第35話 33


 初めは、草地に落ちてひしゃげたヤマブドウだと思った。

 黒ずんだ赤い液体を纏ったそれは細長く、ところどころに飛沫を散らしていた。


 葦原でもたまに見かける光景だ。

 誰かが野生するヤマブドウを齧り、その酸っぱさに吐き捨てたのだろう。


 だがすぐに考えを改めた。

 酸っぱいと気づいたのなら、なぜそこら中に赤黒いものが散乱しているのか。

 そしてヤマブドウならなぜ、果肉から滲む液体が『紫』を帯びていないのか。

 この液体の色は――純粋な『赤』だ。

 

 俺は赤黒いものを辿った。

 一歩進む度、緑一色の風景が赤い斑点に汚されていく。


 徐々に、酒の匂いが漂い始めた。

 発酵した葡萄そのものが放つ芳香ではない。

 一度喉を通り、胃を通った酒の匂いだ。

 そこでようやく、落ちているものの正体に気付く。


 散らばる肉片の先に胴体が転がっていた。


 くしのようにも見える肋骨が飛び出し、わたを抜かれた腹部にぽっかりと穴が開いている。

 首はへし折られ、皮でかろうじて繋がっているようだった。


 大きな襟に花を差し込んだその姿は間違いなく昨日の男だった。

 名前は確か、ヴァジルッダ。


 俺は悲鳴など上げなかった。

 ただ矢を番え、天へ放った。


 蟇矢ひきやと呼ばれるその矢は先端が丸く、小さな穴がいくつも開いている。

 ぴぃひゅるるる、と矢が甲高い音を響かせた。






 駆け付けた者たちの反応は様々だった。

 驚く者、軽侮を浮かべる者、興味無さそうな者。


「あー……この爪は必要ありませんね。もう持っている形です」


 色男の腕を手の中で弄んでいたアンヘルダートは無造作にそれを放った。

 そして白けた顔で騾馬へ戻っていく。


 盾を持つ老人が鼻を鳴らした。


「分け前が増えるな」


 三角形の大盾は槍ほどにも長く、先端が三叉に分かれている。

 その巨大な得物がずしんと土に突き刺さり、繊細な騾馬が驚く。


「三十の獲物にこの数じゃ成果は期待できんと思ってたが、良い塩梅だ」


 じろりと老人が同道者達を見やる。


「もっと殺し合ってくれていいぞ」


「人の仕業じゃねえよ、爺さん」


 シャク=シャカは刀の先で色男の胴体を示した。


「その歯形は恐竜だ」


「どうかな。人の細工かも知れんぞ」


 そこで老人は目を細めた。

 彼の白髪は油に立つ薄い炎を思わせる。

 顔にも額にも皴が寄っていたが、皮膚は脂っこく、目つきは鷹のように鋭い。


「こいつは昨日つまらん話をしとったからな。誰かに殺されても仕方ない」


 いや、と俺は口を挟む。


「傷口から唾液の匂いがする。恐竜だ」


「そうか。つまらんな」


 セルディナが俺の横で膝を折った。

 彼は色男の顔をひっくり返す。

 目はかっと見開かれ、顔は驚愕の表情に歪んでいる。

 間違いなく、昨日のあの男だ。


 セルディナはヴァジルッダの瞼を閉じた。


「本物だな」


「ああ」


 俺は周囲に注意を向ける。

 風が吹き、茂みをかさかさと揺らす。


 心の中ではルーヴェを連れて来なかったことを猛烈に後悔していた。

 彼女がいてくれれば周囲の警戒などまるでやる必要が無かった。

 今からでも呼びに行くべきだろうか。


 いや、今は他に考えることがある。

 

「セルディナ。ブアンプラーナでは恐竜がこんなところにまで来てるのか?」


「いや、それはありえない」


 少し離れた場所では拳闘士の集団が掛け声を上げている。

 ここは国境からさほど遠くない場所で、冒涜大陸からはかなり離れている。


「主要な陸路は象で塞いでいる。隙間を縫って入り込んだとしても、無傷でここまで来る個体がいるとは思えない」


「だったらこれは何だ?」


「見当もつかない」


 飄々としたセルディナの額から頬にかけて、一条の汗が流れ落ちる。


「剣を抜いていませんね」


 酸鼻を極める光景にも関わらずシアは冷静にそう呟いた。

 しゃがみ込んだ彼女は腹部を検分している。


「肉片が足りません。食べられているようです」


「ラプトルか?」


「ラプトルならもう少し器用に食べるはずです。小型恐竜の群れか、それとも別の何かか……」


 呆けた少年と狼の頭蓋骨を被る白服は騾馬の上からこちらを見つめている。

 女弓兵と番傘女は少し離れた場所で何かを囁き合っていた。


「厭な感じがします」


「分かっている」


 セルディナが立ち上がり、皆を振り向いた。


「バラバラに歩くのではなく陣形を整えよう。殿しんがりはシャカ、あなたに任せたい」


 シャク=シャカが刀を肩に乗せる。

 これで後方は安全が約束されたことになる。


「私を中心に弓は左右に分ける。ワカツは左、カーリシュトラは右。次に剣士だがオリューシアは左、アンヘルダートは右だ」


 それから、とセルディナは傘の女を見る。


「番傘のヒシン=ビシンとフデフサ翁は左前方。……ナーガフラ。薬はまだいいね? 君は右前方だ。アメヒサ殿。悪いが面倒を見てやってくれ。子供だが腕は立つ」


 一瞬、シャク=シャカが面白いものを見る目で老人を見た。

 老人は反応せず、盾を持ち上げた。


 編み笠の武士は心底面倒そうに虚ろな顔の少年を引っ張って右へ。


「ガクキ=ガクシ率いる血腿団けっとうだんの皆は左右の後方を任せたい。扇状に広がって妙な輩が出ないか見張ってくれ」


「バリオが出たらどうする。前の奴らが有利じゃねえの」


「まだ出はしない。抜け駆けはさせないさ」


 総勢二十名ほどの唐兵の一団がガチャガチャと鎧を鳴らしながら後方へ。

 残るは一人だった。


「『国民番号7731』」


 一瞬、誰のことを示しているのか分からなかった。

 だが、該当者は一人しかいない。


 砂漠の大国ザムジャハルでは生を受けた国民全員に番号が割り振られ、その名で呼ばれる。

 番号は使い回され、本当の名は親子しか知らないという。


「国民番号7731。君は……いったんワカツと左だ」


「……」


 狼の骨を被る白衣が騾馬を引き連れ、俺の傍に来た。

 威圧感のある風貌で分かりづらいが、背丈は俺より低い。


「よろしく」


 俺の言葉に国民番号7731は反応しなかった。

 ただ槍をひょうと振り、邪魔にならない程度の距離を空けて俺の傍につく。


「これで全員だな」


「どう動くつもりだ?」


「救援隊は玉宝巣サーダラナートと地続きの場所から進軍する。が、そちら側は道がまるで開けていない。戦うには適していないし、彼らと出くわすのは何かと面倒だ」


(……)


 言ってしまえば別動隊である俺たちが本隊である彼らと出くわすことに面倒があるらしい。

 昨夜のヴァジルッダの話も気になる。

 そろそろセルディナを問い質すべきか。


「我々の目的は玉宝巣サーダラナートへ向かうことではなく、あくまでバリオを討伐することだ。よって玉宝巣サーダラナートの対岸を移動する」


「バリオはそっちまで来るのか?」


「来る。私の推測が正しければね」


 俺は一応、索敵に長けた人物がいることを告げたが、セルディナは取り合わなかった。

 もう時間が無い、と言うのがその理由だった。






 川が近づいていることを、俺はまず匂いで知った。

 海よりも濃厚で粘つくような川の匂い。

 その匂いがいよいよ強くなり始めたところで、さらさらという川の流れる音が近づく。

 清流と同じ音だったが、水は僅かに緑を帯びている。

 

 視界は開けていた。

 後方の唐兵たちは難儀しているようだが、セルディナを中心とした部隊は問題なく前進できている。


「道、広いですね」


「以前は行商の一団が通っていたと聞く」


「街も無いのに?」


「密猟を生業とする者たちがいた。森の奥に点在する彼らに物資を運び、見返りに稀少な品々を受け取っていたらしい」


 セルディナたちから少し離れ、俺は袖を引くシアに顔を寄せた。

 彼女は黒いスリットドレスの下にズボンを穿いている。


「……まだ間に合いますよ」


「……」


「逃げましょう。この人たちに付き合うべきではありません」


 シアは昨夜からそう言い続けていた。

 エーデルホルンへ戻ることが目的の彼女にとって、俺の事情に付き合うことは不本意極まりないに違いない。

 だが、だったら俺にも言い分がある。


「シャク=シャカがいなくてもお前ひとりで出国できるだろう? エーデルホルンも公使ぐらい置いてるはずだ。そこに行けばいい」


「……」


「できないのか?」


 シアは答えない。

 彼女は確か近衛だ。

 近衛が公使館に駆け込めないなんて、そんな馬鹿な話があるわけがない。


「公にはしていない部隊なんです。私が所属しているのは」


「嘘つけ。葦原の時は平然と国境を越えてきただろう? 何で今更そんなこと言いだすんだ」


 俺は突き放すような言葉を投げかけ、それから改めて問うた。


「……シア。何が必要なんだ?」


 片目を隠した女は少し躊躇い、それから思い切ったように告げる。


「ルーヴェをお借りしたいんです」


「何でだ」


「必要なんです」


「エーデルホルンにとって? 国務国家弁護団レジーノコンスルトにとって? それともお前にとって?」


「……」


 シアは少し黙り、真横に目を向けた。

 川はじゃらじゃらと小石を洗うように流れ続けている。

 魚の姿は見えないが、そこかしこに水鳥が立っており、歩哨のごとく周囲を睥睨している。


「ミョウガヤ五位でしたか。これから向かう先で面倒を被るのは」


「……!」


 今度はシアが俺に顔を寄せる。

 乗り手のわがままに騾馬が困ったように唸る。


「五位がいなくなればあなたは八位でしょう? 違いますか?」


「そうだな」


「なぜ助けるんです」


「……」


 正直に言えば俺自身、まだ躊躇があった。

 奴の言動はいちいち鼻につくし、考えていることもやっていることも俺の神経を逆撫ですることばかりだ。

 それに奴が五位の座にいることで優秀な一人の弓兵が十弓の栄誉に与れずにいることもまた事実だ。

 

 だが奴が替えの利かない人間であることも理解している。

 そしてその能力は、おそらく葦原に必要なものだ。


 それに奴が俺の立場だとしたら、不平を言いつつも一応は助け舟を出すだろう。

 もちろん現場に踏み込むなんてことはするまい。狡猾に人脈を駆使し、金を使い、圧力をかけて黙らせようとするに違いない。

 方法はどうあれ、ミョウガヤはそういうことをする。

 奴は俺と違って感情に振り回されないからだ。

 

(……)


 自分に求められている役割を果たすため、感情を脇に置き、諍いをいったん忘れる。

 それを一人前と呼ぶのなら、奴は俺より一人前だ。


 だったら俺も一人前のことをやるべきだ。

 子供である奴にできて、大人である俺にできないわけがない。


「気に入らない奴だが、一応仲間だ」


「甘いですね」


「そうだな。だからお前が隠していることも追及してない」


「……」


「シア。――」


 ちょんちょんと何かが肘に触れていた。

 俺はそれを払いのける。


「何でルーヴェが必要なんだ?」


 ちょいちょいと何かがまた俺の肘をつつく。

 何だと思って振り返ると、狼の頭蓋骨がこちらを睨んでいた。


「……」


 どうやら先ほどから国民番号7731が槍で俺の肘をつついていたらしい。

 目は見えなかったが、意図は察することができた。

 『いつまでお喋りしている気だ』だろう。


「……あ。いや、申し訳な「バリオが出たぞ!」


 大声が轟いた。

 続いて大質量の何かが水面を破り、波の立つ音が聞こえる。

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