第30話 28
平原の向こうに葦原が見えた。
国境に臨む屯所は黒瓦の張られた建物で、目を凝らせば長着や袴姿の男たちが動いているのが分かる。
俺は顔も知らず、身分も分からない男たちの姿にどうしようもない懐かしさを覚えた。
「見えましたか?」
木の下からシアが声を投げた。
「ああ」
胸が詰まるほどの感慨に、短い言葉しか返せなかった。
長い旅路だった。
霧の向こうに引きずり込まれて、恐竜に追い回されて、恐竜女に追い回されて、唐では人に振り回されて。
体感的には数年が経ったようにも感じる。
視線を国境の手前側に向けると、ブアンプラーナの街があった。
さすがに国境付近ということもあり、それなりに栄えているようだった。
この辺りには茅葺き屋根の家屋も多いが、石積みの建物や半球状の石塔が目につく。
象の往来が激しい地区ではしばしばこうした石造りの家屋が見られる。中に入っているのは大抵、病院や託児所だ。
何かの拍子に象が駆け回ることになっても倒壊しないよう補強されていると聞く。
金に染め抜かれた螺旋状の尖塔も散見される。
王家に属する施設や、その関係者の詰め所だ。
紫色の布を翻し、街路を行き交う禿頭の男たちは
ところどころ黄色や橙色の姿もあるが、これは主に女性だ。
濃い花の色をした彼女達の多くは剃髪していないため、遠目にも艶やかに映る。
それに、象。
まだ体の大きくない象が街路を行き来している。
彼らが余裕を持って通れるよう、ブアンプラーナの街は異様に道幅が広い。
「つるつる、いっぱい」
すぐ近くまで木を登って来たルーヴェが呟く。
「ワカ。ここの人はなんでつるつる?」
「間合いに入った時、髪を掴まれないためだって聞いたことがある」
「ふうん。……!」
ルーヴェがぴくりと後方を見やった。
見ればシャク=シャカも彼女と同じように街道の後方を見やっている。
そこにはもたもたと荷馬車を歩かせる行商の一団や、街道に
品物は地味だが観光客で賑わっており、象を触らせている禿頭の男も居た。
「シャク=シャカ」
俺は弓を担ぎ、木から降りた。
「まだいますか?」
「いるな。二人だ。じっとついて来てやがる」
ちらとルーヴェを見ると、彼女も小さく頷いた。
どうやらずっと尾行されているらしい。
「力の差、分かってねえ事ァないはずだが」
シャク=シャカはぼりぼりと頭を掻いた。
その隣ではシアが行き交う象を子供のように見つめている。
「シャカ。あのふたり、ころす?」
「いや、止そうや。他にもっと大事なことがあるだろ? なあワカツ」
「ああ」
何のつもりか知らないが、危害を加える気が無いのなら放っておけばいい。
俺たちは馬に乗り、素早く街路を下った。
街は雑然としていた。
普段のブアンプラーナに比べて遥かに外国人が多い。
太刀を佩いた葦原の武士がいる。殺気を放っているが、傭兵だろうか。
唐人の集団は昼間から酔っぱらっているようで、道に唾を吐いていた。それを見た露店の主が嫌な顔をしている。
ぞろぞろと丸めた絨毯を担いで歩くのはザムジャハル人だ。湿度を嫌う彼らは顔に包帯を巻いていた。
エーデルホルンから来たと思しき剣士の一団もいた。
「賑やかだな」
「本当に。ゆっくり観光でもできれば良かったんですが」
ブアンプラーナは市民こそ貧乏だが、経済が死んでいるわけではない。
路地を少し歩けば露店街があり、葦原では採れない珍しい果物や川の珍味が売られている。
ぶつ切りにしたナマズは鉤で吊るされ、干した手長海老が
以前冒涜大陸で口にした、毛の生えたような赤い果物も山盛り積まれている。
そのすぐ近くでは禿頭の子供が熊の頭ほどの大きさがある果物を傾け、白い蜜を啜っていた。
溢れ出す果汁が衣服を濡らし、ぼたぼたと地を叩いている。
「おいしそう」
「落ち着いたらまた連れて来る。今は葦原に帰るのが先だ、ルーヴェ」
「ワカツ。このまま国境を抜けるか?」
「いや、宿を押さえましょう。この感じだと管理所に行列ができてるかも知れない。手続きする間に受付時間が終わって、そのまま野宿する羽目になる」
「分かった。行きつけはあるか?」
俺は何度か使ったことのある宿の名を告げた。
馬を曳き、ざわめきに包まれた大通りを歩く。
(……)
市民の間に危機感は感じられない。
ここが冒涜大陸からかなり離れていることも原因の一つだが、やはり象の存在が大きいのだろう。
どしんどしんと歩く象とすれ違う度、小さな風が舞う。
この質量。
この存在感。
確かにこの生き物が味方なら怖いものなしだ。
――だが向こうには恐竜人類がいる。
連中は闇雲に突っ込んで来る獣の群れではない。
考えるための頭がついており、意思疎通するための口がある。
ブアンプラーナが奴らにどこまで通用するのだろうか。
挨拶にかこつけて軍に顔を出してみるか。
「っ」
ぼうっと考え事をしていたせいか、俺は何かにつまずいてしまった。
がらんがらん、と積まれた木の椀が転がる。
「あ。すみません」
編み笠をかぶった夫婦らしき露天商は俺を手で制した。
妻の方は腰を丸めて椀を拾い始め、夫の方は
俺は一息つき、先行するシアたちの方へ歩き始めた。
「しばらく見ぬ間に……男の顔になられたな、九位」
はっとして振り返る。
たった今すれ違った露天商夫妻、その夫が編み笠の下から狐の面を覗かせていた。
「よほどの苦難を乗り越えられたと見える」
聞き覚えのある低い声。
俺は思わず首を振り、小さく笑う。
「忍者は仕事が速いな。助けを呼んで来ましたって報告か?」
ゆらりと立ち上がった狐面の露天商は、かつて俺と行動を共にしていた忍者だった。
正確に言えば、九位付きの護衛だ。
よく見ると椀を拾う妻の方も猿の面を着けている。
「左様。
「はーん……言うなお前」
「まあ、そう怒られるな。あの後すぐに援軍が到着した。トヨチカ殿を始め、皆、おおむね無事だ」
俺はトヨチカの顔を思い出し、吐息をついた。
が、すぐに顔を引き締める。
「おおむねか」
「おおむねだ。死んだ者も居る。それは仕方ない。よその惨状を聞くにつけ、我らはつくづく幸運だったと思いまする。……時に九位」
「ん?」
「あちらの御仁、何者だ」
忍者が示したのはシャク=シャカだった。
シアと並んで少し先を歩いていた彼はこちらをじっと見つめていたが、手だけで「先に行く」と示した。
忍者の素性を見抜き、会話に混じるべきではないと判断したのだろう。
「先ほど睨まれたが、
「そりゃそうだろ。あの人はシャク=シャカだよ」
「! 唐の生ける伝説か。道理で……」
「『七太刀』に弟子入りしたいそうだ」
「ほお。……。九位がその渡し橋になると?」
「ああ。色々あって友達になった」
忍者は重々しく頷いた。
「
「今更遅いんだよてめえ」
一発殴ってやろうと思ったが、忍者が取り出したものを見てやめた。
長弓だった。
しかも、家の倉にしまっておいた『俺の』長弓だ。
「お前、これ……」
じんと胸が熱くなる。
俺の生存を聞きつけて、ここまで持って来てくれたのだろうか。
忍者は恭しく頷いた。
「左様。主がいなくなって不憫だろうから、良い持ち主に巡り合えるよう売り飛ばしに持参した次第」
「……」
「やあ、こうして出会ったからにはお返しするしかあるまいなぁ。小遣いになると思ったのだが」
俺は無言で忍者から弓を引っ手繰った。
唐の弓を押し付け、靭を腰に吊るす。
矢の具合も完璧だ。透かし彫りも入っている。
「毒は?」
「持ち込めるとお思いか。第一、
「役立たずが」
「その役立たずに助けられた九位殿は何でござろうな?」
ぐうの音も出なかった。
俺は弓を整え、ふと尋ねる。
「なあ」
「む?」
「俺達、目立つか?」
忍者は少し考え込み、告げた。
「強者が四人。見る者が見れば驚きもしようが……この国は今、この通り賑わっておる。凡夫の目にはただの四人連れにしか見えぬでしょう」
「だよな。……」
俺は行き交う人々の隙間を見る。
「変な連中に尾行されてる」
「もういないよ」
告げたのはルーヴェだった。
シアとシャク=シャカに馬を託し、わざわざ戻って来たらしい。
「ここに入ってからいなくなった」
「さもあろう。この街は今、どうもおかしなことになっている」
「?」
「詳しくは調査中だが、王家絡みで騒ぎがあったらしい」
「王家? この非常時にか」
「非常時だからであろう。恐竜絡みと聞いている。
「某『ら』……?」
忍者は面の下に笑みらしきものを浮かべたようだった。
「九位の大好きな五位殿がこちらに入られておる」
「! ミョウガヤのクソチビが?!」
咄嗟に放ったひと言に通行人が振り返った。
俺は口を噤み、忍者の胸倉をつかんで引き寄せる。
「何しに来てるんだあのチビが」
「さてな。何やら用命を受けた様子だったが。
「……」
かつての仲間が近くにいる。その事実は俺を喜ばせなかった。
俺以外に『十弓』は九人いるが、五位はその中で最も俺が嫌っている奴だ。
逢いたくない奴でもある。
「あまり出逢われぬ方が良かろうな」
「ああ。さっさと国に戻るとする」
「待たれよ。今は外に出られぬ」
「何?」
「事情は知らぬが、様子がおかしいのだ。国境に向かった連中がひどく厳重な取り調べを受けていると聞く」
「取り調べ?」
「左様。この辺りの人通りが多いのもそれが原因だ。皆、葦原側に出国できずにおる」
「何でだ」
「それを調べておるのだが。その耳と頭は飾りかね」
ルーヴェが忍者に顔を近づけていた。
すっと伸びた手が狐の面に触れる。
「へんなかお」
「……。……」
「ワカ。こいつ武器たくさん持ってるよ」
「ほほう。この娘もなかなか腕が立つようですの」
「それ、何?」
「……はて。それとは?」
「その、爪の中に入ってるの」
ルーヴェの視線を追った忍者が、息を止めた。
「……九位。この娘……」
「恩人だ。ちょっと目鼻が利く」
「むう。奇怪な……」
忍者はじろじろとルーヴェを見回した。
「面白い身体をしておる。忍者の素養があるやもな」
「にんじゃ?」
「左様。興味はおありか?」
「にんじゃは、何?」
「
「やめろ」
俺は二人の間に割って入った。
「この子は俺の恩人だ。あまり変なことを吹き込むな」
「で、あるか? 血の匂いがするようだが。強ければ都合が良いのではないのか?」
その問いにルーヴェが返事をすることはなかった。
行き交う人々が割れ、中から一人の人物が現れたからだ。
「おや、誰かと思えば」
さり、さり、と砂を踏む音が近づく。
俺はそちらを見やり、ここ数年で最悪の気分を味わった。
エーデルホルンとの混血のため、髪は金色。
肌は白く、眼は青い。
俺と違ってきちんと袴を着ており、歩く度に高そうな草履が覗く。
紋の入った黒い広袖の上には、紅葉よりも赤い狩衣を着ている。
俺に近づき、俺を見上げたそいつの背丈はシャク=シャカの半分ほどしかなかった。
要するに、子供だった。
「やあ、ワカツ九位」
可憐な少女に近い声。
変声期をまだ迎えていないのだ。
「無事だったんだね。良かった良かった」
にっこりと、少年は微笑んだ。
砂を噛むような気分だった。
こいつの顔を見る度に俺は不快さを味わうことになる。
「君が死ぬと下品な雑兵の面倒を見る役がいなくなるからさ、生きていてくれて嬉しいよ」
「……ミョウガヤ五位。どういう意味だ」
「そのままの意味だよ。野犬の群れにも長がいる。そんな役目、誰もやりたがらないけど君は進んでやってくれるからねぇ」
「俺の部下が野犬だと?」
弓を握った瞬間、ミョウガヤの姿が隠された。
四つの巨躯に。
(……)
ミョウガヤの周囲には四人の弓兵が立っていた。
毅然とした顔の女、柔弱さのある女、線の細い男、無骨な男。
四人は黒い長着に革鎧を纏い、赤い肩掛けを流している。
口元は漆塗りの半仮面で覆われており、花の紋様が入っていた。
四人とも、俺と同じ長弓を握っている。
その矢筒からは赤い矢羽が覗いていた。
「ツバキ、サザンカ、スイセン、ドクダミ。やめろ。九位は敵じゃない」
四人の弓兵がすっと退いた。
退いてもなお、ミョウガヤの四方を囲うように立っている。
「敵にもならないからね。だって九位は四位より弱いんだから」
「……お前は五位だ」
「じきに四位になるよ。この仕事が終わる頃にはね」
ミョウガヤ五位は怜悧な瞳を歪めて笑った。
この男は十弓で唯一、自分で弓を引かない男だ。
その代わり、一族に代々使える者たちに弓を引かせる。
四人衆の腕前は確かで、一人一人が一騎当千の強者ばかりであるだけでなく、驚くほど呼吸が揃っている。
呼吸をずらして放たれる矢も凄まじいが、それ以上に『同時射撃』が目を引く。
紅い矢羽と四連射の鮮やかさがミョウガヤ五位の二つ名の由来だ。
この男の二つ名は、『花の矢』。
「……」
ルーヴェが無言で前に出たが、四人衆のうち二人がそちらをちらと見ただけだった。
全員で警戒するには値しないと判断したらしい。
こいつが十弓の地位にいるのは四人衆の力だけではない。彼自身の家柄と献金、政治手腕が認められたため、分不相応に高い地位にいる。
カネでお偉方の歓心を買い、たっぷりと国に見返りを寄こし、他人の力で五位にのし上がった男。
自分一人では着替え一つできない腑抜け。
そんな奴が、俺より偉い。
こいつの姿を目にする度に、俺は世のいびつさにむかつきを覚える。
「そんな睨まないでほしいなぁ。こっちは生還を祝ってあげてるのに」
いっそ蹴っ飛ばしてやりたかったが、それはできない。
「で、
「なに、懐かしい顔が見えましたのでな。五位殿の爪の垢を煎じて飲めと申しておったところ」
「ははっ。それはいいね」
「……」
俺は無言で踵を返した。
「待ちなよ」
引き止められ、苛立ちと共に振り返る。
「急いでる」
「別に急ぐことはないだろう?」
ミョウガヤは瞳を細めた。
「恐竜と、恐竜女のことならとっくに天下に知れ渡っている。君しか知らない情報なんてもう無いよ。慌てて葦原に帰ったところで、別に誰も君を待ってはいない」
「……」
「それよりもさ、僕の仕事を手伝ってくれないか?」
「何?」
ミョウガヤの口元にうっすらと笑みが浮かぶ。
「これから、王家の人間を助けに行く」
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