第5話 5

 

 この世で最悪の行為の一つに、「女に嘘をつく」というものがある。

 女に嘘は通じない。俺はそれを嫌というほど知っている。


「シア」


 俺は下を見ないまま、ゆっくりとブーツを持ち上げた。

 血の気の引いた膝が冷たくなっている。


「すまん。……何か踏んだ」


 片眉を上げたシアが視線を落とし、見る見る顔をこわばらせた。

 俺も覚悟を決め、自分の踏んだものの正体を確かめる。

 枝の隙間から覗いているのは卵だった。


 それは無残に割れており、中身が飛び散っている。

 とろみを帯びた命の残滓が岩場にじわりと広がり、えもいわれぬ濃厚な香りを放つ。


「な、んでこんなところに……?」


 シアは俺を責めなかった。

 逆の立場なら俺も彼女を責めなかっただろう。

 卵は大量の枝と枯葉に厚く覆われており、視認することは不可能だった。

 シアはそっと枝をかき分け、無事な卵を三つ見つけ出す。


 大人の手に余るほどの大きさで、色は淡い砂色。

 表面には緑色の波模様が浮かび上がっている。


「……」


「……」


 この大きさ。明らかにワニやヘビのものではない。

 口にはしなかったが、俺たちは最悪の可能性に思いを巡らせていた。


「まさか、恐竜の卵……?」


「……いえ、そんなはずはありません」


 シアの額から一条の汗が伝った。


「だって……見てください。枝と落ち葉が積まれています。このサイズの卵を産む恐竜で、ここまで巧みに何かを拾い集めることができる種は……」


 確かに。

 俺は初めてラプトルを見た時、その鉤爪が子育てに向いていないと感じた。

 あれは肉を引き裂くことしかできない爪だ。

 ティラノに至っては前足が舌よりも小さい始末だった。それにあの大きな口で枝を運べるわけがない。


「草食恐竜……じゃないのか?」


「そもそも爬虫類は卵にここまで手をかけないはずです。……」


 言いつつ、シアは辺りの枝をめくり始めた。

 そこには濡れた泥や大きなムカデがいるばかりで、ほかの卵は見当たらない。


「……。他に卵はないようです」


「……じゃあ、鳥か?」


「鳥なら羽の一枚も落ちていそうなものですが」


「無いな。そんなもの」


 卵の周囲は清潔そのものだった。糞尿すら落ちていない。

 俺は恐竜のものだと半ば確信していたが、シアは混乱しているようだった。


「これは一体……」


 話が長くなる気配を察し、俺は腰に垂らしていた予備の弦を手に取る。

 完全に乾いてはいないが、これぐらいなら張っても大丈夫だろう。


 片方のはずに弦を引っかけ、そちら側の一端を岩に突き出す。

 ぐっとしならせ、反対側のはずに弦を引っかける。

 試しに指で強度を確かめる。


(……ダメだな)


 これでは使い物にならなさそうだ。

 一度弦を外した俺はシアを手招きし、二人で弓を反らせた。

 剣士をやっているだけあって彼女の腕力はなかなかのものだった。


「……ラプトルが鳴き声で互いに意思疎通を図っているという話、しましたっけ」


「聞いた気がする」


 ぐいいい、と反らせた弓の弭に弦を伸ばす。


「一部の恐竜には社会性があるのではないか、という話があります」


「社会性?」


 ぴん、と弦が張り詰める。

 俺は指が切れるのではないかと思うほどの強度に満足する。


「簡単に言うと共同体を作ることで生存における効率が最大化すると理解していること、だそうです。知能の高い恐竜は協力して外敵に対抗し、餌を取り、子育てをすることで1足す1が3や4になると理解している」


 確かに、1足す1が2にしかならないのならそこに社会は生まれえない。自分ひとりで生きた方が手っ取り早い。

 互いに協力することで1足す1が3になる。その前提があればこそ生物は共同体を作る。

 哺乳類ならそう珍しくもない話だと聞くが、爬虫類であると思しき恐竜も社会を作るのだろうか。


「共同体を作るためには意思疎通が欠かせません。今のところ同種間で細かい意思疎通を図っていると思しき恐竜はラプトルを含め僅かしか確認されていません。この卵の持ち主もその類だと思ったのですが」


 彼女の言っている意味が分からず、俺は少し考え込んだ。


「……共同体を作るほど賢い恐竜なら卵を隠す知恵もあるはず。だからこの卵の持ち主はラプトルの可能性が高い、ってことか?」


「そういうことです。でも……」


 シアは割れた一個と無事な三個の卵を見やる。


「もし卵の持ち主がラプトルなら、四個というのは少なすぎます。体格から類推するに一頭で四個は産むはずです。一共同体で四個というのは変です」


「一匹狼のラプトルなんじゃないのか」


「んー……共同体を作るという先天的な本能があるのなら、一匹になった時点でどこかの共同体に参加しそうなものですが」


(こいつ難しい言葉使うな……)


 と言うか、とシアは辺りを見回す。


「仮に一匹狼だとして、この場所を産卵に選ぶでしょうか。……この階段状の岩場、確かに卵を隠すには打ってつけの地形ですが、他のラプトルは気づいていないようです。この親だけ気づくというのも何だか――」


 つられて首をめぐらせたところで俺は思い出す。

 卵を踏んだことも重要だが、最優先事項は葦原への帰還だ。


「シア。さっきの水色の恐竜は?」


「ぁ。異竜のことですか」


「いりゅう?」


 シアも口にしたが、基本的に爬虫類は子育てをしない。

 彼らの子供が硬い殻に覆われて生まれてくるのは親がそれを護らずに済むためだ、と聞いたことがある。

 この卵の親はさらに小枝と枯葉で卵を包んでいる。抱卵の代わりだろうか。だとすれば親はもうここへは戻らないのだろう。


 とは言え、さすがに潰れた卵の匂いがすれば同種の親が怒り狂うだろう。

 俺はいったん沢まで降り、ブーツについた白身を水で洗い流した。


「学者は異竜アロと呼んでいます」


「小さなティラノか」


 俺は岩場に濡れた足跡を残しながら卵の下へ帰還する。


「いえ、まったく違います」


 シアに手招きされ、俺は再び『ひとつ上の大地』を覗き見る。

 異竜アロは三頭いた。

 彼らは水場に口をつけていたが、並ぶ間隔が狭いせいか互いに肩をぶつけ合っている。

 ゴル、ゴルル、と威嚇し合う姿に俺はなぜか親近感を覚えた。柄の悪い酔っ払いが酒場で席を取り合っているように見えたからだ。


 だがシアの顔は真剣そのものだった。


「あくまでもエーデルホルンに出没した恐竜に限定されます、単体で最強の戦闘能力を持つ恐竜は暴君竜ティラノだろうと言われています」


「だろうな」


「ですが、総合力で見た場合、異竜アロの方が強いと言われています。現に、エーデルホルンで最も多くの犠牲者を出している恐竜は異竜アロの方です」


 シアは先ほどから互いに威嚇し合っている水色の恐竜を示す。


「見てください。ラプトルほど高度ではありませんが、互いに意思疎通ができるんですよ。しかも――ほら」


 三頭のうち一頭がすぐ傍の草地に視線を走らせた。

 飛び出したのは藍色のラプトルだった。

 老体もしくは病気の個体だろうか。歩みが多少ぎこちない。


 水色の恐竜たちは頷き合うような所作を見せるや地を蹴った。

 最初の一歩でぶわりと土の礫が舞う。


(――!)


 その礫が地上へ落ちる頃には既に、アロは十歩近くの距離を移動していた。

 俺たちの歩幅に換算すれば数十歩に匹敵する距離を一瞬で詰めた。

 文字通り、矢のごとき速さだった。


「は、速い……!」


「ティラノは体が大きく、歩幅が広いだけで機敏なわけではありません。でもアロは違う」


 瞬く間にラプトルを囲った三頭のアロは一斉に首を振り上げた。

 噛みつきではない。

 奴らは斧でも振り下ろすように頭を振った。


 ラプトルは一頭の攻撃をかわしたが、続く一撃をかわしきれなかった。

 牙の一撃をまともに受けたラプトルの胴体から、べろりと肉が剥ける。

 一瞬、俺は半身を食われた鯛じみたラプトルの断面を目撃する。


 ぶしゃあっと舞った血がアロの顔を汚した。

 三頭の水色恐竜はぐるる、ごろろろ、と歓喜の雄たけびを上げる。

 肉に取りついた三頭は肩をぶつけ、またしても互いを威嚇しながら獲物の肉にありついた。


「共同体とは呼べないにせよ、互いの存在を利用するだけの知能、あの攻撃力、そして素早さ。……見方によってはティラノより厄介です」


「……待て。まさかこの辺りは」


「ええ。おそらく異竜アロの縄張りです」


 血と肉の宴に酔うアロを横目に、草食恐竜たちがすごすごと逃げ出していく。

 その野蛮な食事を咎め者も、横取りする者も、おこぼれに与かる者すらいない。

 それは彼らがこの辺り一帯の王であることを意味していた。


「あ、あれの中をかいくぐるのか」


「葦原へ向かうならそれ以外道はありません。……すみません。川を流されていた時は無我夢中で気づきませんでした」


(……)


 ティラノ並みの巨体の持ち主で、ラプトル並みに俊敏。しかも徒党を組む程度には知恵がある。

 とてもじゃないが今の俺たちが立ち向かえる相手ではない。

 発見されることは死を意味する。


 アロたちはがつがつと肉を頬張り、乱暴に咀嚼し、ごくんと飲み込んでいる。

 口を真っ赤に染めたその顔に俺は無邪気さすら感じた。


「ワカツ。今はいったん、匂いを消す方法を探しましょう。今この状態でここを通ることは不可能です」


 シアは既に岩場から顔を引っ込めていた。

 俺はなおも目だけを地面と同じ高さにし、周囲を窺う。


 中央に大きな川が流れており、それ以外にはろくな遮蔽物のない大地。

 しかも恐竜がうようよしている。

 彼女の言う通り、ここを突っ切れば自殺するよりも確実に死ねるだろう。


 だがアロの脅威にさらされているのは俺たちだけではない。

 あれが葦原に出現する前に俺は葦原へ戻らなければならない。


(……)


 突っ切れば、確かに殺される。

 では――――


「シア。匂いを消すのも大事だが、もう一つ考え方がある」


「?」


「あいつらを満腹にさせるんだ」


「満腹に? ……、……」


 シアは少し考えた末に、黒い瞳を潤ませる。


「……なるほど」


 ああ、と俺は頷く。


 解剖していないので正確なことはわからないが、所詮爬虫類である恐竜の消化能力は決して高くないはずだ。

 一度満腹になればかなりの時間、満腹の状態が続くはず。

 もちろん例外はあるだろうが、ほとんどの場合、満腹の肉食動物は他の生物を襲わない。


 仮にこの辺り一帯がアロの縄張りだとして、あらゆる生物の立ち入りが禁じられているのかというと、そうでもない。

 現に大型の草食恐竜がうろうろしているし、足の速い小型恐竜がちょこまか動いている。

 アロの縄張りを犯してはならないのは、おそらく同種かそれに近い生態を持つ肉食恐竜だけだ。

 それ以外はすべて『餌』なのでアロは見逃してくれるはず。


 アロから逃げるのではない。

 彼らに通行料を支払い、その目の前を堂々と通り抜ける。


「俺たちがあいつらの狩りを手伝うんだ」


「……」


「小型の恐竜をうまくあそこに追い込んで、アロ達に喰わせる」


 こちらには弓がある。

 風上から追い込めば可能なはずだ。

 射殺すつもりがないのなら、鏃を消耗することもない。


「どれぐらい食べさせれば満腹になるかなんて見当もつきません」


「いや、つく」


 俺は目を細めた。


「胃袋だ。ラプトルの胃袋に入る容量を……大人一人分ぐらいだと仮定しよう。アロの胃袋の大きさはその三倍か、四倍ぐらいじゃないのか?」


「……」


「その八割ぐらいの肉を用意すればあいつらは動かなくなるはずだ。……俺は算数は苦手だ。シア。もう少し正確に計算してほしい」


 なぜかシアが俺を睥睨している。

 敵意すら感じる鋭さに、俺はややうろたえた。


「どうした?」


「いえ。ワカツ。あなた――――」


 グルアぁ、という声に振り返る。

 見ればやや遠い場所に繁茂する草地から一頭のアロが飛び出すところだった。

 そいつは何かを追っていた。


 鳥だ。

 妙に首が長く、脚の長い鳥。

 茶釜に長い首と二本足が生えたかのような奇妙な鳥がアロに追われている。


 例の三頭がゴアア、と吠えた。

 仲間の到着を喜ぶかのように。

 あるいは、獲物の到着を喜ぶかのように。


「行きましょう。ワカツ。ここにいたら」




 鳥は。

 こちらに鼻先を向けた。


 そして砂埃を巻き上げ、猛然と駆けてくる。




「ぁ、え?」

「おい、ちょっと……!」


 俺たちは素早く岩場に着地したが、その時はもう遅かった。

 どずんどずんどずんという地鳴りじみた足音が近づき、あっという間に崖へと迫る。


「は――」


 速すぎる。

 そんな悲鳴を上げる時間すら与えられなかった。


 崖を飛び越えた鳥は再び生きたまま地を踏むことはできなかった。

 瞬く間に追いついたアロの顎が長い首を両断していたからだ。


 すぱあん、と刀の入った竹のごとく、長い首が川に落ちる。

 ぴゅふうう、と無様に血を吹く鳥の体が茂みに落ち、続いてアロがその傍へ飛び降りる。


 ――――そう。

 『飛び降りる』。


(あの図体で飛ぶのか……?!)


 どどう、と鳥の傍に着地したアロは喜び勇んでその肉を食らい始めた。

 がつっ、がつっという乱暴な食事風景を前に俺とシアは慄然とする。



 そのほんの僅かな硬直が命取りだった。



 何かが陽光を遮り、俺は反射的にそちらを見上げた。

 跳躍する三頭の巨体。


「――――!」


 どう、どどう、と崖を飛び越えたアロ達が次々に岩場に着地する。

 幸いにして四頭すべてが川を挟んで向かい側に着地していたが、それが何の救いにもならないことは明らかだった。

 鳥を食らう一頭が残る三頭を威嚇すると、三つの首がすすん、すすん、と鼻を鳴らす。




 三頭が一斉に。

 俺たちを見た。




「~~~~~!!!」


 俺はその瞬間、シアの方針に致命的な穴があることに気付いた。

 『恐竜と出くわしたら同士討ちさせる』。

 あの方針は「誰も逆らえないほど強大なヤツ」と出くわす可能性を完全に見落としている。


「み、みみっ!!」


 水、と言おうとしたのだろう。シアは俺の手を掴み、引きずり込むようにして渓流へ飛び込んだ。

 どぶんと小さな水柱を立てた俺たちは見た目以上に深い川の底へ潜る。

 つい今まで俺たちの立っていた場所にアロ達が着地する音がした。


「~~!」

「~~!!」


 俺たちは身振り手振りで下流へ泳ぐことを決めた。

 方針も通行料も関係ない。

 今はそうしなければ死ぬ以外の道が無い。


 ずどう、ずどう、とアロの足が川へ踏み込むのが見えた。


「!!」


 俺とシアはより深く潜行し、砂利に鼻がつくほど深い場所を泳ぐ。

 流れは急だったが、それが俺たちに味方した。


 どぼお、どぼぼ、と背後で何か巨大なものが水の中へ突きこまれる。

 それがアロの顎だと知った俺は戦慄し、思わず水面に浮上した。


「ぶあっ!」


 息継ぎと同時に、後方を見やる。

 アロ達は思い思いの行動を取っていた。

 一頭は鳥を食い続けていたが、一頭は例の卵に鼻を埋めている。

 二頭が先ほど俺たちのいた水中からざぶんと顔を上げるところだった。


 すんすんすん、と割れた卵に鼻を寄せたアロがこちらを見た。

 水の中を漁っていた二頭もつられてこちらを見、それからグアアア、と吠える。


「お、泳いで!」

「分かってる!」


 シアが叫び、俺は怒鳴り返した。







 ざぶっ、ざぶっ、ざぶっとアロ達が岸辺を追ってくる。

 いつの間にか鳥を食っていた奴まで合流しており、四頭ものアロが俺たちに並走していた。


 俺とシアは川の中央に寄り、必死に水をかいた。

 武器を持っている分普段より遅かったが、これを手放せば最後だ。

 流れに背を押されながら俺たちは泳ぎに泳ぐ。


「段差だ!」


 俺たちは大人二人分ほどの高さの段差を転がり落ちた。

 岸を駆けるアロ達は軽々と段差を飛び越え、次々に着地する。


 と、一頭がざぶざぶとこちらに駆け寄って来た。

 今なら仕留められると思ったのだろう。


「ど、き、来てますどうすれば?!」


「い、いい、いったん潜れ!」


 俺とシアはあぷあぷともがいたが、杞憂だった。

 苔の生えた石でも踏んだのか、アロはすてーんと派手に転び、その場にひっくり返ったからだ。

 笑いの感情など持っていないはずだが、他の三頭は囃すように吠えていた。


 その光景を後目に先へ進んだ俺はちらと振り返り、愕然とする。


(う……!)


 転んだ奴が何事もなかったかのようにひょいと立ち上がった。

 冗談のように小さなティラノの前足と違い、アロの前足は自重をある程度支えることができるらしい。

 あの体躯でこの器用さ。まるで死角が無い。


「ワカツ! 前!」


 見れば川が二つに枝分かれしている。

 片方は最初に俺たちが漂着した浅瀬に続いているようだった。


「元いた場所はダメです! あんな浅瀬、陸と同じです!」


「わ、分かった! こっちに!」


 大河の中央を泳ぐ俺とシアは未知の流れへ向かった。


 見る見るうちに川の幅が広くなる。

 水の色は緑から濃い青に変じ、水をかく足が様々な魚に触れ始めた。

 明らかに魚ではない感触も混じっていた。


 岩と小石、砂で構成されていた岸辺には木々が生い茂り、土から露出した太い根が川に漬かっている。

 大きな蛇がするすると穴へ逃げ込み、猿の一団が枝をしならせて俺たちを威嚇している。


 どだっ、どだっ、どだだっと俺たちに並走する四頭のアロは木立に隠れがちだったが、こちらから目を離す様子は無い。


(まだ追って来るのか……!)


 奴らは大きなワニを踏み、ブタを蹴散らした。

 木を押し倒し、蔓と枝を切り裂き、土をひっくり返す。

 狩猟本能でも刺激されたのか、俺たちの他には何も見えていないらしい。


 やがて――――シアが息を切らせ始めた。


「ハッ……! ハッ、はっ」


 無理もない。

 俺は一応泳ぎの心得ある葦原の兵だが、彼女は港も凍るエーデルホルンの生まれだ。

 俺ですら心臓は破裂せんばかりに高鳴っているのだ。彼女の方はいつ爆発してもおかしくない。


 深い川は流れが遅い。

 俺たちの泳ぐ速度も徐々に緩み、今や流されるようにして下流へ向けて移動している。


(どうする……!)


 アロが水中まで追って来ることはなかったが、行く手に大きな滝があったらおしまいだ。

 それどころか川を倒木が塞ぎでもしていたら、身軽な奴らは平然とその上を渡るだろう。


「!」


 と、俺の足が地面を踏んだ。

 一体いつの間に浅瀬へ来てしまったのだろう。

 そんなことを思いながら両足をつき、立ち上がりながら水草を掴む。


 草ではなかった。

 ――――骨だ。


「?」


 なぜ骨が。

 それに何だか膜が張っている。

 まるで魚の背びれのような―――


「わ、ワカっ、わかつっ、つっ……!」


 しゃっくりでもするように喉を震わせたシアがふるふると首を振り、俺の足元を指さす。


「そそそそれ、あああああじじ、じめんじゃない……!」


「え」


 気づいた瞬間、俺は木一本分ほどの高さへ持ち上げられていた。


「おおおおおおおっっ?!!!」


 体勢を崩した俺は『何か』から――転がり落ちた。

 いや、それは『何か』ではない。恐竜だった。


 文字通りクジラ並みの巨体の持ち主が川の底から立ち上がる。


 背中に帆のようなヒレを生やしたそいつは嘴状の口顎を持つ恐竜だった。

 姿かたちはワニにそっくりだが、四肢は長く、ティラノにも匹敵する巨体の持ち主だった。


 灰色の鱗に覆われた全身から豪雨さながらに水が滴る。

 水滴はばしゃばしゃと水面を叩き、魚たちが一斉に逃げ出していく。

 中にはイルカのような奴らも混じっていた。


「っだあああああっっっ?!!!!」

「ええええっっっ?!!!」


 無様に落下した俺はシアと抱き合い、悲鳴を上げた。


 ギエエエエエエ、とそいつが空気を震わせる咆哮を放った。

 ゴルルルル、と四頭のアロがそれに応じた。


「あ、あ、ああ、あ……」


 俺の口からは幼児さながらの声しか出なかった。

 ワニの化け物を指さす俺はあうあうとシアを見る。


「……! ……」


 シアの方もぱくぱくと口を開閉し、水中を指さしている。

 水の中に、あれがいる。


「~~~~!!」


 俺は思わず陸へ向かいかけたが、岸辺には本物のワニがたむろしていた。

 そのうち数匹が俺たちを見つめており、目を細めた。

 ちゃぷんとその姿が川へ消えた瞬間、俺は絶叫していた。


「う、わああああっっっっ!!!!!」


 それを合図にしたかどうかは定かではないが、『背びれ野郎』がどだどだと岸辺に這い上がり、アロに襲い掛かっていた。

 木々をなぎ倒し、地を揺らし、川の生き物すべてを叩き起こす、怪物同士の殺し合い。

 ギギギエ、ガラララ、という咆哮の応酬に俺は今度こそ本当に失禁しかけた。


「に、にに、にげてっ!」


「わかってるっっ!!」


 俺はシアの手を引っ掴み、もはや川そのものと格闘するがごとき荒々しさで水をかいた。

 はひ、はひ、はひ、はひ、と犬じみた喘ぎを漏らしながら俺はただただ夢中で泳いだ。


 咆哮は遠ざかっていったが、俺はたった今思い知った事実に打ちのめされていた。

 ここは恐竜の王国。

 人間の知恵だの命だのは、彼らの癇癪一つで綿毛のように吹き飛ぶのだ。






 帆のごとき背びれを持つ恐竜はティラノより巨大だったが、多勢に無勢だったらしい。

 下流へ向かって泳ぐ俺たちのそばに何度か背びれの破片が追いついた。

 だがそれらも小さな魚についばまれ、一つ残らず水の底へと消えていった。






「ハっ、ハ……!」


「ハー……! ぁっ……ぁ」


 一体どれほど泳いだのだろうか。

 体力の限界まで泳いだ末、小さな浅瀬にたどり着いた俺たちは虫の息だった。

 両手で膝を押しながら岸に這い上がった俺は、疲労のあまり立ち上がることすらできないシアに肩を貸す。


 ひゅー、ぜひゅー、と病人じみた呼吸を繰り返すシアは俺にしがみつき、首を振る。


「ど、どうした?」


「……よが、ないと……!」


「もう無理だ。今のまま泳いだらさっきのデカイ奴に食われるぞ!」


「だ、だって……!」


 シアが力なく腕を持ち上げた。

 彼女の指が示す先に太陽が見えた。

 飴色に色づいた太陽が。


 じきに、夜が来る。


(……!)


 もう霧を越えて葦原へ戻ることはできない。

 あの辺り一帯は異竜アロの巣窟だ。

 奴らが俺たちの顔を覚えたのかは分からないが、餌付けして満腹にさせるという行為ですら致命的だということがよく分かった。


 俺はシアに肩を貸したまま砂利を踏んだ。

 幸い、すぐ近くに洞窟を見つけることができた。

 水辺にも関わらず中は乾燥しており、入口が段差になっているので他の生き物が入り込むことはなさそうだ。

 実際、中に糞尿の類は落ちていなかった。


「少し休むぞ」


 俺は有無を言わさぬ口調でそう言うと、乾いた洞窟にシアの身を横たえた。

 彼女は失神するようにして眠りに落ちた。


 俺は茂みの草を適当にちぎり、外から見えないよう入口に垂らした。

 そして、しばし目を閉じた。








 万全とは言えないまでも、休息を経たシアは顔色を取り戻していた。

 ここで一夜を明かすのは危険だ。

 そう話し合った俺たちは斜陽の下へ身を晒し――――絶句する。



 夕日を浴びた水面はきらきらと輝いていた。

 まるで宝石をちりばめたかのような景色。

 川が宝石なら、さらさらと流れる水の音はさながら宝石で作られた楽器だろう。


 その美しい音色を妨げるものが、四つあった。

 赤く生臭い四つのモノ。

 ――――死体だ。




 水色の体色を持つ肉食恐竜の死体。




 彼らの腹部はぱっくりと裂けていたが、肉を食われた形跡は無かった。

 舌を垂らし、光の消えた目を虚空へ向ける彼らの体は小刻みに揺れている。

 肉の裂け目から中へ入った魚たちが赤身をついばみ、その振動で全身が揺れているのだ。



 それはある種の合理性に裏打ちされた野性の世界にあるまじき所業だった。


 四頭の異竜アロは――――『殺されて』いた。


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