすべてがそれを拒んでいた。
「お前、誰だよ」
返答は無い。
「何で葦原に来たんだ?」
返答は無い。
「何で俺を襲わなかった? 何で正体を隠した?」
やはり返答は無い。
空気が薬液のようにとろみを帯びる。
彼女の瞬きがひどく緩慢に見え、手を動かそうにも空気がねっとりと全身に絡むようだった。
「あなたには関係ないことです」
突き放され、思わず食い下がる。
「ある」
彼女の眉がぴくりと動いた。
そこで俺は何の考えも無しに「ある」と答えたことに気付く。
後付けのように、もう一つの本音が漏れ出す。
「お前には色々……助けてもらった恩がある。そんな目に遭わせておきたくない」
「人の一生に貸し借りはつきものです。いちいち指を折って、返し返されて生きていくつもりですか」
第一、と彼女は続ける。笑みと共に。
「私がアキ達の間諜だったらどうするつもりですか?」
「……!」
「あなたを騙していたのはアキ達に人類の情報を流すためだったら? それでもあなたは私の力になりましたか?」
その可能性は低い。
なぜならヨルやあの老婆は明らかに全力で彼女を殺そうとしていたからだ。
特に後者が手を抜いていた場合、シャク=シャカが確実に気づいていただろう。
理屈が口を飛び出すより早く、彼女が言葉を被せる。
「身の程知らずという言葉を知っていますか、ワカツ九位」
薄笑みを向けられ、かちんと頭の中で火打石が鳴る。
「あなたは私に騙された。そのあなたが「身の程なんか知るかよ」」
ずかずかと踏み寄り、彼女の頬をぎゅっと挟む。
「知らねえよ。知ってたら九位なんかやってねえよ」
「ああ、そうでしたね。あなたは人の上に立つ才覚も、人の機微も分から「うるせえ」」
今度は俺が言葉を被せる番だった。
「身の程を知ってたらそんなに偉いかよ……! バカだから黙る、弱いから抵抗しない、貧乏だから支配されるのがそんなに偉いかよ!」
顔面の血管と筋肉がびちびちと音を立てる。
顔を近づけ、歯を剥く。
「俺には関係ないだと? てめえ俺と一体何日一緒にいたと思ってるんだよ……! 何度死にかけて、何度助けたり助けられたりしたと思ってるんだよ! 関係ないわけないだろ。関係ないわけが……!」
「――――」
様々な情景が去来し、言葉が詰まる。
川を流され、追い回され、巨竜にひっくり返され、夜を過ごして。
見知らぬ女に出会って、銀竜に襲われ、頭蓋骨の山に出くわして。
恐竜人類を目撃して、唐へ逃げ込んで。
戦って。戦って。走って。戦って。
騙されていたから、あの時のすべてが嘘になるのか。無価値になるのか。
そんなはずがない。
そんなはずが――
だが彼女は首を振った。
「関係ないものはない。それだけです」
「うるせえ。だったら今ここで関係結んでやろうか!?」
言い終えたところで彼女の冷淡な目に気付く。
沸騰しかけた脳みその泡が少しだけ小さくなる。
「……。変な意味じゃない」
「でしょうね」
その落ち着きぶりにまた腹が立った。
彼女は『恐竜人類』として捕縛されている。
待ち受けているのは拷問だ。
あらゆる情報を吐くよう強いられ、搾られ、その後はおそらく―――解剖される。
恐ろしいんじゃないのか。逃げ出したいんじゃないのか。
藁にもすがる気持ちで、助けてほしいと思っているんじゃないのか。
それとも俺には、藁ほどの価値もないのか。
「……」
「……」
「帰ってください。そして二度と来ないで。あなたにできることは何もありません」
「……お前がどうやって俺を騙していたかは見当がついてる」
「そうですか。それで?」
「……。また来るからな」
乱暴な足取りで牢獄を出る。
「しっかり見張れ」
牢屋番に命じ、ずかずかと荒い足音を残しながら地下牢を去った。
夜気に触れるにつれ、怒りが薄らいでいく。
歩みが鈍り、全身を巡っていた血の流れが緩いものへと変わる。
心身を傷つけられたわけでもないのに、俺は打ちひしがれかけていた。
屋敷に帰り着くと、女中に出くわした。
「あら九位。こんな夜中にどうなさったんです?」
でっぷりした年嵩の女中は俺の姿を見るや目を丸くする。
無理もない。既に屋敷は夜に沈み、僅かな見回りの持つ灯りだけが死に損なった蛍のようにぼうっと光を放っている。
「散歩だ」
俺は女中をあしらったが、彼女は猫の大将のように俺についてきた。
「逢引き? 逢引きですか?」
「……」
年のせいか、女中はひどく馴れ馴れしかった。
もっとも彼女に限った話ではない。屋敷の者たちはおおむね俺を甘く見る。年に数度しか戻らない主のことなどないがしろにして当然だ。
「逢引きじゃない」
「へえ~え。そおですか」
これは明日には屋敷中に広まってしまいそうだ。
だが口止めをする気にもならない。
今は他人の評判など、どうでもいい。
ああ、と女中は思い出したように膝を叩く。
「いいものがありますよ」
「?」
女中が持って来たのは俺の好物だった。
野沢菜の砂糖漬け。
試しに齧ると、甘さが脳にじんと効いた。
「ああほら、美味しいでしょう? ねぇ?」
女中は自らが造ったであろう漬物の美味さを確認するように問うた。
応じる他なかったので、俺はこくりと頷く。
「そうでしょう? 戻ってから暗ーい顔してる九位様のこと心配して、皆で漬けたんですよぅ」
「それは……。……そうか。心配かけて済まない」
もうひと口、食べる。
心身の疲労はすっかり取れていたが、萎れかけた心に活力が満ちるのが分かった。
根までぼりぼりと咀嚼すると、女中は笑いを噛み殺した。
「本当、九位様は野兎みたいですねぇ」
「放っといてくれ。美味いものは美味いんだ」
そう言えば、と思い出す。
あの時も俺はこれを食っていた。
それからトヨチカとシアに――――
再び現れた俺の姿に、彼女は呆れているようだった。
覆いを取った牢屋番も迷惑そうな顔で退出する。
「眠らせないつもりですか。あなたはそういう姑息なことをする人だとは――」
「……覚えてるか」
俺が見せたのは瓶詰の野沢菜だった。
「?」
「覚えてないか。……でも俺は覚えてる」
中身を取り出し、しょりりと齧る。
砂糖水に漬けているので、甘い。
「あなた、味覚がおかしいんじゃないですか? よくそんなもの食べられますね」
「何でそう思うんだ」
「何でって……」
一拍置いて、彼女が凍り付く。
「そうだ。これは野沢菜の砂糖漬けだ。で、こっちが塩漬け」
俺は懐から取り出した瓶を隣に置く。
砂糖水に漬けた野菜と塩水に漬けた野菜。
視覚的には何の違いもない。
だが彼女はあの時、確かにこう言った。
――『……胸が焼けそうですね』、と。
「お前は見ただけでこれが『甘いもの』だと分かった」
俺と親しい者はこれが何であるかを知っている。
だが初対面の彼女には瓶の中身など知る由もない。
エーデルホルンに野菜を塩漬けにする文化はあれど、砂糖漬けする文化は無い。
いや、世界中のどこにも、野菜を砂糖漬けにする国は無い。
普通は、『野菜の塩漬けなんだ』と考えるはず。
なのに彼女は正解を言い当てた。一見すると何の違いもない塩と砂糖を、見ただけで区別して見せた。
それはつまり――――
「お前はあの時、味を『視てた』んだ」
ずいと顔を近づけ、襤褸布を巻き上げる。
鱗に覆われた腿と腰が露わになった。
「お前は恐竜人類じゃない」
この体質の持ち主を、俺はよく知っている。
その女は、冒涜大陸の内側に住んでいた。
「『人間と恐竜人類の混血』なんだろ? だから外見がアキ達とは違うし、五感が一部しか統合されてないんだ。お前は……ルーヴェと同じ体質を持ってる」
彼女の顔が、初めて強張った。
気のせいでなければ、俺は彼女の目に光のようなものを認めた。
「お前は――」
「! ワカツ。後ろ」
振り返る。
黒髪を靡かせた、ランゼツ三位が立っていた。
その手に『骨の矢』を携えて。
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