第39話 36


 深く淀んだ緑の中、白銀の盗竜ラプトルはひときわ輝いて見えた。


 頭部は数枚の白い羽に彩られ、三本爪の一本は脇差のように長い。

 佇まいはどこか知性的で、その目は俺だけを見つめている。


 間違いない。冒涜大陸で俺を追い回した奴だ。

 白銀のラプトル。

 名前は確か――――『銀羽紫ぎんばむらさき』。


 効果が薄れていたとは言え、あの霧を抜けたのか。

 卵を踏まれた。

 ただその怒りのためだけに。

 

(――――!)


 恨みを買った者はいないか。

 誰かの言葉が頭蓋の中でがんがんと反響する。


 居る。

 俺だ。

 俺は人類でも数少ない、『恐竜に恨みを買った人間』。


 だが待て。

 俺は銀羽紫に恨まれこそしているが、さっきの怪鳥や帆立恐竜に恨まれた覚えはない。

 あんな連中の巣に踏み込んだり、その卵を踏んだら、いくら鈍い俺でも気付く。

 

 クオオオオン、と。

 哀しさすら感じる遠吠えが響いた。


 他の恐竜とはまったく異なる咆哮に戦士たちがたじろぐ。


「!」


 ぼたりとラプトルの口から何かが落ちた。

 赤黒い縄のようなもの。

 生物のわただった。


 腸。

 なぜ奴は今、腸を咥えていたのか。


 考えている暇は無かった。

 既に帆立恐竜は銀羽紫の上方で攻撃態勢に入っている。

 また尾を打ち払われたら大勢が戦闘不能に陥る。


別嬪べっぴんだな」


 赤い風となっていたシャク=シャカは闖入者を前に急停止していた。

 銀の盗竜が放つ異様な雰囲気に警戒心を抱いたのだろう。


 とは言え彼が銀羽紫に抱くのは、人が蜂に抱く警戒心とさほど変わらない。


「斬るのが惜しいぜ」


 びゅお、と赤い残像を残しながら剣士が駆ける。

 銀のラプトルは大きく身をしならせ、林立する木々へ跳び、その幹を蹴って真横へ跳ぶ。


 焔と化したシャク=シャカは迷わず真横へ跳んだ。

 目の前の巨大恐竜より銀羽紫の方が危険だと判断したのだろう。

 その判断は間違っていない。


 ただ、行動が間違っている。


「待て、シャク=シャカ!! そいつは他の奴と違って頭が――――」


 叫んだ。

 が、遅かった。


 銀のラプトルを追い、川辺に至ったシャク=シャカがぐらりと身を傾がせる。


「っ!」


 柔らかい黒土に亀裂が走り、地面が隆起した。

 大地が斜面と化し、転がりかけたシャク=シャカがすぐ傍に生える草を掴んで堪える。


 草ではない。

 背びれだ。

 彼がそう気づいた時には遅かった。


 まるで地が割れるようにして緑灰色の恐竜が姿を現す。

 黒土が飛散し、どぶどぶと川へ流れ込む。


「ッ!」


 入れ替わりにシャク=シャカの姿が水の中へ消える。

 胃の腑が凍る感覚を覚える。


「シャク=シャ「ワカツ!」!!」


 飛び出そうとした俺を止めたのはシアだった。


「他人の心配をしている場合ですか! 前を見て!」


 コカッ、カカカッ、と銀のラプトルが囃すように吠える。

 地を這う根が引き抜かれるようにして周囲の土が盛り上がり、別の帆立恐竜が巨躯を持ち上げた。


 更に二頭が土中から姿を現し、大量の黒土が水の中へ吸い込まれる。

 合計三頭もの帆立恐竜が前脚を川辺に引っ掛け、岸へと這い上がった。


「み、見ましたか?! 恐竜が罠を張った!!」


 興奮するアンヘルダートの横でセルディナが首を振る。


「偶然だ。恐竜にそんな知性は無い」


「だが地面の中から出てきたぞ。ありゃ何だ」


「水中で土を掘ったのでしょうね。あの恐竜……川縁かわべりの生物を襲う時はああやって岸そのものを切り崩す習性があるのではないかと」


 剣を構えたシアはじりじりと後退していた。


棘扇竜スピノとでも名付けましょうか」


 四つ足で地を踏むスピノが地を揺らしながら仲間に合流する。

 一方で最初の一頭は前脚を持ち上げ、アロやティラノに近い姿勢を取っている。

 セルディナが瞳を細めた。


「こいつら、二足歩行も四足歩行もできるらしいな」


「検分は後にしろ」


 べっと唾を吐いたフデフサが盾をがちゃりと構える。

 

「死体にしてやる」


「戦うのか」


 紅い鉢巻の痩躯、ガクキ=ガクシが問う。


「あれと和平交渉ができると思うか?」


「それもそうだ」


 四つ足のスピノが四頭、虎そっくりの挙動でこちらへ迫る。

 虎の十倍はあろうかという巨体がどだんどだんと不吉な音を響かせる。

 捕食を目的とした動きではない。

 明らかに、俺たちを『殺そうと』している。


「散れ!」


 セルディナの合図で俺たちは四散し、八散する。


「諸君、陣を敷け」


 ガクキ=ガクシの指示で僅かに残る赤鉢巻の一団が散開する。

 川へ落とされた面々は既に自力で泳ぎ始めていたが、一部は水面に浮かんだままだった。

 

 広大な森が庭であるかのようにスピノは大暴れした。

 木々は前脚で押しのけられ、振り払われる尾が泥と水草を根こそぎ吹き飛ばし、ばくんと突き出された顎が閉じる勢いで風すら巻き起こる始末だ。

 俺は矢を番え――


「ワカツ! 狙われています!」


 ひょうん、と三日月状に身を翻したラプトルが俺の眼前に飛び降りる。


 着地するや否や、奴は俺目がけて飛ぶ銀の矢と化した。

 目で追う事が困難なほどの速度。

 奴は長剣を構えるシアを素通りし、俺に迫る。


 矢を番え、後方へ倒れ込みながら走る。

 真後ろへ駆ける歩法、逆巻さかまき


 びょう、びょう、と放たれる矢がラプトルの顔を掠め、爪を掠める。

 奴は一切怖気づくことなく、俺の矢をくぐり、かわし、距離を詰める。


 ――速い。

 下手をすれば前よりも。


 だが俺もあの日の俺ではない。

 俺の手にあるのは急ごしらえの弓と矢ではなく、俺の弓と、俺の矢だ。

 

 弓を構えて背走する俺は身を屈め、枝の下にもぐり、大樹の陰に飛び込んだ。

 藪を突っ切り、土を巻き上げ、血腿団の脇をすり抜ける。

 柔軟性のないラプトルは木の股でつまずき、やむを得ずそれを飛び越えた。

 着地。

 速度が死ぬ。

 地を蹴って加速。

 もう遅い。

 俺は既に弓を引き絞っている。


「『蛇の矢』」


 しゃおおお、と大樹二つを迂回した矢がラプトルの頭部へ迫る。

 自然界ではほぼあり得ない軌跡。

 奴は驚きもせず、軽々と跳躍して矢をかわす。

 先ほどまでの戦いをどこかでじっと見ていたのだろう。


 だがいつまでかわせるか。

 俺は足を止めず、次々と矢を放つ。


 しゃおお、きゃおお、と蛇の矢が枝を縫い、葉を散らし、梢を掠める。

 進行方向の真横から迫る矢。

 死角となる地面すれすれから浮き上がる矢。

 明後日の方向から鷹さながらに急旋回する矢。

 変幻自在の蛇の矢は生き物のごとく銀の肢体に襲い掛かる。


 ラプトルがたたらを踏み、転び、猛り、吠える。

 俺は有効射程ぎりぎりで踏みとどまり、奴に絶え間なく矢を射かけ続ける。


 人生でこれほど必死に矢を射たことはなかった。

 眉間の汗が鼻筋を伝い、手にはにかわじみた汗が滲む。

 胸筋は裂けたように痛み、上腕の筋肉は鉛でも結ばれたように重い。

 だが、矢は止めない。


 ラプトルは俊敏だが、蛇の矢を完全にかわしきることはできていなかった。

 その挙動を予測することも。


 矢を浴びる鱗はへこみ、ひしゃげ、数射が鱗の隙間から肉にめり込んでいた。

 だが致命傷には至らない。

 奴は矢を浴びながらも木々をくぐり抜け、こちらに飛びかかる隙を伺っているようだった。


 互角。

 そう、確信した。


 完全に距離を取り、万全の状態で『蛇の矢』を射る俺と奴が互角。

 嬉しさは感じない。

 むしろ、口惜しさが勝った。


(毒があれば……!!)


 毒。

 俺の毒があれば。

 既に数射が奴の鱗を破っている。

 あの鏃に。『透かし彫り』の内側に毒を塗っていたら。

 そうすれば既に決着が――――


「!」


 ラプトルが踵を返した。

 逃げる気か。

 違う。誘っている。


 追うか。追わない方が俺は有利だ。

 この枝と木々。

 障害物だらけの荒れ地において俺の『蛇の矢』は地の利を得る。


 だが追わないわけには行かない。

 スピノは地を揺さぶって暴れている。

 ラプトルにかまけてあれを放置すれば、待っているのは破滅だけだ。


 奴を追って駆け出す。

 特徴的な白銀の尾。見失うわけがない。


 藪をかき分け、木々を迂回し、再び血風吹きすさぶ野営地へ戻って来る。


 つん、と。

 足元で酒の匂いがした。


 視線を落とす。

 匂いの出どころは先ほどラプトルの落とした腸だった。

 

 ――――『酒』。


 はっと顔を上げると、ラプトルは数十歩先で混戦の最中に飛び込むところだった。

 そのかかとには僅かに黄色いものが付着している。


(ッ!!)


 すべてを悟った瞬間、俺は慄然とした。


 あいつが咥えていたのは人間の腸だ。

 誰のものか、なんて問うまでもない。

 先ほど八つ裂きにされて死んでいた男、ヴァジルッダだ。


 いつからか、どこからかは分からないが銀羽紫は俺を追跡していたのだ。

 だがすぐには手を出さなかった。

 俺の隣にはシャク=シャカがいたし、人里で暴れればすぐに増援が来る。


 息を殺して俺を追尾していたラプトルは、しこたま酒を飲んだ状態でバリオ狩りに出発する色男を認めた。

 奴は俺たちが酒の匂いを纏っていることに気付き、それが人間特有のものだと察した。

 隙を見てヴァジルッダを藪に引きずり込み、惨殺した銀羽紫は一計を案じた。


 奴はあの場に胃袋や腸をばら撒いた。

 そしてあの場に踏み込んだ俺たちの衣服や靴に酒の匂いを付着させた。

 量は僅かでも構わなかったのだろう。

 重要なのは匂いが目印になることだ。


 奴は俺達に『匂い』をつけた後、その匂いの発生源である腸を咥え、恐竜の巣へ向かった。

 冒涜大陸の霧が晴れてまだ数日だ。

 移住を始めた恐竜は多くとも、こちら側で卵を産んだ個体は少なかったに違いない。


 その卵を、奴は踏んだ。


 人間、つまり酒の匂いを残して。

 事態に気付いた怪鳥とスピノは怒り狂い、匂いを辿るラプトルが水先案内人となり、俺たちを襲った。

 それは冒涜大陸で俺がやったことの『逆』だった。


「――――!」


 ぼっ、と。

 自分でも訳の分からない怒りが胸中で音を立て、燃えた。


 罪悪感はある。

 事故とはいえ、俺は確かに銀羽紫の命を踏んだ。

 それは冒涜的な行為であり、文字通り命を踏みにじる行為だ。

 奴の怒りは正当で、奴の憎悪もごく真っ当な感情だ。


 ――だが。


 だが、それとこれとは別問題だ。


 俺は血だまりに伏す怪鳥を飛び越えた。

 そいつはまだ生きており、哀れっぽい声を漏らしている。

 卵を踏まれ、怒る母。あるいは父。

 

「お前……お前ッッ……!!!」


 こいつらを殺したのは俺だ。

 そしてそれが悪いことだとは思っていない。

 だが奴のやり方は気に入らない。

 自分の復讐のために平然と他者を巻き込み、あまつさえ子を想う親の気持ちを利用するような奴は許せない。

 たとえ利用した相手が言葉の通じない畜生で、人間を食うけだものだったとしても。


 矛盾した怒りを抱えたまま、俺はラプトルを追って駆けた。


 すぐ近くの土をスピノの尾が叩き、土が散る。

 矢の雨が降り、巨体が怯んだその隙にセルディナが尾を這い上がる。

 振り下ろされる拳が鱗をひしゃげさせる。


 別の一頭が繰り出すキツツキさながらの刺突をシアがかわし、その隙にアンヘルダートが剣を、国民番号7731が槍を振るっている。

 ばらばらと鱗が散り、僅かな陽光を受けて輝く。


 血だらけの武士が太刀を振るう横を駆ける。

 スピノの太い脚に赤い筋が走り、血飛沫が上がる。

 振り下ろされる顎の一撃をフデフサ翁が盾で防ぐも、勢いは殺せない。

 二人は土の上を派手に転がった。


 血腿団は円形に散開していた。

 四方八方から飛びかかる彼らの振る刀はスピノの脚をめちゃくちゃに削っており、巨躯は今にも倒れそうだった。


 その渦中へ白銀のラプトルが飛び込み、手当たり次第に人間を切り裂く。

 臓物があふれ、首から噴き出した血がスピノを汚し、悲鳴が響く。

 数人が銀羽紫に気付き、矢を番えた。


「よせ! 射るな!!」

 

 さっとラプトルが飛び退く。

 その陰にいたナーガフラの顔面に矢が立った。

 少年は自らの顔を掻くように手を動かしたのち、ばったりと倒れる。


「お前っ……いい加減に……」

  

 立ち止まった俺は二本の矢を取り、片膝をついた。

 

「いい加減に……しろっっっ!!!」


 放たれた蛇の矢が唸りを上げる。

 ラプトルの目がそちらを向いた瞬間、俺は直線の矢を放つ。

 跳躍したラプトルは俺の狙いに気付いたが、空中で体勢を変えることなどできない。かろうじて身を捻るのが精いっぱいだ。

 

 着地点を狙い射られ、ラプトルが転倒する。

 その足には確かに俺の矢が生えていた。


 コアアア、と恨みがましい咆哮と共に銀羽紫が跳ね、地に立つ。

 距離は近いが、向こうは手傷を負っている。

 殺せる。

 ――殺す。



 びょう、と。

 強風を伴い、何かが眼前に立った。



 濡れた赤い唐服。一振りの太刀を携えた姿。

 シャク=シャカだった。


「手間ァ取らせた」


 全身から凄まじい川の匂いを放っているが、目立った外傷は無い。

 彼は刀の切っ先をラプトルに向けた。


「貰っていいか、あれ」


「……」


 銀羽紫は数歩後ずさった。

 その目が巨躯の竜へ向く。


 スピノは既に二頭が討ち取られ、三頭目の喉に国民番号7731の槍が突き刺さるところだった。

 形勢はこちらに有利だ。


 こちらを見たラプトル憎々しげに吠え、そのまま背後の緑へ飛び込んだ。

 やがて最後の帆立竜スピノが倒れ、その場に静寂が訪れた。

 血と脂が飛び散った、死屍累々の静寂だった。









「悪いが、我らはこれまでだ」


 紅い鉢巻を巻く男たちの長、ガクキ=ガクシが告げた。

 彼はほとんど返り血を浴びておらず、俺の記憶に間違いがなければ剣を抜いてもいない。


「兵の損耗が激しい。これ以上は割に合わない」


 川には衣服の破片が漂っていた。

 棘扇竜スピノの一撃で死んだ者も少なくないのだろう。


「途上で申し訳ないが、引き揚げさせてもらう」


「構わないよ」


 セルディナは両手を川の水で濡らし、禿頭の血を拭っていた。


「待て」


 編み笠を失った無精髭の武士が苦し気に呻く。

 一度スピノに咥えられた彼の全身は血で汚れていた。


「今いる人間の半分以上だ」


「同情はする」


 紅い鉢巻の男はそれだけ告げ、さっと武士の横を通り過ぎた。

 その瞬間、アメヒサと呼ばれた武士は太刀の柄を掴む。


「残れ」


「あなたは人斬りだと聞いていたが。一人では怖いのか?」


「……残れ」


「断る」


「――」


 ひりつく空気の中、誰かが言葉を発しようと喉を震わせた。

 それを合図に二人が振り返り、交差する。


 白刃を抜き払った二人はしばしその体勢のままだったが、ややあって赤い鉢巻の男が剣を軽く振る。

 武士の顔面に横傷が走った。

 流れ出す血が幕を作り、顔の下半分を汚す。


「あの程度の相手に背後を取られる間抜けとは同道できない」


「……!」


「ではな」


 剣をしまったガクキ=ガクシは颯爽と立ち去った。

 血腿団の面々もまた得物をしまい、やや名残惜しそうに振り返りながら街道の向こうへ消える。


 武士はその場に膝をつき、まるで嗚咽を漏らすかのように激しくむせ込んだ。

 手を貸す者はいなかった。


「あんな凄ぇのが野に居やがるのか」


 シャク=シャカは去りゆく男の背を感心したように見送っていた。


「『七太刀』の次ァ、あいつだな」


 シアは乱れた髪を無言で梳き、閉じた目を晒していた。

 スピノの一撃が掠めたのか、スリットドレスの腰部がボロボロになっている。


「平気か」


「ええ」


 シアは斃れた者の元へ向かい、その衣服と鎖帷子を毟り取った。

 彼女の背中は「お前が一言帰ると言えば解決する」と訴えているように思えた。


「他に帰りたい者がいればそうするといい」


 セルディナは手早く騾馬に乗り込み、手綱を握っていた。


「私は行くよ」


「……」


 フデフサ、アンヘルダート、国民番号7731は互いの目を見ようともせず、生き残った騾馬に乗った。

 女弓兵のカーリシュトラがアメヒサに肩を貸し、俺達三人も息のある騾馬を捕まえる。

 

 進軍は再開された。

 しばらくして、熱い雨が降り始めた。






 雨は激しさを増していた。

 森の葉は上下に揺れ続け、川面は沸騰したかのように

 

 もうもうと漂う霧の中、俺たちは大樹の陰に身を寄せていた。

 外套を着て移動することも考えたが、それではバリオと戦えない。


 ほとんどの場合、ブアンプラーナの雨は長引かない。

 今は休息するしかなかった。


「ワカツ! ワカツ、見てください!」


 かしゃかしゃと甲冑を鳴らすアンヘルダートが駆け寄る。

 シャク=シャカは少し離れた場所であぐらをかいており、シアは騾馬にブラシをかけている。

 俺は死体から回収した矢に細工を施すところだった。


「良いものを見つけたんです!」


「……いいもの」


「爪です!」


 俺はげっそりした。


「他の奴のところへ行けよ」


「いえ、君が一番話を聞いてくれそうでしたから」


「……」


 誤解を解きたかったが、解いたところで得られるものは少ない。

 俺はブーツの踵に挿した短剣をさりげなく抜き、袖に忍ばせた。


「ほら見てください! 綺麗でしょう?」


 悪態のひとつもつこうとした俺は彼の見せるものに目を奪われた。

 透けた翡翠色の爪だ。

 俺の狩衣より更に色が薄い。


「爪……?」


「爪です。味で分かります。凄いでしょう? ……誰の爪でしょうね、これは。聞いて回ったし、見ても回ったんですが、それらしい人間がいないんです」


 一瞬、恐竜人類の姿が脳裏に浮かんだ。

 だが彼女達の爪はラプトルに近く、鱗もこんな色ではなかった。

 アンヘルダートは透かし見るように爪を掲げ、うっとりと見惚れていた。


「見事だなぁ」


 俺は矢羽を弄る作業に戻った。

 もちろん、警戒は緩めない。


「爪なんか集めてどうするんだ」


「どうもしませんよ。美しいものを集める。それだけです」


 騎士はニコニコと愛想の良い笑みを浮かべながら続けた。


「爪は骨と違って簡単には朽ちない。瓶に入れておけば火事や雨風で失われることがないし、泥棒に奪われる不安もない。最高の財産です」


 俺は適当に相槌を打った。

 それに、と騎士は言葉を継ぐ。


「日記の文字を見返しても何ひとつ確かなものを感じることはできませんが、爪を少し舐めれば思い出の残り香を感じることができる。爪があれば、私は生きていける」


「……?」


「ああ、言っていませんでしたか。私はそういう体質なんです。記憶がひと月しか持たないんですよ」


 一瞬、俺は彼の正気を疑った。

 だが疑うまでもなかった。彼は狂っている。


「世界は美しくはない」


 金髪の騎士は雨の降り注ぐ森を見やり、冷たく呟いた。


「だが記憶として思い出される時、世界はいつも美しい。人と人との出逢いも、繋がりも、不和も。思い出の中ではすべてが甘美だ。人生は振り返るためにあると言ってもいい。……なのに私は、ひと月ごとに記憶を失う」


 アンヘルダートの頬を涙が伝っていた。

 嘘なのか真なのか分からない涙だった。


「だから爪を集めるしかない。家をだまし取られても、財産を失っても、友が去っても、爪さえあれば誰かの思い出を感じて、生きていくことができる。……私の中身は空っぽでも、私以外の人間は皆、それぞれの人生を生きている。それを感じることが私の人生だ」


 何と返せば良いのか分からなかった。

 そもそも、本気なのか冗談なのかすら分からない話だった。


「この冒険のことも君らのことも、私はいずれ忘れてしまう。……その前に、爪をくれませんか? 君の爪は美しい」


「……」


「君を斬ってでも、欲しい」


 俺は袖の短剣に意識を向けたが、アンヘルダートが襲って来る気配は無かった。

 ややあって、俺はため息をつく。


「……その前に死ぬことを心配したらどうだ」


「それもそうですね。ははは」


 屈託なく笑った金髪の騎士が立ち上がり、かちゃかちゃと甲冑を鳴らしながらセルディナの元へ向かった。

 






 矢を整い終えた俺は膝の塵を払った。

 雨はなおも降り続いている。


 ふと見れば武士のアメヒサが難儀そうにさらしを巻いていた。

 傷は浅いようだが、恐竜の歯型のついた胴体は見るだに痛々しい。


「っ」


 武士が痛みに顔を顰める。

 俺は周囲の誰もが手を貸さないことを認め、渋々立ち上がった。


「帰った方がいいんじゃないのか、あんた。その傷じゃ戦えないだろ」


 地に落ち、泥で汚れた晒を拾う。

 ぱんぱんと手ではたいたが、濡れた晒の泥は落ちない。


「俺にも事情がある」


「……そんなに人を斬りたいのかよ」


かたきを追っている」


 傷が熱を持っているのか、アメヒサの顔は病的なほど赤くなっていた。

 俺と同じ青い目は濁り、吐く息も熱い。

 

「辻斬りだ。妻を斬られた」


 俺は息を止めたが、武士は続けた。


「国中、探した。昼も夜も」


 筋肉質な裸体は血と酒で濡れていた。俺はそこに晒を巻いてやる。

 武士は痛みではない何かに浮かされているようだった。


「見つからなかった。それどころか辻斬りの話もぴたりと止んだ。奴は死んだのかも知れないと思った。……だから、おびき寄せることにした」


「おびき寄せる?」


「奴は斬った者の肝をくり抜いて、屍の上に乗せる。屍は必ず人目につく道に残される」


 だから、と青白い唇が動く。


「俺もそうした。わざと雑に、そうした。真似をされたことで奴が怒り、また夜道で人を斬ってくれると思った」


「……」


「まだ見つからん。まだ、斬らねば。葦原にいないのなら、ここだ。この国で斬らねば」


 俺は晒を巻き終えた。

 アメヒサは礼を言わず、ふらふらと大樹に身を寄せ、腰を下ろした。

 そして死んだように眠った。






 雨がやみ、俺たちは更に上流へ向かって進む。

 道の途上ではいくつかの支流が川に合流していた。


 橋を進むセルディナは支流にバリオを認めると、すぐさま討伐するよう命じた。

 彼は徹底して、バリオを見逃すつもりがなさそうだった。






 

 玉宝巣サーダラナートは地味な石造りの建物だった。

 外観は螺旋状で、ちょうど巻貝に似ている。


 広大なプラチュメーク川を渡る橋は高台に設けられていたが、それは確かに中ほどで寸断されていた。


 対岸の様子は俺の目にも映った。

 救助隊はまだ到着していないようだ。


「で、どうするんだ?」


 すっかり血と汗と脂まみれのシャク=シャカが問う。

 彼の奮戦がなければ俺たちはもっと疲弊し、ともすれば何人かは命を落としていただろう。

 それほどまでにバリオの数は多く、その攻撃は熾烈を極めた。

 

 皆に倣って騾馬を下りた俺は、後方を振り返った。

 銀羽紫の姿は見えない。

 さすがの奴も、二度目の奇襲は通じないと悟っているらしい。


「しばらく待っていなさい」


「依頼は果たした」


 フデフサが三角盾を突き立てる。


「これ以上ここに用は無い。恩赦とやらを寄こせ」


「私にはあるんだよ」


 セルディナは川面を見つめていた。

 どうやらまだバリオを探しているらしい。

 その肩をフデフサが掴んだ。


「約束を守れ」


 振り返ったセルディナが唇を歪め、怒りを覗かせる。


「恩赦を望む者は三人だが、あなた以外の二人は我慢しているだろう。年長者らしく振る舞ってはくれないか、フデフサ翁」


「恩赦を望むのは俺とあと一人だろう」


 フデフサの言葉にセルディナが片眉を上げる。


「気付かんとでも思ったか。あの襟に花を挿していた奴と、そこの弓兵の女はお前の連れだろう」


「……!」


 カーリシュトラが身構えた。

 その態度こそがフデフサ翁の言葉を裏付けるものだった。


「別に咎めはせん。だが俺たちはあくまで部外者だ。つまらん使命感を押し付けるな。さっさと見返りを寄こせ」


「……あなたは解放できない」


 何せ、とセルディナは肩をすくめる。


「元は『向こう』の暗殺者として雇われていたのだから」


 禿頭の男は俺達を見回した。

 アンヘルダートは興味が無さそうだった。アメヒサは熱でぼうっとしており、国民番号7731はいまだに顔が見えない。

 シャク=シャカはほとんど動じず、シアもほんの僅かしか呼吸を乱さなかった。

 驚いたのは俺一人だった。


「そうだな。それがどうした?」


 フデフサ翁は嘲りに近いものを浮かべる。


「俺は確かに一度向こうの連中に雇われた。だが断った。それで俺の中では終わりだ」


「終わりではないだろう」


 セルディナが指を突き付ける。


「あなたが向こうの連中について知っていることを洗いざらい吐いていれば、事は円滑に進んだ。なのにあなたは――」


「俺も男だ。内容はどうあれ、依頼については話せん」


「……!」


 珍しく、セルディナが顔面を歪めた。

 そこに浮かぶのは憤怒の表情だった。


「自分の意に沿わないことがそんなに歯がゆいか」


 老人の煽りにセルディナの顔が赤くなった。

 その拳が握られ、空気が張り詰める。

 俺は二人の間に割――――




 こ、こ、こ、という硬質な音。

 全員が振り返る。




 そこに立っていたのは老婆だった。

 白の混じった灰色の髪を油で撫でつけ、剣傷の残る額を晒している。


 衣服は藤色の襦袢に濃い菫色すみれいろの袴。

 顔には皴が寄っていたが、目元は優しげだった。

 年齢は六十そこそこだろうか。

 背は曲がっていないが、手には白く長い杖を手にしている。


 彼女の歩いた後には赤いものが点々と残されていた。

 血痕ではない。


 ――赤い鉢巻だった。



 杖を持つ老婆の手は人間のものではなかった。

 鱗に覆われ、長い爪が生えている。

 襦袢の袖には切れ込みが入っており、色あせた緑の羽が露出していた。


 老婆は恐竜人類だった。




 彼女の放った丸いものがごろんごろんと地を転がる。

 それは舌をだらしなく垂らしたガクキ=ガクシの生首だった。



 

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