第29話 27
ブアンプラーナの大気は常に水を含んでいる。
じっとしているだけで鎖骨に汗が溜まり、睫毛からは滴が落ちる。
植物の茎で編まれた籠に褐色の指が伸びた。
盛られているのは大粒のソラマメだ。さっと湯通しして塩を振っただけの安い豆。
褐色の男はそれを口に放り、むぐむぐと咀嚼した。
「川の匂いがしやがるな」
くすんだ金髪に赤目、褐色の肌を持つ剣士シャク=シャカは邪気の無い苦笑を浮かべる。
「嫌いってわけじゃねえが、ここの食い物は辛気臭くていけねえ」
「薬味を使わないからですよ」
俺はよく肥えたソラマメ数粒を大きな
香り高く、それでいてもっちりとした食感。
素晴らしい。
「ん」
確かめるように何度か頷き、咀嚼する。
「俺はこれぐらいがちょうど良いですね。……もう少し中央に寄ると料理が全体的に赤くなるから」
「俺ァそっちの方がいいな」
「辛味串焼きに辛野菜盛り、辛酸っぱいスープ……。いいな。すごくいい」
しかし、とシャク=シャカは首を伸ばし、窓の外を見やる。
「今そんな話しても、むなしいだけだな」
俺たちが身を寄せているのは茅葺き屋根の小さな宿だった。
ぐえこ、ぐえこ、とカエルたちが下品な鳴き声を上げ、湖沼ではとぷんと魚の跳ぶ音がする。
厨房からは湯気が漏れ出している。女将が豆を茹でているらしい。
道に面した庇の下では行商人が細々した手芸品を並べている。
禿頭で、衣服は紫の布一枚。ブアンプラーナで最も一般的な男性の姿だ。
地平線に沈む太陽は赤みがかった卵黄色。
空は朝焼けにも似た淡紅色で、遥か彼方を数羽の鳥が渡っていた。
窓の向こうにも水鳥の姿があった。
湖沼に臨む石に立ったそいつは、長い脚と嘴を濡らしている。
じっと水面を見つめる様は賢人のようにも見えた。
俺はシャク=シャカに視線を戻す。
「まっすぐ葦原に向かうんですから、辛い料理を食う機会はありませんよ」
「それがちと残念だな」
シャク=シャカはあまり残念そうには見えなかった。
彼の目線は皿の豆から俺の手元へと動く。
「弓は手入れが大変だな」
俺は乾かした弦を張り直し、矢を一本一本手入れしているところだった。
唐を出る時に授かった弓矢はそれなりの品だった。
だが、いかんせん他国の弓。材質はもちろん、そもそもの製法やしなり方、重さの偏りが葦原のものとはまるで違う。
俺の持ち味である『蛇の矢』は葦原の弓、葦原の矢を使うことを前提としているので、今の状態では十分に実力を発揮できない。
矢を手入れすることで少しでも万全の状態に近づけているのだが、気休め程度にしかならない。
(……)
ごろろろ、と。
雷鳴にも似た恐竜の咆哮が耳に蘇る。
連中は獣だ。
武器が揃っていない、なんて言い訳は通じない。
早く葦原の矢と弓が欲しい。
「そう言や、毒はどうした?」
「……透かし彫りが無いから使えません」
「すかしぼり?」
「鏃に穴を空けて、そこに毒を塗り込むんです。刃に直接塗ると危ないので」
「おいおい。お前は蛇飼いワカツだろ? 毒に怯えてどうすんだよ」
シャク=シャカはもどかしそうに豆を指で弾いた。
「毒の無ぇ蛇なんてウナギと同じじゃねえか」
俺は皿に乗った鶏肉をシャク=シャカの方に押しやった。
肉は嫌いだ。
がつがつと剣士が肉を喰らう音を聞きながら、俺は考えていた。
冒涜大陸を脱出し、唐を経由してブアンプラーナまで来た。
葦原まではあと一日、長く見て二日あればたどり着ける距離だ。
今、あの国はどうなっているだろうか。
(……)
唐は人数にあかせて冒涜大陸へ攻め込むつもりだ。エーデルホルンやザムジャハルも遠からず同じことを考えるだろう。
翻って俺の国にそれほどの軍事力は無い。
恐竜と戦えるのか。
恐竜人類に抗えるのか。
それは俺が考えるべき問題なのか。
見ればシャク=シャカは盃から白湯を呑んでいた。
「……酒はいいんですか」
「今は要らねえ」
ぱん、と腿を叩いた剣士が立ち上がる。
深紅の軍服は前面が少しだけはだけられており、立派な胸板が覗いていた。
やや裾の長い上着がゆらりと揺れる。
「さ、て。食うモン食ったし、寝る前にやることやるかね」
「?」
「シア。ルーヴェ!」
シャク=シャカの喇叭じみた声は狭い宿全体に響くようだった。
やがてじゃらじゃらと玉暖簾をくぐり、オリューシアとルーヴェが姿を見せた。
「呼びましたか」
「……」
二人の顔はまったく似ていない。
シアは色白黒目のエーデルホルン人らしい顔立ちで、山吹色の長髪を背に垂らしている。
国籍不詳のルーヴェはやや日焼けしており、鳶色の髪と茶色い瞳を持っている。
顔の違う二人は、よく似たスリットドレスを纏っていた。
シアが黒で、ルーヴェが赤。
大腿部の裂け目から覗く脚はどちらもすらりと長く、筋肉の乗ったふくらはぎは丸みを帯びている。
よほど動きやすかったのか、それとも着替えるのが面倒だったのか。
シャク=シャカは両手を上げ、歓迎の意を示した。
「どっちか付き合ってくれ。寝る前に身体を動かしてえ」
シアは不快感を露わにした。
が、俺はシャク=シャカの言葉に下品な意味が込められていないことを察する。
その証拠に、彼は刀を掴んでいる。
「
「……。そういうことですか」
「ん? 何だと思ったんだ?」
「口説き文句かと」
「今は女は要らねえ」
苦笑交じりの言葉。
だがシャク=シャカの目は笑ってはいない。
紅い瞳の奥には深い失意と、そこから這い上がろうとする闘志が覗いている。
こんな顔をする男が女にうつつを抜かすわけがない。
シアは氷のような目を向ける。
「私は一応、軍属ですので。冗談でもあなたと斬り合うわけにはいきません」
「そりゃ残念だ。アンタ強そうに見えるんだが」
「買いかぶり過ぎです。……」
自然、俺達の目はルーヴェに向いた。
冒涜大陸生まれの少女は俺たちの食べ残しに手を伸ばし、魚の尾と骨をばりばり齧っている。
声を掛けるのは俺の役目だった。
「ルーヴェ」
「?」
「シャク=シャカと剣の稽古をしないか」
「いいよ」
少女は体格に見合わぬ大剣を担いでいる。
騎兵でなければ使わないような大剣だ。
腰に下げるのは無骨な喧嘩剣。これも女が携えるような武器ではない。
刀を担いだシャク=シャカは嬉しそうだった。
「本気で来ていいぞ」
「……シャカと私、怪我する」
「怪我しねえで訓練になるかよ」
庭に出た二人は鞘を払った。
本当に真剣でやるつもりらしい。
白刃が夕陽を照り返し、きん、と甲高い音が響いた。
「大丈夫か、あれ」
「大丈夫でしょう。どちらも強いですから」
シアは窓枠に尻を乗せ、髪留めを外した。
ざあ、とぬるい風が山吹色の髪を梳く。
「……川の匂いが濃いですね」
「そうだな」
言いつつも、俺が嗅いでいたのはシアの香りだった。
――氷の匂い。
そんなものが実在するのかは分からないが、彼女の発する冷涼な香気はそうとしか喩えられなかった。
ルーヴェとシャク=シャカの剣戟も、落ちたツララが氷の床を叩く音に聞こえる。
「葦原も水源に恵まれた国だと聞きますが、こんな匂いはしませんでしたね」
「水の質が違う。ブアンプラーナの川は濁ってる」
この国の川に棲んでいるのはナマズにカエル、ワニにコイにフナだ。
淡水エイやウナギ、イルカや淡水サメなんてのもいる。
餌も大きい。水底には大人の手ほどもある水棲昆虫が蠢いている。
一方、葦原の水はほとんどが清流だ。
川を覗き込めば水底の砂利を数えることすらできる。
棲んでいるのは鮎に山女魚、鮭、鮠、岩魚。
飛ぶ虫は
大型の爬虫類や魚類はいない。いたとしても熊の餌になるだけだ。
「ずいぶん生態系が違うんですね」
「それはそうだ」
俺は地平線に目を凝らす。
ここから見えはしないかと。
「この国にはプラチュメーク川が走ってる」
きん、ききん、と涼し気な音が聞こえ続けている。
「世界最大の川、ですか」
シアは哀愁らしきものを覗かせる。
「私の国では冬になるとほとんどの川凍り付きますから、想像もつきませんね。都市に流入して、その暮らしと一体になっている川なんて」
「それはラオサーン川の方だ。支流の一つがブアンプラーナの首都に流れ込んでる。そっちはそんなにでかくない」
「そうなんですか」
間違った知識を指摘されても、シアは気に留めていないようだった。
彼女にとってこの国は大陸の南端。事実上、世界の反対側だ。
細かな知識に誤りがあったところで大して影響は無い。
「プラチュメーク川はラオサーン川の十倍以上の長さがある。この大陸を人間の身体に喩えたら、動脈ぐらいの太さがある」
「それは驚きですね」
「そうだろう?」
退屈を溶かした薄笑みが向けられる。
俺も似た笑みを返す。
「プラチュメーク川の源流は冒涜大陸にある」
「……」
今度こそ、シアは本気で驚いたらしい。
窓枠から腰を浮かし、俺に近づく。
「……何ですかそれ。初めて聞きましたけど」
「あまり知られてないからな」
俺はシアに代わって窓枠から身を乗り出した。
ルーヴェとシャク=シャカの剣戟は徐々に激しさを増している。
金属の食器に砂利の雨が降るような音だ。
「この国は元々、冒涜大陸と繋がってる」
でかいナマズやらでかいエイが獲れるのもそれが原因かも知れないと誰かが言っていた。
もしかすると象も本来、あちら側の生物なのかも知れない。
とは言え、『霧』は確かにこの土地と冒涜大陸を隔てていたらしい。
幸いにして、大河から恐竜が現れた、なんて話を耳にしたことはない。
――今にして思えば不幸だったのかも知れないが。
「……早く通り抜けたいですね」
シアは落ち着かない様子で窓の外を見渡していた。
行商人が品物の乗った絨毯を畳み、背に担ぐのが見えた。
「ここは冒涜大陸からかなり離れていますけど、川に沿ってアロ辺りが出て来たら一大事です」
「いや、そんなに急ぐ必要はないと思う」
俺は彼女ほどの焦りを覚えていなかった。
「象が恐竜をどう捌くのか見てみたい」
「……象、ですか」
「象だ」
ブアンプラーナを世界最強たらしめる要因。
人よりも恵まれた暮らしを送る、大陸の覇者。
漠然とした感覚に過ぎないが、俺は彼らなら恐竜に対抗できると考えていた。
その考えが当たっているのか、知りたかった。
「子象なら見てみたいですね」
シアは微かに頬を緩めていた。
こいつは四足獣、なかんずく哺乳類を好むらしい。
「ぜひ抱っこしてみたいです」
「象は臭いぞ」
「可愛いものは臭くなんてありません」
「……」
幸いにして葦原とブアンプラーナは友好関係にある。
現在、恐竜の大群と象がどう争っているのか。争う予定なのか。
それを聞くことぐらい許されるだろう。
――いや、許される『と思っていた』。
剣をぶつけ合っていたシャク=シャカとルーヴェがほぼ同時に手を止めた。
二人は細い街道を見やっている。
俺とシアもじっとそちらを見つめた。
先ほどまで商品を広げていた行商人がゆったりとした歩みで立ち去るところだった。
「……」
静かな足音と共に、シャク=シャカとルーヴェが現れた。
ルーヴェはぜいぜいと息を乱していた。
「まあまあ強いぞ、この姉ちゃん。武器をちゃんと選べば見違えるほど強くなる」
ぱんぱん、とシャク=シャカがルーヴェの肩を叩いた。
「で、野郎は行ったか?」
「ええ」
シアが顔を顰める。
「ワカツ。身分は伝えましたか?」
「もちろん」
友好国の指揮官。
そう伝えたのだから歓迎される覚えこそあれ、監視をされる覚えはない。
(……)
ブアンプラーナの軍は徒手での戦闘に重きを置いている。
経済的な事情もあるが、実際にそちらの方が何かにつけて都合が良いからだ。
一方、剣術を修めている者も少数だが存在する。
この国でそうした技術の習得を認められている者は、そのほとんどが間諜だ。
あの行商人は懐に武器を携えていた。つまり間諜だ。
それをルーヴェとシャク=シャカが早々に見破ったたため、俺たちは本当に重要な情報を口にすることを控えた。
「ワカツでなければシャク=シャカのせいではないのですか?」
シアは腕を組んだ。
「何せ唐の英雄なのですから、監視がつくのも納得できる話です」
「入国の時はシャカで通してる。珍しい名前じゃねえよ」
「見破られたのかも知れません」
はっ、とシャク=シャカは鼻で笑った。
「だったらなおのこと変な話だ。俺が俺だと分かってるなら監視なんざつけねえ。つけても意味ねえからな」
「……それもそうですね」
シアはちらと俺を見た。
「ブアンプラーナは入国者にここまで厳しい国でしたか?」
「いや……俺が記憶してる限り、そんなことはない。むしろその辺はザルなはずだ」
「だな。俺もここまでねっとり見られたのは初めてだ」
シャク=シャカが壁際に腰を下ろし、重ねた両腕に頭を預けた。
「何かきな臭えな、この国」
「……」
ブアンプラーナは平和な国で、その民は誠実で温厚だ。
冒涜大陸から恐竜が湧き出したからといって、国民性が一変することはない。
――だが、何者かが俺たちを監視させていた。
この国を通過する多国籍の集団なんて珍しくもないし、唐とこの国を行き来する商人は膨大な数に上る。
その一組一組を監視するなんて馬鹿げたことをブアンプラーナがやるはずがない。
だが現実に、監視は行われている。
それは一体、なぜだ。
(……)
何かが、俺の知っているブアンプラーナと違うのかも知れない。
手の平がじっとりと汗ばんだ。
ぬかるみから這い出した肺魚が、どぷんと沼に滑り込む音がした。
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