第6話 6

 


 異竜アロの死体を目の当たりにした俺たちは、呼吸を忘れて立ち尽くしていた。



「そんな……」


 ようやくシアの唇が動いたのは、夕陽に照らされた俺の体がぬくもりを通り越して熱を帯び始めた頃だった。


「一体何がこんなことを……?」


 よろめくようにシアが死体に近づくと、ぴょこんと大きな魚が現れた。

 アロの死体に乗り上げたそれは淡水生のイルカらしい。

 どことなく卑猥な口を持つイルカは、けけーっと道化のごとき鳴き声を上げる。


「さっきのデカイ奴じゃないのか」


「傷口が違います」


 確かに先ほどの恐竜は水辺に棲息していた。

 気が動転していたのでしっかり確認したわけではないが、奴は魚を捕食するのに適した鋸状の歯を持っていた。

 翻ってアロの死体の腹部はぱっくりと裂けている。それこそアロの牙や爪のように鋭い『何か』でなければこんな傷口は作りえない。

 巨大な顎を武器とするティラノや背びれ恐竜の仕業ではないように思える。


 ではラプトルだろうか。

 いや、知能の高いあいつらがアロの集団に襲い掛かるとは思えない。


(何にせよ、あっちには行けないか……)


 縄張りの主たる異竜アロは斃れた。

 だがあの土地にはそのアロすら殺す『何か』が潜んでいる。


「シア」


 アロの死体を検分していた剣士が振り返る。


「夜が来る。ここを離れよう」


「……行く当てがあるんですか?」


 つい先ほどまで満身創痍だったというのに、今や彼女は出会った時と同じ氷じみた表情に戻っていた。

 表情筋が自動的にこの形に戻るようできているのだろうか。


「恐竜は鼻が利きます。浅い洞窟に身を隠したところで意味がないと思いますが」


(……)


 水面で反射した夕陽の破片は目に突き刺さるようだった。

 俺はそこから目を逸らし、下流へ向けて歩き出す。


「水辺にはワニやヘビもいたはずです。私たちの知らない肉食動物だっているかもしれない」


 その通りだ。

 だが――――


「それだけの肉食動物が生きているってことは、餌になる生き物もわんさかいるってことだ。そいつらが生存できている以上、どこもかしこも危険ってことはありえない」


「……」


 俺は水を吸い過ぎたズボンをぎゅうっと絞る。

 ばちゃばちゃと大量の水が砂利を叩いた。


「安全圏は必ずある」


 俺の呟きが願望じみて聞こえたのか、シアは瞳を細めた。


「……空の上や水の中かもしれません。あるいは土の中かも」


「さっきブタがいただろう。あんなのろまな奴だって生きてるんだ。……」


 俺は目を閉じ、しばし集中した。


 考えろ。

 俺がか弱いブタだったとして、この土地のどこに身を隠す?


 狡猾な盗竜ラプトル。獰猛な暴君竜ティラノ。俊敏な異竜アロ

 この無慈悲な捕食者から逃れられる場所は一体どこだ。

 どこへ逃げればこいつらの牙と爪から逃れられるだろうか。


(……いや、逆だ。逃げるんじゃない……)


 逃げれば奴らは追って来る。それも執拗に。

 穴へ潜れば掘り返され、岩場に身を潜めれば待ち伏せされる。

 知能の高いラプトルや徒党を組むアロから完全に逃げ切ることは不可能だ。


 逃げなければならないが、逃げてはならない。

 いわば、「逃げずして逃げる」。

 それが活路なのではないか。


(……)


 世界から色と音が薄らいでいく。

 シアの浅い呼吸がうるさく感じるほど、俺は思考に没頭していた。


 ワニは水場。

 ヘビは湿地帯。

 ほとんどの爬虫類は特定の環境に順応し、自らが最も得意とする土地を縄張りとする。

 先ほどの背びれ恐竜も水場を縄張りとしていた。


 では、アロやティラノ、ラプトルにとって最適な環境とはどこか。

 それは俊敏さを十全に生かせる平地だ。

 遮蔽物のない平地なら、奴らは思う存分戦うことができる。


 では逆に、奴らが能力を十全に発揮できない環境とは何か。

 空。水の中。土の中。


 翼をもたない奴らが断崖から身を投げれば地面に叩きつけられて死ぬ。 

 水の中では呼吸ができずに死ぬ。それどころか深い水場に近づいただけで先ほどの背びれ恐竜のような奴に襲われてしまう。

 空を飛ぶ鳥がわざわざ地面を歩き回ることがないように、ラプトルやアロ達は意図して平地に――――


(!)


 びちびちという音で我に返る。

 見ればシアがイルカを捕らえ、その頭部を川に浸しているところだった。

 イルカの首にナイフを刺した彼女は顔色一つ変えず血抜きをしている。


「何か思いつきましたか?」


「ああ」


 俺は渓流の対岸に広がる茂みに目をやった。

 その先には先ほどブタが消えた森が続いている。


「あっちに行ってみよう」


「……視界が悪すぎます。もしラプトルに出くわしたら――」


「それを言い出したらどこへも行けない」


 ここでぐずぐずしていればアロの死臭に誘われた連中の餌になるだけだ。

 どこにいても危険なら、少しでも前進できる可能性のある場所へ向かわなければならない。


 俺が歩き出すと、イルカを担いだシアが続いた。

 よく見るとアロの身体から切り取った牙や爪も抱えている。


 俺は最後に異竜アロを振り返った。

 つい先ほどまで威勢よく獲物を食らっていた奴らが今は魚の餌。

 何となく、むなしさを覚えた。






 森に生える木々は俺の知るどんな植物よりも雄大だった。


 大人の胴よりも太い幹は麗しいほどの焦げ茶色で、根は土の下に収まり切れず、地上に露出している。

 先ほど川を流れる時にちらりと見えた光景と同じだ。

 大蛇がのたうつように地上を這う根はぷっくりと膨らんでおり、ともすれば地面が見えない場所すらあった。


 きき、きき、と遠い樹上で猿が鳴いている。

 こおお、ここっと鳴いているのは鳥だろうか。


「凄いですね」


 シアは感心しているようだった。

 彼女の祖国であるエーデルホルンは寒冷な気候であるため、これほどまでに植物や樹木が生い茂る土地は珍しいのだろう。

 木々の発散する清涼な湿り気が頬を撫で、俺たちの足は徐々に軽くなる。


 俺はみやこで見た桜を思い出していた。

 桜は美しい花だ。

 あの得も言われぬ薄紅色の花弁。

 春の終わりに吹く風を受け、音もなく散り、吹雪く様。

 その美しさを支えているのは強靭な根だ。


 桜に限ったことではない。

 生命力の横溢する樹木は概して太く、強く、粘つくように地に張る根を持っている。


 この冒涜大陸では恐竜を頂点とする生物たちが字面通りの弱肉強食を生きている。

 それは植物の世界も同じらしい。


 森の奥へ進むにつれ、枯れた樹木の姿が目立つようになってきた。

 俺は人間よりも巨大な鳥や足の短い馬らしき生物とすれ違ったが、注意を向けていたのは樹木の方だった。


(爪の跡が無い……)


 先ほどアロが通過した岸辺では無造作に木々がなぎ倒され、蹴り飛ばされていた。

 だがこの辺りにはそうした暴虐の痕跡が見当たらない。


 空を見上げる。


(――……)


 普通、森というものは奥へ進めば進むほど葉が茂り、暗くなる。

 だがこの辺りの土地は違う。

 明度がほぼ一定に保たれており、澄んだ風が通っている。


 理由は簡単だ。

 樹木が土の栄養を奪い合い、生存競争に負けた木々が常に枯死するか衰弱しているから。

 地上には落ち葉が積もり、分厚い絨毯となっている。

 そこかしこからネズミやブタが顔を出し、つぶらな瞳を覗かせていた。 


「……ここだ」


「え?」


「ほら」


 俺は進路を示した。

 そこは森の中でも深部に当たる場所。

 遥か昔から栄養の争奪戦を勝ち残った巨大な樹木が砦ほどに肥大化し、破城槌ほどに育った根を無造作に伸ばしている場所。

 彼らの威容はさながら巨大なタコか、イカだった。

 触手にも見紛う根の数々によって地面はすっかり覆われている。


「ここがどうかしたんですか?」


「肉食恐竜はここに入れない」


「え?」 


 俺は根の一つに乗ってみた。

 いや、それはもはや根ではない。地面だ。

 極太の麺を敷き詰めたように地がぐねぐねと波打っている。


「あいつらは基本的に後ろ足二本で体重を支えてる」


 太く丈夫な二本足。

 長く強靭な尾を地面と水平に伸ばすことで全身の均衡を保つ身体構造。

 奴らの肉体は平地で恐るべき速度を出せるよう、最適化されている。

 その一方で重大な弱点を抱えることとなってしまった。


「よっ」


 俺は這い上がらなければ登れないほど大きな根に飛び乗った。

 葉露と苔で濡れた根は滑りやすく、両手を左右に伸ばしてうまく均衡を保たなければ転んでしまいそうになる。


 だがこの動作、ラプトルやアロには真似できない。

 なぜならその機能を担っているのは尾であり、尾は後方に伸びているからだ。

 つまり――――


「あいつらは左右の傾斜に弱い」


「!」


「ティラノも確かそうだったはずだ」


 シアの黒騎士とトヨチカ達がティラノに向かった時、奴は後方を振り返ろうとして転びかけた。

 奴らの二本足は確かに丈夫だが、あの巨体を完全に支えきることはできていない。


 そんな奴らがこの場所へ来たらどうなるか。

 鳥のように何かをつかむ構造の爪でも持っているなら話は別だが、奴らの足は平たく、しかも二本しかない。

 この太い根の上を移動しようとすれば確実に身体の均衡を崩し、足を滑らせる。


 俺たち人間には両手がある。

 地面に手を突けば致命的な転倒を防ぐことができるし、立ち上がることもできる。

 だが恐竜は違う。

 転べば足をくじくか、骨折してしまうかもしれない。

 それは死を意味する。


「あいつらは足一本でも失ったらそのまま死ぬ。だから」


「まさか――凹凸おうとつの多い地形や斜面を本能的に避けている、ということですか?」


 ああ、と肯ずるとシアの顔には軽蔑らしきものが浮かんだ。


「……少々転んだところで死ぬわけじゃありません。それぐらいのことは彼らも」


「いや。あいつらはここで転ぶと死ぬ」 


「?」


 俺はブーツで枯葉の絨毯を払った。

 それは本当に厚く堆積しており、俺の足はそこを何度も何度も左右しなければならないほどだった。

 絨毯の下には――――育ちかけの樹木が生えていた。

 ちょうど、槍のように。


 ここだけではない。

 そこら中の地面から若木が伸びている。

 子供ほどの背丈のものもあれば、大人より大きなものもある。

 いずれ先達に絡みつき、その根を覆って腐らせ、彼らに成り代わって巨木に成長しようとする若木。


 ティラノやアロが転倒すれば、これらに刺し貫かれる可能性が高い。

 現に、はぐれ恐竜のものと思しき頭蓋骨が一本の根に眼窩を貫かれていた。


 不安定な地面に危険な槍の生える環境。

 ラプトルやアロは察しているはずだ。

 ここは自分たちの土地ではない、と。


「ここは鳥類と哺乳類の土地だ。恐竜はここまで入って来ない」


 シアは無感動な表情の奥に煌めくような期待を覗かせた。


「……。ではここに……」


「いや、ダメだ」


 俺はじっと藪の向こうに目を凝らした。


 ――――いる。


 大型の猫だ。

 しなやかな筋肉を持つ四足獣が泳ぐようにするすると歩いている。

 何頭かは既にこちらの存在に気付き、茂みの奥からぎらついた目を向けていた。

 実物を見たことはないが、とうの山間部にいる虎とそっくりだ。


 少し樹上を見上げれば猿が枝を渡っている。

 この辺りは恐竜の土地ではないが、さりとて人類の土地でもない。

 恐竜のいない土地には恐竜以外の支配者がいる。


 状況は何一つ好転していない。

 俺たちは細い綱を渡る曲芸師のごとき危うさで命を繋いでいるに過ぎないのだ。


「あいつらに襲われないぎりぎりの場所まで引き返そう」






 結局、俺たちは森の浅い場所に寝床を設けることにした。


 選んだのは鳥の巣が設けられた背の高い木だ。

 周囲の木々にもお椀状の巣がいくつか見受けられる。

 蛇に夜襲をかけられるおそれは無さそうだった。


 俺は彼女が懐に忍ばせていたアロの牙で木の幹に穴を開け、そこに木の杭を打ち込んだ。

 鋲を打つようにして幹全体にらせん状の杭を打ち、最後にシアが不要な梢をすべてそぎ落とす。

 これで大きな豹が這い上がってくることもないはず。 


 また、周囲には柵と鳴子なるこを巡らすことにした。

 柵は倒木を組み立てたお粗末なものだった。

 鳴子は地面に落ちたドングリを木の葉でくるみ、植物の茎で縛ったもの。

 これを十分にしならせた若木に括っておくだけだ。

 作業を始めたのが夕方だったため、それ以上の備えをする時間は無かった。



 火の使用については慎重に考える必要があった。

 炎は動物を遠ざけるという説もあるが、実際には好奇心旺盛な生物が近寄ってくることもままある。

 特に今は秋だ。生物は本能的に暖を求める。

 冒涜大陸の中はやや蒸し暑いが、うっかり巨大な爬虫類などを呼び込んでしまっては冗談にもならない。


 俺たちは衣服を火で乾かすことを諦めた。

 ぎゅうっと絞って水気を抜き、濡れた肌は十分に拭くことで代わりとした。

 俺の狩衣は生地が薄いので水気を切りやすく、体を拭く上では最適だった。

 精鋭の証で肌を拭くことに抵抗はあったが、背に腹は代えられない。

 それに、狩衣は所詮モノだ。


「見ないでくださいね」


 と言いつつ、シアは無造作に上着を脱いだ。

 俺は慌てて顔をそむけたが、ぞっとするほど白い肌と胸部に巻かれた黒布は目に焼き付いていた。


 はらはらと胸を覆う布が外されていく。

 どうやら胸に巻き付ける下着らしい。


 布がすっかり取り払われると、ふるりと何かが揺れる音がした。

 俺は思わず息をのむ。


「ワカツ」


「分かってる」


「私、体には自信がありますけど見ないでくださいね」


「からかうな! 早く拭け!」


 俺たちが座っているのは太いと言えども枝の一つだ。

 折りたたまれた狩衣が女の肌を滑らかに拭く音は耳にこびりつくようだった。

 周囲が闇に包まれているのも余計に想像を掻き立てる。


 いや、完全な闇ではない。

 木の枝には小さな火皿が用意されていた。

 もちろん陶器の皿ではない。亀の甲羅だ。作業の途中、シアが枯葉に埋もれた子亀を見つけ、その肉をそぎ落としたのだ。

 ほどよくへこんだ甲羅にイルカの脂を垂らし、芯を浸すことで彼女は小さな明かりをこしらえた。

 暖を取るには心もとないが、動物を引き寄せる危険性も低い。


 シアはあえかな明かりを頼りにもそもそと肌を拭いている。


「静かですね、ここは」


「ああ」


 恐竜がどたどたと走り回る音も、不快な鳴き声も聞こえない。

 遠吠えをする犬も、喧嘩をする猫も。 


「ワカツ」


「ん?」


「助けてくれてありがとうございました」


「……」


 ティラノに引っ張られた時のことを言っているのだろう。

 助けたつもりはない。

 そして実際、彼女は助かっていない。


「――いずれ恩は返します」


 想いを表現するために言葉を尽くす女ではないのだろう。

 シアの言葉は短く、冷たい。

 ただ、俺の耳にその言葉はこう聞こえた。


 だから、恩を返すまでは死ぬな、と。






 そして、冒涜大陸に夜のとばりが下りた。





 ほーぅ、ほーぅ、と何かが鳴いている。

 フクロウだろうか。

 がささ、がさささ、と地上では何かが這い回る音。

 これはネズミか。


 秋の夜は思った以上に冷えた。

 下に落ちないよう太い枝に手首を括りつけて、俺たちはつがいの鳥のごとく身を寄せ合った。

 シアの体温に包まれた俺は見張りの時間を終えるや、すとんと眠りに落ちた。

 夢も見ないほど深い眠りだった。










 かさ、と。

 微かに葉を踏むような音がした。


「――」


 薄く目を開ける。

 世界は薄紫色に覆われていた。

 どうやら夜明けが近いようだ。


(……水……)


 湿った清涼な空気を胸いっぱいに吸い込むと多少は喉の渇きが潤うようだった。

 俺は何度か深呼吸を繰り返し、耐え難い域に達しつつあった水への渇望を癒す。


(……)


 俺は見張りの間、手でいじっていた枝を捨てた。

 矢に加工しようと思ったのだが、汁気が多くて使えなかった。

 せめてもう少し乾燥した枝でなければならない。

 多少歪んでいても武器としては使えるが、矢としての用は果たせなくなる。

 すなわち、精度が落ちるのだ。それも格段に。

 恐竜とは戦わないが、恐竜より小さな生き物に矢を射る機会はあるだろう。その時に―――― 


 何気なく木の下を見る。



 みすぼらしい身なりをした人間の女が立っている。


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