第40話 37



 しとしとと、また熱い雨が降り始めた。

 木や土の含む水分が煙となって辺りを漂う。

 


 爪と鱗の生えた脚がぬかるみを踏んだ。

 跳ねた土がガクキ=ガクシの生首を汚し、赤黒い断面から涙を思わせる血が伝う。


 老いた藤色の恐竜人類は何も言わず、ただ白い杖を手でなぞった。

 からりと鞘が取り払われ、鈍色の直剣が現れる。


 まず、赤いつむじ風が巻き起こった。


 地上に二度、銀色の半月が描かれる。

 身を捻って初撃をかわした老人は振り下ろされる刀に切っ先を添え、その軌道を逸らす。

 ぎゃりり、という不快音。

 続くシャク=シャカの蹴りを猫じみた動きで飛び越え、老婆が地を蹴った。


 合図も掛け声も交わさず、俺たちは一斉に得物を構える。

 誰もが直感していた。

 この老婆は、『敵』だと。


 二度、弦が鳴る。

 俺とカーリシュトラの矢が曲直の軌道で老躯に迫った。

 疾駆する老婆は一切速度を緩めず、僅かに回転しただけで二射を回避し、フデフサ翁の盾と激突した。


 翁は力ずくで老婆を打ち倒そうとしたが、剣を弾いた恐竜女は膝を曲げ、屈むような格好で一回転した。

 あっという間に二人はすれ違い、細い刃がアンヘルダートの長剣と衝突する。


 ぱっ、と。

 雨粒のごとき血の玉が白い甲冑を汚した。

 脚絆きゃはんに包まれたフデフサ翁の足首から赤い霧が吹き、老婆の得物を血が伝う。

 老婆はすれ違いざまに翁を斬っていたらしい。斬られた本人すら目を剥くほどの早業だった。


 恐竜人類と切り結ぶ白騎士の足元には溝が生まれていた。

 一歩分、二歩分、三歩分。

 アンヘルダートが老婆を押しとどめ、押し返しているのではない。

 気力も体力も充溢した若い騎士が老婆の一撃を受け切れず、押し倒されそうになっているのだ。

  

 真横から武士の太刀が突き込まれる。

 老婆は刃を重ねたまま顔を反らしてこれを避け、片手に生えるラプトルに似た爪で刃を掴んだ。

 ぐっと引き寄せられたアメヒサの姿に、逆方向から斬りかかろうとしていたシアがたたらを踏む。

 

 太刀から手を離した老婆が刃を弾き、ぐるんと一回転した。

 恐竜の脚を濡らす泥が散り、礫となって飛散する。

 三人の剣士が動きを止めた瞬間、老婆が舌なめずりした。


 そこへ、カーリシュトラが矢を放つ。

 が、老婆はそれを易々と掴み、小枝のようにへし折った。


 老婆はなおも踏み込もうとしたが、はっと振り返る。

 先ほどやり過ごしたシャク=シャカが赤い風と化し、老婆の眼前に迫っていた。

 老婆は腕を持ち上げようとしたが、間に合わないことは誰の目にも明らかだった。


 三日月状の剣閃が五度、風景を切り裂く。


 手を使わずに三度。

 女が横向きの宙返りを見せる。


 水を吸った泥が跳ね、快音が三度奏でられる。


 刀を振り終えたシャク=シャカは俺と視線をぶつけていた。

 その顔は槌を振るう職人のごとき渋面で、唇は真一文字に引き結ばれている。

 彼の刀は空気以外の何も斬ってはいなかった。


 ぱちゃっ、と。

 四度目の快音と共に、老婆が十数歩離れた場所に着地する。

 彼女の剣もまた、シャク=シャカを斬ってはいない。


 僅かに遅れ、シャク=シャカの放った五撃が風を生み、俺の睫毛を揺らした。

 弦を鳴らし終えた俺は呟く。


「蛇の矢」


 すどっ、と。

 一瞬前まで老婆の脚があった場所に矢が立つ。


 俺が射貫くはずだった五つ指の脚は、ほんの少しだけ持ち上げられていた。

 泥濘に立つ矢に老婆の脚が振り下ろされ、べきんとが折られた。




 そこでようやく、皆が呼吸した。

 



 濁った熱い息はフデフサ翁のもの。

 アンヘルとシアは肩を弾ませ、青ざめたアメヒサはぶつぶつと何事か呟きつつ片膝をつく。

 カーリシュトラは後ずさり、俺は額の汗を手の甲で拭った。


 背後では国民番号7731が雨粒を乗せた槍を振った。

 セルディナが息を長く吐く。


「あれが、そうなのか」


 禿頭の男がこれまで一度も見せたことのない闘気を漲らせていた。

 俺はゆっくりと頷く。

 

「恐竜女だ」


「強いです。かなり」


 シアは老婆に体側を向けていた。

 地に向いた切っ先がゆらりと揺れる。


「正直、この数でも討ち取れる未来が見えません」


「そいつも敗けたのか」


 フデフサ翁が小雨に打たれる褐色の長躯を示す。


「……唐最強の剣士、シャク=シャカが」


 驚く者はいない。

 今しがたの攻防を見れば誰もが同じ考えに至るだろう。

 あの男は今ここにいる誰よりも強い、と。


 だが俺はこう答えた。


「敗けました。相手によってはシャク=シャカでも敵わない」


 つまり『剣士』に限れば、ほぼ全人類が敵わない。


 その瞬間、シャク=シャカの顔面に血管が浮かんだ。

 踵を返した彼は葉も雨粒も弾く赤い風となって駆け――――老婆のいない場所に刀を振り下ろしている。


「!」


 金の芝生頭を脚で踏み、老婆が矢のごとく飛ぶ。


 その瞬間、時が凍るようだった。

 会話の間隙を突かれた俺達はまるで無防備だった。

 アンヘルダートの顔面目掛けて老婆の刃が迫る。

 馬鹿な、と叫ぶ間も無かった。


 鈍色の流星と化した老婆が――――セルディナの振る紫布に絡め取られ、あらぬ場所に落下する。


「っ!」


 老婆が初めて声らしきものを発した。

 ぬかるみで二度跳ねた恐竜人類は布を払いのけたが、そこに国民番号7731の放つ槍が迫る。

 長射程の槍は剣士の天敵だ。

 そして砂漠の国から来た戦士は紛うかたなき達人だった。


 国民番号7731が槍を振るったその瞬間、降る雨粒が真横に飛んだ。

 穂先と石突を交互に繰り出す連撃が雨粒を真横に散らしている。

 膝と脛を狙われた老婆は踏み込みがおぼつかず、その場で足踏みするように回避を続ける。


 僅かな隙を縫って踏み込んだ老婆が剣を振り上げると、そこにはセルディナが立っている。

 一瞬で国民番号7731を引き戻した拳士は入れ違いに老婆の眼前に踏み込んでいた。

 その踏み込みは力強く、泥が禿頭を越えるほどに跳ねている。


 槍兵が拳闘士に入れ替わった。

 射程が変動し、有効戦術が変化した。

 そのことに思い至った老婆の身体が一瞬停止する。


 その瞬間、セルディナが半回転しながら突っ込んだ。

 背と肩を前面に向けた強烈な体当たり。


 かっと目と口を見開いた老婆が唾を噴きながら吹き飛ばされた。

 優に十数歩分の距離を飛んだ老婆が蔓に巻き付かれた木の幹に叩き――――否、木の幹を蹴っている。

 蹴って、既に飛んでいる。


「……!」


 セルディナに迫る鈍色の一撃をフデフサの盾が受けた。

 俺とカーリシュトラの一射が老婆の左右に迫ったが、矢はいともたやすくかわされた。


 一回転した老婆目がけて二人の騎士が水平斬りを見舞う。

 これまでにない力強さで地を蹴った老婆は脛を斬るシアの刃と首を斬るアンヘルの刃のちょうど中間辺りを舞っていた。

 飛ぶのではなく、『舞った』。

 その身は独楽のごとく高速回転しており、水の礫が辺りに飛んでいる。

 剣を振り抜くシアとアンヘルが驚愕に青ざめた。


 老婆が着地したその瞬間、アメヒサと国民番号7731が斬りかかる。


「――」


 斬りかかった二人が、老婆が一本脚で着地していることに凍り付く。


 前かがみになりながら片脚で着地した老婆は両手で槍と刀を掴んでいる。

 剣はどこだ。

 誰もがそう感じた瞬間、はっしと老婆の片脚の爪が得物の柄を握る。


 彼女は回転しながら剣を手放し、片脚で着地し、もう片方の脚で剣を掴んだのだと気付く。

 気づくと同時に、俺は恐怖で叫びたくなる。

 この力量差。

 これは――――あんまりだ。


 老婆は無造作に得物を振るった。

 砂漠の戦士が拳で顔面を砕かれ、返す刃がアメヒサを掠める。


 朱を吸った筆のごとき切っ先が弧を描き、天を向いた。

 一瞬の後、アメヒサの腹からぐぷりとわたが飛び出した。


 くぶっと血を噴いた武士がふらつき、身を曲げながらぬかるみに突っ伏す。


「――、……」


 武士はなおもブツブツとうわ言らしきものを呟いていた。

 スピノに噛まれた彼の傷は熱を帯び、もはや正気を失いつつあるらしい。

 あるいはそのまま死ぬことが彼にとっては幸いなのかも知れない。


 バラバラと狼の骨が砕け、その破片が武士の蓬髪ほうはつに降り注いだ。

 半壊した仮面の持ち主は手で片手でそれを掴み、碗を放るがごとく老人に投げつける。

 老婆は地を両手で押すようにして飛び、僅かに早くこれをかわすが、その時にはもう俺の矢が彼女を睨んでいた。


 目が合う。

 何故だ、と目で問われる。

 何故目で追えるのだ、と。

 何故この『間』を読めるのだ、と。


 目で応じる。

 それが弓兵の仕事だ、と。


「――!」


 老婆は一瞬早く手足で正面を庇ったが、それは俺の思い通りの姿勢だった。

 俺の矢は蛇。

 正面を庇うのなら真横から射貫くだけだ。


 狙うのは、首。首の側面。

 俺は冷笑と共に矢を――――



 その瞬間、何が起きたのか分からなかった。

 俺はいつの間にか吹き飛ばされ、ほとんどまともに受け身も取れないまま地を跳ねる。



「ぐっ、ァ!」


 顔を上げた俺が見たのはシャク=シャカだった。

 彼は俺を押しのけ、老婆に斬りかかっていた。


 老婆は薄笑みらしきものを浮かべていた。

 シャク=シャカは確かに常識を超えた剣士だが、それでも剣士には変わりない。

 その剣閃が直線以外の軌道を描くことはない。


 宙を飛ぶ老婆は両腕を交差させた。

 振り下ろされる刀が、ばちんと恐竜の手に挟まれる。


「ッ?!」


 着地。

 老婆の周囲に大量の泥が跳ねる。

 その間もシャク=シャカの太刀は老いた手に掴まれたままだった。


 ぎりぎりと押し合う二人。

 アンヘルダートと違い、唐最強の剣士は老婆の膂力にかろうじて拮抗していた。

 褐色の全身に筋肉が浮き、巨躯は老躯を押し潰さんと迫る。


 だが老婆はただ笑い、ぱっと手を離して後躍した。

 更に背を向け、逃げ出すような素振りを見せる。


 地を蹴り、シャク=シャカがその背に追い縋る。

 老婆は既にそこにはいない。

 シャク=シャカの股をするりと抜け、背を踏み、自らの剣を抜き、俺達の方向へ飛んでいる。


「なっ、何やってるの、この間抜けっっ!!」


 聞いたことのない声が響いた。

 甲高い少女の声。

 見れば国民番号7731が素顔を晒していた。


 国民番号7731は女だった。

 灰の混じった白い目と淡い茶色の髪を持つ女。

 年は俺と同じか、それより若く見える。


「いっ、今の! 今のっ、絶対やれたのにっっ!!」


 そう。

 俺は老婆をれた。

 だが、れなかった。それがすべてだ。


「シャク=シャカ! こっちに合わせろ!」


 俺の放った蛇の矢を認めた老婆が空中で一回転し、着地する。

 その目が蜥蜴とかげのごとく細められた。


「できるかっっ!! てめえら遅すぎるんだよッッ!!」


 その通りだった。

 既に赤い風と化したシャク=シャカは自分を蹴った老婆に追いつかんと迫っている。

 俺達にあんな動きはできない。


 が、老婆は難なく刀の一撃をかわした。

 更に脚の爪で大量の泥を巻き上げ、シャク=シャカにぶち当てる。


 その瞬間、俺も含めた数名が気付いた。


「そいつ、あんたとは戦わない気だ!」


 老婆は既に悟っている。

 正面切ってシャク=シャカと戦えばただでは済まないということを。


 彼女がなぜここに居るのかは分からない。

 目的は斥候か、調査か、それ以外か。

 いずれにせよ、人間相手に命を賭けてまで戦いたいとは思っていないはず。


 ここに居るのは手練ればかりだ。生かしておけば恐竜たちの害になる。

 程々に数を減らし、引き揚げる。

 老婆はそう決めているらしい。


 シャク=シャカを通り過ぎた老躯が、シャク=シャカ以外には止められない藤の矢と化して飛ぶ。


「来るぞっ!!」


 セルディナの声。

 老婆は目まぐるしく左右に地を跳ね、俺達の目線を揺さぶり、迫る。

 右。左。右。左。右。左。――左。


 その瞬間、全員の呼吸が僅かに乱れた。

 ぎらりと目を光らせた老婆が手の中の泥を投げ、フデフサに盾を使わせる。

 アンヘルダートの面頬の死角に滑り込み、その身を盾にシアの剣をかわす。

 重厚な騎士の脚を掴んで転ばせ、拳闘士の拳をすり抜け、交差する俺とカーリシュトラの矢をかわした老婆が国民番号7731に迫る。


 雨粒をすり抜ける雀蜂のごとき早業。

 俺達の網膜に藤色の筆跡ふであとを残した老躯は既に7731の槍を弾き、その懐へ飛び込んでいる。


 刃が振られ、白い少女が飛び退く。


「っ!」


 間合いに踏み込まれた7731の動きは精彩を欠いていた。

 先ほどの攻防でほぼ攻め手を読まれたのだ。

 老婆の太刀筋は鋭く、先ほどとは打って変わって槍を弾き、石突をかわし、見る間に少女の命に迫る。


 援護は、遅い。


 一人一人なら俺たちは強い。

 だが所詮は寄せ集め。連携など望むべくもない。

 互いが互いの身を斬り、傷つけぬようにと配慮した結果、剣士たち、戦士たちの挙動は鈍る。


 もつれ合う戦士たちの向こうで老婆が槍を弾き、刃を振り上げた。

 7731が真っ青になる。


「っ蛇! 蛇ッッ!!」


「誰が蛇だ!!」


 最も身軽な俺はアンヘルの腰を踏み、フデフサの肩に乗り、そこから矢を放つ。

 しゃおお、と曲がる矢がついに老婆の脇腹の肉を掠め取った。

 それは僅かな質量に過ぎなかったが、確かに赤い血が噴いた。


「!」


 老婆が振り向き、驚くと同時に怒りを露わにした。

 俺は歯の裏で舌を鳴らし、挑発する。


 鎧と筋肉を押しのけ、さっと老婆の死角に飛び込んだカーリシュトラが矢を構えた。

 が、彼女は半歩距離を見誤っていた。

 遠すぎるのではない。

 近すぎる。


「よ――」


 よせ。やめろ。

 その一言が間に合わなかった。

 老婆が右足を軸に一回転したかと思うと身を伏せ、左足を軸に一回転し、また右足を軸に一回転して立ち上がる。

 僅かに遅れ、銀の刃が蛇じみた軌道で宙を動く。


 カーリシュトラはほとんど反射的に飛び退いていた。

 が、既に銀の刃は彼女を通り過ぎた後だった。


 着地した女弓兵は僅かに縮んでいた。

 彼女は自分の足元を見、足首から先が無いことに気付く。

 女弓兵がゆっくりと振り返る。

 彼女の両足首から先は靴のように行儀よく並び、元居た位置に残されていた。


 喉も裂けんばかりの絶叫が上がり、ぱっくりと切断された足首からぷしっと血が噴く。


「――――――!!!!」


 甲高い悲鳴が俺達の呼吸を乱し、集中を妨げた。

 老婆は崩れかける女弓兵の背後へ回り、人形師さながらにその腕を掴み、刃のついた弓でシアと切り結ぶ。


「ッ!」


 仲間と斬り合っている。

 だがその仲間は今にも死にかけており、半狂乱状態に陥っている。

 助けなければ。いや、殺さなければ。殺されるかも知れない。それに背後には恐竜人類が。


 冷徹そのもののシアの顔に躊躇と恐怖が浮かんだ。

 その刹那、老婆がぱっとカーリシュトラを離した。


 シアが目線を左右に走らせた。

 老婆は倒れ行く女弓兵の身体に隠れ、死角から斬りかかって来ると考えたのだ。

 

 警句を投げる暇もなかった。

 弓兵の股をくぐった老婆がシアを真下から両断する。


「――――!」


 いや、両断されたのは服だけだった。

 フデフサの肩を蹴って飛び降りた俺がすんでのところでシアの髪を掴み、引っ張っていたからだ。

 蝋燭の炎じみた後ろ髪を掴まれ、顔を反らすこととなったシアはかろうじて顎を裂かれるに留まる。


 黒いドレスが左右に分かたれ、繊維が黒羽のごとく舞う。

 ちぎい、と僅かに遅れて鎖帷子が悲鳴を上げる。

 老婆は不愉快そうに顔を顰めた。


 その矮躯目がけて、フデフサとセルディナの二人が一気に押し寄せる。

 拳や盾を操る『攻撃』ではなかった。

 圧倒的な体躯と筋肉による『暴力』。


 老婆は別方向へ跳ぼうとしたが、そこには甲冑姿のアンヘルが立ちはだかっている。

 大柄な男による、三方向からの圧殺。


 勝った。

 そう思った瞬間だった。


「!」


 セルディナを引き倒したシャク=シャカが飛び込み、老婆に斬りかかっていた。

 連携を妨げられた二人がよろめき、禿頭が泥に顔から突っ込む。

 肉薄する刃をアンヘルの腕で防いだ老婆はすかさずフデフサを蹴り、後方へ三度回転し、ぱちゃりとぬかるみに着地する。


 どちゃあ、とカーリシュトラが倒れた。

 横向きになった彼女の目は何も見ておらず、喉に開いた穴から赤黒い血液が広がっている。

 シアに斬りかかった瞬間、老婆が空いた手の指で喉を突いていたらしい。


 ぬかるみに沈んだアメヒサの唇は既に動いてはいなかった。

 ただ彼の残した呪怨にも似た呟きが雨音に紛れているように感じられる。


(……!)


 俺の頬を、冷たい汗が伝った。


 老婆は完全に俺たちを翻弄し始めている。

 このままでは野草を抜くような気安さで、一人ずつ息の根を止められてしまう。


 何とか――何とかしなければならない。

 

 いや、違う。

 何とかしなければならない相手は決まっている。


「おい、シャク=シャカ!」


 俺の叫びにも剣士は応じず、再び斬りかかった。

 老婆は軽やかに刀をかわし、俺たちの眼前へ飛び込もうと踏み込む。

 その足元に俺の矢が立った。


「!」


 老婆がひらりと布じみた動きで回転し、距離を取る。

 赤い剣士はそれを追おうとまた踏み込んだ。


「シャク=シャカ!! 聞け! 飛び出すな!!」


 彼はなおも銀の月を描き続けている。

 老婆は何度も何度もそれをかわしているが、決して反撃には転じない。

 守勢に徹すればかわしきれると確信しているのだ。

 その動きに込められた考えが、シャク=シャカをなおも滾らせる。


「おい! シャク=シャカ!」


 泥が跳ね、汗が飛ぶ。

 カーリシュトラの血がじわりとぬかるみに混じり、異臭を放つ。

 

 そこで、かっと頭に血が上った。


「!」

「!」


 俺の放った蛇の矢が急旋回し、老婆の顔ではなく唐の剣士の顔面を掠める。


「いい加減にしろ、てめえ!! また負けたいのか!!!」


「……ぁ?」


 ゆらりとシャク=シャカが俺を振り返る。

 恐竜人間の目の前であるというのに、悠然と振り返る。

 その仕草に込められた圧倒的な自信と、それを裏付ける暴威に、俺は怯んだ。


 膝が笑い始める。

 老婆と相対するより恐ろしいことをしている。

 死を予感した全身の血肉が、今すぐ愚かなことはやめろと訴えかけている。


 俺は拳で腿を殴った。


「ワカツ。今、何つった?」


 唾を一つ飲み込み、俺はまなじりを釣り上げた。


 確かにこの人は強い。俺より、強い。

 だが、だから何だ。

 強かろうと偉かろうと、間違っていたら正す。


「また負けるぞっつったんだよ、あんたに」


「この婆はユリほど強かねぇ」


 親指で示され、老婆がすっと目を細める。


「俺なら勝てる」


「勝てねえよ。今の今まで一太刀も浴びせてないだろ」


「違ぇよ。こいつァ、砥石といしだ。大事に大事に、斬る。そンだけだ」


「向こうはその気じゃないんだぞ」


 言われ、シャク=シャカが押し黙った。


「このままだと俺達はこの婆さんに一人ずつ斬られて、死ぬ。あんたはそいつと戦うこともできないまま、負ける」


「ンなもん負けじゃねえ」


「負けだよ。分かってるだろ」


 全身から噴き出した汗が背に川を作っていた。

 もう一か月分ほどの汗を流したかも知れない。


「合わせろ。俺達に」


 シャク=シャカが歯を剥いた。


「お前ら俺より弱ぇだろうが」


 俺もまた歯を剥き返す。


「弱いからどうとかじゃねえ。合・わ・せ・ろ……!」


「その数でばばあを斬れるか。みっともねえ」


 剣士がそう吐き捨てた瞬間、ぶちんと俺のこめかみで何かが切れた。


「違うだろッッ!!! あんた、何を意地張ってるんだよ!」


 腹の底から発せられた声にシャク=シャカが片方の眉を上げた。


 その瞬間、俺が見ていたのはシャク=シャカではなかった。

 俺が見ていたのは、かつての俺だった。

 まだ名も無い弓兵だった頃の、惨めな俺。


「あんたは負けたんだよ! あんたの剣は何かが間違ってるか、何かが足りてねえんだよ! それを補って、埋めるために俺と一緒に葦原に行くんだろ?! そのあんたが何で今まで通りの戦い方で押し切ろうとしてるんだよ! 強くなるってそういうことじゃねえだろ!」


「……」


「あんたが今まで通らなかった道にあんたの欲しがってる『強さ』があるんだろうが! 今まで信じてた方法は捨てろよ! 頼ってたものは忘れるんだよ! 自分に足りないものを拾って、嫌いなものから学ぶんだよ! それが分からないんなら何万回何億回刀を振っても今より強くはなれねえよ!」


 全身の血液がかっと燃え上がり、怒りが蒸気となって噴き出すようだった。


「負け犬が格好つけてんじゃねえよ!! 成長しろよ、あんたッッ!」


 俺が唾を噴いた瞬間、シャク=シャカの顔が歪んだ。

 限りなく怒りに近い表情だった。



 一歩、老婆が動いた。



 肩で息をする7731とフデフサが一歩踏み込み、俺の前で得物を交差させる。

 もはや鎖帷子一枚のシアが剣を構え、アンヘルが面頬の隙間から湯気を吐き、セルディナが顔の泥を拭う。


 皆の息が野犬じみたものに変わっていた。

 疲労ではなく、緊張が全員の鼓動を速めている。

 自分達と死んだ二人を隔てるのはごく薄い膜でしかない。

 次は自分かも知れない。

 次でなければその次だ。

 臨死の興奮に戦士たちは凄絶な笑みを浮かべている。


 藤色の風となった老婆が7731目がけて突進し――――シャク=シャカがそれに追い縋った。

 一瞬で火の玉と化した剣士が7731の槍を弾く老婆の背に斬りかかる。


「!」


 くるりと反転した老婆が刀を弾く。

 が、シャク=シャカは更に強く踏み込み、これまでとは打って変わった力強い打ち込みを繰り返す。

 槌が金床かなとこを叩くがごとき音が、二度、三度と続く。


 藤色の恐竜人類は一撃ごとに脚をぬかるみにめりこませ、くっと呻く。


 老婆は逡巡した。

 進退を測るかのように。


 その一瞬を見逃さず、フデフサが盾を突き出す。

 すぐさま反転し、老婆は盾の三叉を剣で受け止めた。


(!)


 フデフサの腕が盾の内側に消え、さっとそこを走った。

 目を凝らすと老人の盾の内側には弓に似た弦が張られており、長い杭が番えられていた。

 ぎりぎりと弦が軋る。


 びゅお、と盾に沿って杭が飛ぶ。

 盾を受け止めていた老婆が首をひねった。

 飛翔した杭は白髪のいくらかをもぎ取り、太い樹の幹にずどお、と深く刺さった。


 すっかり白髪を乱れさせた老婆の顔に逃走を決意した表情が見える。

 

 踵を返した老婆の眼前に蛇の矢が飛来した。

 彼女の背後から飛ぶ矢はぐいんと急激に曲がり、老躯を追い越し、進路を塞ぐ。

 正面からですら手を焼く矢だ。背を向けてかわせる代物ではない。

 老婆がたたらを踏んだところでセルディナが投げ槍のごとき蹴りを放つ。


 すんでのところで老婆がこれをかわし、刃を振る。

 二度、三度と拳闘士は剣を巧みに回避し、肘で手首を撃ち抜き、手刀で手首を叩き切る。

 一か所を集中的に狙われたことで老婆が怒り、一歩踏み込む。

 禿頭の男を引き戻し、入れ替わりにシャク=シャカが飛び込む。


 ゆらり、と。

 煙にも似た剣閃が生まれる。

 速度は先ほどより明らかに遅い。

 ただ、老婆の呼吸と挙動を完全に読んだ一撃だった。


「!」


 恐竜人類の手首が裂けた。

 

 フデフサの肩を踏み、7731が飛ぶ。

 槍持つ少女に目を奪われた瞬間、両手を広げたアンヘルダートが老人の陰から飛び出す。

 老婆の目が7731からアンヘルへちらと動き、また7731へ。

 その隙を縫い、シアが無音の歩法で迫る。


 三方向からの攻撃を、老婆は後方への跳躍で回避した。

 否、回避『させられた』。

 その方向へ誘導されていた。

 老婆が顔を上げた時には既に、唐最強の男が眼前に迫っている。


 回転を交えたシャク=シャカの動きは舞いのようだった。

 速度は目に見えて遅く、優美さすら感じられる。

 しかし、込められた力は先ほどと何ら変わらない。

 その証拠に老婆が刀を受ける度、鈍く重い音が何度も響く。


 老婆がシャク=シャカの隙を伺うよう、じっと目を凝らした。

 その瞬間、アンヘルの胴部を覆う甲冑が外れる。

 身軽になった騎士が低空を飛び、老婆の腰を捕まえた。

 更に踏み込んだシアの剣が老婆の耳を削ぎ落とす。

 

「っ」


 7731の槍が振り下ろされるが、老婆はこれを噛んで防ぎ、膝を振り上げた。

 ぼぐんと顔面を膝で撃ち抜かれたアンヘルが呻き、鼻血を噴く。

 三人の戦士を振り払った老婆の隙に、俺の矢が滑り込む。


 運悪く鎖骨に阻まれた矢がぽろりと外れ、老婆がセルディナの前蹴りに合わせて蹴りを放つ。

 足裏と足裏が重なり、老婆が後方へ跳ぶ。


「逃がすか……!」


 矢を番えた俺と刀を携えたシャク=シャカが飛び出す。


 銀の刃が閃く中、俺は鏃が老婆の鼻に触れるほど接近する。

 放った蛇の矢もまた弧を描き、俺とシャク=シャカは矢と刃の三日月の中を踊った。

 矢の弧と刃の弧が乱れ、老婆の鱗を削ぎ、爪にひびを入れる。


 だが俺と足並みを揃えたことで僅かにシャク=シャカの剣勢が削がれていた。

 老婆の一撃で俺達の足運びが乱れる。


 ちゃぷ、と濡れた泥に着地した老婆が足に力を溜める。

 まずい。

 逃げられる。

 そう直感した瞬間。



「ふぶっ!」



 矢庭に、老婆が血を噴いた。

 その脇腹に刀が突き刺さっている。


 全身を血と泥で汚したアメヒサが膝立ちとなり、太刀を突き出していた。

 その手首が捻られ、恐竜人類の脇腹の肉が飛ぶ。


 コハッ、と血霧を吹いた老婆は地を蹴ろうとした。

 が、その傷口にアメヒサの手が突き込まれていた。

 手は胴を探り、真っ赤な何かを引きずり出した。

 歪な果実を思わせるそれは、肝臓だった。


「見、つけた。……、――の」


 肝を握るアメヒサは女の名前を呟いた。

 血走った目には俺たちの姿など見えていないようだった。

 腹からは大量の血と腸がこぼれ落ちている。


 彼は老婆を押し倒し、その胸に肝をべしゃりと置いた。

 墓碑に饅頭まんじゅうでも置くように、そっと。


 そして後ずさり、濁った空を見上げる。


「永かっ」


 最後まで言い終えることなく、彼はべしゃりと倒れ、死んだ。






 やがて、雨が上がった。






「!」


 振動に振り返る。

 見れば元来た道から禿頭の集団が駆け参じるところだった。


 規則正しく駆ける彼らはムカデの脚のようにも見えた。

 ムカデの胴体部分は―――――小さな船だ。

 はっ、ほう、はっ、ほう、と葦原では聞かない呼吸。

 男たちは木舟を担いでいた。


(そういうことか……)


 木舟と人間のムカデは一匹だけではなかった。

 二匹、三匹と数を増し、俺たちの元へ駆けつける。


 老婆の死体を眺めていたセルディナが立ち上がり、指揮官らしき男に向き直る。

 シアは


「出せるか」


「はっ!」

 

 木舟が川面に滑り出した。

 禿頭の漕ぎ手は各船の左右に十人近く並び、既に櫂を手にしている。


「初めからこういう算段か」


 腰を下ろしたフデフサ翁が苦し気に問う。


「ああ。途中にいくつか支流があっただろう? 向こうの連中に気付かれないよう、彼らにはあそこを遡って来てもらった」


「私たちは救助隊ではなく彼らの露払いですか」


 鎖帷子姿のオリューシアがセルディナの渡す紫布を引っかけていた。

 結び目は独特で、ウサギの耳のようにも見える。


「別におかしなことではないだろう? 私は初めにこう言った。『バリオが沈めるから船は使えない』、と。そのバリオを殲滅させてしまえば陸路より船の方が手っ取り早いのは道理だ」


 もっとも、と彼はシャク=シャカに目をやりながら付け加える。


「君らがここまで強いと初めから知っていたら、もっと良い方法があったのかも知れないが」


 セルディナはカーリシュトラの瞼を手で閉じ、しばし自分も目を閉じた。

 アメヒサの傍にはアンヘルが屈みこんでおり、その爪を剥いている。

 彼の持っていた刀の鍔は俺が貰い受けた。


「王女を救出する」


 セルディナはさらりと告げた。


「来るかい? 報酬を上乗せするが」


「阿呆か。それは貴様らの事情だろうが」


 フデフサは疲れ切っているように見えた。

 よく見るとアンヘルダートも完全に泥に座り込んでいる。

 重装備の二人は体力の限界なのだろう。


「結構。来るも残るも好きにするといい。どちらにせよ前約束は守る」


 セルディナは俺をちらと見、真っ先に船へ跳ぶ。

 お前の用事はこれからだろう、とその目が告げていた。

 その通りだった。

 俺にとって本当に重要なのはここからだ。


(!)


 シャク=シャカが俺の前に立った。

 俺は彼を睨み上げる。


「……」


 ふっと彼は小さく笑い、拳で俺の胸を叩いた。

 俺は黙って頭を下げた。


 木舟の一つに飛び乗る。

 シャク=シャカとシアが続く。


 最後に少しだけ遅れて、国民番号7731が続いた。

 

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