第4話 4
秋とは思えないほど濃厚な草の匂いを孕んだ風が頬を撫でた。
(あいつら、大丈夫か…………?)
我に返った俺は砦に残してきたトヨチカ達の身を案じた。
散り散りになってはいないだろうか。膝を折り、崩れ落ちてはいないだろうか。
統制の乱れたところを恐竜に襲撃され、食い殺されてはいないだろうか。
考えれば考えるほど不安になる。
今は彼らの奮闘を願うしかなかった。
トヨチカ達が踏ん張らなければ、か弱い民草が食い殺される。
俺は彼らに国への義理を説いたことはない。
鼻つまみの一団はいつも愚痴を垂れていたし、恨み言をこぼしていた。
俺自身、彼らと一緒になって都の連中をあざ笑い、痛罵した。
だが心底に流れる志は同じだったと思いたい。
冷や飯を食わされてなお彼らが葦原の軍に身を置いていた理由は、「山賊をやるよりカネになるから」などというものではなかったと信じている。
(頼むぞ……)
祈るような気持ちで目を閉じ、両手でぱあんと頬を叩く。
果てしなく続く空と大地から視線を剥がし、俺は自分が立つ場所に目を落とした。
そこは渓流へ向かって突き出した小さな岩場で、鳥の
水面までは腕三本ほど離れており、頭上には青々と葉を茂らせた枝が重なり、天然の
さらさらと流れる川で見慣れない魚が跳ねた。
大きな鱗の一つ一つが赤く縁どられており、血管の網のようにも見える魚だ。
とぷん、とそいつが水に沈むとオリューシアが口を開く。
「水深は浅いようです。ワニの心配はありません」
彼女は濡れた軍服の裾をぎゅっと絞っていた。
ぼたぼたと垂れる水が乾いた岩場に大きな染みを作っている。
「今は安全ですが、いつラプトルがここを通るかもしれません」
「……だな」
シアは川の上流を見つめていた。
巨大な
対岸は深い茂みで、時折何かがごそごそと蠢いていた。
「幸い、これから向かうべき場所は決まっているわけですから、そこに至るまでの行動方針を決めましょう」
「ああ」
とは言ったものの、正直、何をどうすれば良いのかさっぱりわからなかった。
別に恐竜相手に和平すべきか抗戦すべきかで悩んでいるわけではない。
把握すべき事柄が多く、解きほぐすべき要素が多すぎるのだ。
まず場所についてだが、ここは間違いなく『冒涜大陸』だ。
五感をかき乱す霧に覆われた、人跡未踏の大地。
俺たちの第一目的は葦原への帰還。
それを妨げるのはそこら中にうようよしている『恐竜』。
(……)
自分の体をまさぐってみる。
尖った石が掠めたらしく衣服はあちこちボロボロだが、骨や臓器が傷ついている様子は無い。
「かなりの距離を流されましたが……運が良かったですね」
「そちらは?」
「問題ありません」
立ち上がったオリューシアは脚を交互に持ち上げ、腕を回し、腰をひねって見せた。
彼女もまた大きな傷を負ってはいないようだ。まさに幸運としか言いようがない。
「ワカツ九位。弓は無事ですか?」
「弓?」
「滝に落ちても手放さなかったあなたの弓です。おかげで縄を切るのもここまで泳ぎ着くのも難儀しました」
不満そうに告げた剣士は黒い上着を脱ごうとし、慌てて手を止めていた。
俺は足元に転がった弓を手に取る。
弦は完全に切れていたが、それ以外に大きな損傷は見当たらない。弦を引っかける
「弓には詳しくないのですが、それ、まだ使えますか?」
「使える」
俺は腰の
矢は『支え』として固定している一本しか残されていなかったが、軽く振るとちゃりりという音が聞こえる。
二枚底を開くと非常用の鏃が十数本、それに
十分に乾かしてから弦を張れば再び武器として使えるだろう。できれば二人か三人で張りたいところだが、贅沢は言っていられない。
「オリューシア殿は?」
「……」
山吹色の濡れた髪を手で梳いていた女剣士はぴたりと動きを止め、俺を見つめる。
害意はないのだろうが、表情のせいで睨まれているように感じてしまう。
「ワカツ九位。提案があります」
実際の会議でもこういう口調なんだろうな、と埒もないことを考える。
「敬称を省いていただけませんか。非常時に対応が遅れる恐れがあります」
「敬称? ……オリューシアって呼べばいいのか?」
「シアで結構です。親しい人間はそう呼びます」
(こいつにも親しい人間がいるのか……)
エーデルホルンは武官文官を問わず学校制度が整備されている。
シアが士官学校を出ているのなら同窓生はいるのだろうが、正直、彼女が誰かと笑い合っている姿など想像もできない。
黒い瞳がすっと細められた。
「何か失礼なことを考えていますね? どうせこいつには親しい相手なんていないだろう、とか」
「い、いや。そんなことは」
「はーん。そうですか。せいぜい気を付けてください。ワカツは考えていることが顔に出ますから」
「!」
「――と、こんな感じで構いませんか? いちいちワカツ九位と呼ばれるのも煩わしいでしょうし」
ああ、と俺は頷いた。
ここはどの国にも属さない土地だ。『葦原の弓兵』『エーデルホルンの近衛』として話す意味は薄い。
むしろ国益を背負うことによって要らぬ軋轢を生み、活路を見失う恐れすらある。
最優先事項は葦原への生還だ。
そのためにやれるべきことはすべてやる。
逆に、やる必要のないことは一切やらなくていい。体面を繕うことなどその最たるものだ。
「話を戻しますね。幸い、私の武器はどれも無事です」
彼女が鞘から抜いたのは例の透明の剣だった。
水に濡れた刃はどこか凄艶さを感じる。
「ただ、基本的な方針としてラプトルより大きな恐竜を攻撃することは控えましょう」
俺は一も二も無く賛同した。
理由は簡単だ。どう頑張ったところで今の俺たちがラプトル大の恐竜を殺すことはできないからだ。
シアは防具を身に着けておらず、俺は毒を失っている。
優先すべきは自衛ではなく、逃走あるいはかく乱。『いざとなれば戦えばいい』という考えは今この場で捨て、いかに戦闘を避けるかに全神経を傾けなければならない。
「攻撃よりも索敵に気を付けないとな」
俺は狩衣を脱ぎ、丁寧に折りたたんだ。
両の手のひらで挟み、ぎゅっと押して水を抜く。
「はい。ワカツが遠方を、私が近場を担当しましょう。基本方針は回避と逃げの一手です。目的地に着くまでは、例え草食性であっても大型恐竜からはできるだけ距離を取り、迂回する」
「何かの拍子に鉢合わせたら? 草むらとか、物陰とか」
少し間を置き、シアが答える。
「同士討ちさせます」
「同士討ちか」
「はい。恐竜たちは互いに微妙な緊張状態にあるはずです」
肉食動物は絶えず草食動物を襲い続けているわけではない。
一般に、草食動物の多くは肉食動物より俊敏だったり、多数で群れていたり、持久力に優れている。
獰猛なトラやワニも適切な射程で襲い掛からなければ彼らを捕まえることはできず、いたずらに体力を浪費し、最悪の場合負傷してしまうらしい。
彼らは互いに「この距離なら仕留められる」あるいは「この距離なら逃げられる」という探り合いをしながら共存している、と聞いたことがある。
「肉食恐竜に襲われたら、手近な位置にいる大型の草食恐竜を焚きつけましょう。あの尾に棘のある恐竜や、頭が兜のように尖っている恐竜が良いと思います」
シアの指さす先に目を凝らす。
遥か遠方の草地には確かにそうした恐竜が歩いていた。
歩みは悠然としているが、ただならぬ気配を漂わせているのが分かる。
実際、近くにいるラプトルは彼らを避けていた。
「こちらも襲われる危険性はありますが、ラプトルやティラノと正面衝突するより混戦に持ち込む方が生存確率は上がるはずです。……異論はありますか?」
「ない。続けてくれ」
「これは勘ですが、肉食恐竜には縄張りがあるはずです。ですから、本当に危険な状況なら一か八かで別の肉食恐竜を刺激するのも良いかもしれません」
「俺たちを奪い合わせるわけか」
ぞっとする話だが、シアは「はい」と頷いた。
「私ばかり話してごめんなさい。ワカツ、恐竜への対処について何か考えはあります?」
「……」
俺は少し考え、呟く。
「何よりもまず『見つからないこと』に力を注ぎたい」
先ほどの攻防を見る限り、ラプトルやティラノは俺たちより遥かに俊敏だ。
事前に何らかの準備をしていない限り、出会ったらまず逃げられない。
シアの言う通り周囲の恐竜を巻き込むことができればどさくさに紛れて逃げることもできるだろうが、何もない場所で接敵する可能性もある。
それにこちらの索敵範囲が向こうの探知範囲より広いという保証がない。
であれば、いかにして奴らに見つからないかが鍵となる。
「恐竜の感覚について何か分かっていることはあるか?」
「感覚……ですか」
シアは顎に手を当てた。
「ラプトルが鳴き声で意思疎通をしている可能性がある、と学者が口にしていた気がします。聴覚は非常に優れていると思います」
「なるほど。……あとは嗅覚あたりか?」
「そうですね。肉食動物はほとんどが鋭い嗅覚を持っているはずです」
「……」
その二つが発達しているということは、夜間も知覚を妨げられないということでもある。
夜の闇に身をひそめても恐竜に発見される可能性が高い。
と同時に、それほど鋭敏な嗅覚と聴覚を持っているということは、視覚が発達していない可能性が高い。
(視覚の弱点を突けば……いや)
早計は禁物だ。
そもそも視覚の弱点を嗅覚や聴覚が補っているのだから、「弱点を突く」という考え方は間違っている。
俺たちは奴らの「長所を潰す」必要がある。
「恐竜の生態を考えると――匂いか? 一番敏感なのは」
「でしょうね」
すんすん、とシアは軍服の匂いを嗅いだ。
氷を刻んで作られたかのような美貌に影が差す。
「早く水浴びをしたいです。なんかこの水、くさい」
「……後にしてくれ。ここじゃ危」
がさりと草を踏む音。
俺たちは弾かれたように身を伏せた。
(今のは――?!)
左右に視線を巡らす。
草。木立。垂れた蔓。
川。流木。灰色の――
「!」
灰色の何かが水辺にのそのそと這い寄るところだった。
俺は岩の嘴に身を伏せたまま、そいつの姿を凝視する。
それは滑らかな肌を持つ四足獣だった。
四つ足の先端は蹄になっており、やや伸びすぎた鼻がでろりと垂れている。
象のようにも見えるが、一番近いのは――
「ブタ?」
「……みたいだな」
エーデルホルンのブタより葦原のイノシシに似ている。
大きさは子牛ほどで、やや長めの鼻と口を水面にちゃぷりと浸している。
水を飲むつもりらしいが、鼻まで水に漬けて大丈夫なのだろうか。
「ここにはあんな生き物もいるんですね」
「……」
ごくごくと水を飲む灰色ブタは一見すると無害なようにも見えた。
だが一匹の野生動物であることに違いはない。イノシシのように突如として牙を剥く可能性もある。
(厄介だな……)
俺は専門家ではないので詳しくは知らないが、哺乳類と爬虫類の生態はまるで違うと聞いたことがある。
わかりやすい例が消化の早さだ。
トラやライオンは毎日何かを口にしなければどんどんやせ細っていくそうだが、ワニやヘビは大型の獲物を捕食した場合、当分動かずとも生きていくことができるらしい。
――――もし。
もし、肉食性で恐竜並みに巨大な哺乳類が生息していたら。
俺たちの行動方針は
「かわいい」
俺は一瞬、シアの発した言葉の意味が分からなかった。
(カワイイ?)
あれはそういう名前の生物なのか。
カワイイは危険なのだろうか。食性は肉だろうか。それとも草か。
そこまで考えたところで横を向き、口元を緩めたシアの顔を直視する。
彼女は機嫌の良い猫のように口元を緩めていた。
「かわいいですね、あの子」
俺はもう一度、あの生物の名称が「カワイイ」である可能性について思惟をめぐらせた。
結果、シアの発言は「あの生物は愛くるしいですね」という意味なのだと結論付ける。
俺は一度天を仰ぎ、灰色ブタの顔を見つめ、同意を求めるシアの顔を見、それから地面を見た。
「……えぇ……?」
シアはむっとしていた。
「ワカツは哺乳類の可愛さがわからない人間なんですか? かわいそうに」
「ブタだぞ、あれ」
「いいじゃないですか。ブタ。見るのも食べるのも好きです」
見るのと食べるのは全く逆方向の「好き」ではないだろうか。そんな言葉をどうにか飲み込む。
寒冷な気候のエーデルホルンには毛の多いヤギやトナカイといった哺乳類が多く生息している。
シアが哺乳類に愛着を持つのもある意味自然なことなのだろう。
既に灰色ブタは尻を左右に振りながら茂みの奥へ消えていくところだった。
奴もまさか霧の外から来た生物に尻を凝視されているとは思うまい。
「ふふ。見てくださいあのお尻」
「何が悲しくてブタの尻眺めなきゃならないんだ……」
「いいから見てください。ほら、あのぷりぷりした――」
ぶびび、と奴は尻から糞を垂れ流した。
消化しきれなかった何かが粒状のまま排出されている。
「……」
「……」
ぶびびび、とその場に堆積するほど大量の排泄物を残したブタは先ほどまでより軽快な足取りで去っていく。
シアは千年の恋が冷めたような顔で俺を見た。
「何の話をしていたんでしたっけ」
「恐竜の嗅覚の話だ」
と、俺は妙案を閃く。
「――――シア」
「はい?」
「恐竜の糞を浴びて体臭を消すってのは「反対です」」
電光石火の拒絶だった。
俺はじっとシアを見つめたが、彼女は頬を引き攣らせている。
「反対です」
「何でだ。汚いからか?」
「もちろんそれもありますが……ワカツ、ズボンを見てください」
言われるがままにズボンを見る。
膝や脛の部分がちぎれ、赤い傷口が覗いていた。
気づいてはいたが、やはり水中で多少傷を負っていたらしい。
とは言え、この程度は傷のうちに入らない。
「その状態で不衛生なものを浴びるなんて自殺行為です」
「……確かに」
「未知のばい菌や寄生虫がまぎれている可能性もあります。恐竜の腐肉や排泄物に触れるのは危険です」
「じゃあ、匂いの強い花あたりを使うか」
「その方が良いかと。植物の茎を体に巻けば視覚的にもある程度ごまかせるでしょうし」
がささ、とまた茂みの奥で音がした。
俺とシアは顔を見合わせ、立ち上がる。
「一旦ここを離れよう」
「ええ」
まだ話すべきことはあった。
だが状況は常に変化するものだ。まずは周囲の状況を確認しなければならない。
俺は弦の無い長弓を握る。
決定した方針は三つ。
一つ。体臭を消す方法を探す。
一つ。索敵を徹底し、ラプトルより大きな恐竜とは戦わない。
一つ。万が一戦闘になった場合は周囲の恐竜を巻き込んで同士討ちを狙う。
不幸中の幸いだったのは、俺たちが川を流れてここまで来たことだ。
渓流に沿って遡行すれば、自ずと葦原に続く『霧』にたどり着く。
「この大陸は中心に冒涜大陸、その外側に霧、そのさらに外側に私たちの世界、といった三層構造になっているはずです」
渓流脇の岩場を慎重に進みながらシアが囁く。
「それがどこであれ、外に出るためには『霧』を越えなければなりません」
「一番近いのは葦原だな」
「ええ。さすがにティラノが落ちた崖を登るのは無理でしょうが、あの付近から葦原に戻れるはずです」
「……」
「……」
どうやって霧を抜けるのか、という話にはまだお互い言及しなかった。
目的地に着くまでにどちらかが妙案を閃くかもしれない、と期待しているからだろう。
俺とシアは息をひそめ、絶えず左右に目を凝らし、そろそろと川を遡る。
ラプトルはもちろん、クマのような生物との接触も避けたい。
本来なら水場はかわすのが正解だが、今回ばかりは事情が事情だ。
大人二人分ほどの段差をどうにか這い上がり、砂利の広がる浅瀬を素早く横切る。
その先には流れの関係からか、小枝がぎっしりと詰まった土地が続いていた。
ぱきぱきと枝を踏む音は水の流れにかき消されていたが、俺たちは敵地に侵入した殺し屋のごとくそろりそろりと進む。
枝地帯の奥には大きな岩壁があった。
壁面にちょうど良いくぼみを見つけた俺たちはそこを這い上がり、ひょいと地平線に顔を出す。
岩壁にも大量の枝が敷き詰められていた。
当たり前と言えば当たり前だが、そこにも広い草原が続いていた。
恐ろしく幅が広く、流れの速い川は長く続いており、途中で大きくうねり、森に向かっているようだった。
森の更に奥に小さな滝が見えた。
ティラノが落ちたのはあそこだろう。
恐竜は――――大勢いる。
家禽ほどのラプトルがちょこまかと動き回り、その傍をのしのしと首の長い恐竜が横切る。
馬らしき生物もとかっとかっと駆け回っており、それを数頭のラプトルが追い回していた。
(……)
目を凝らした俺は水場付近に大型の恐竜を認める。
姿かたちはティラノとそっくりだが、少し頭が小さいようだ。
目奴らの目の上には角のような突起がついている。
体色は灰がかった水色で、数頭がかりで何かをついばんで――
「!」
突然、がばっとシアが俺の頭を掴み、岩壁に引き戻した。
「顔を下げて! 異竜です!」
「異竜?」
「ええ。これは……まずいですね」
俺は積み重なった枯れ枝を踏んだ。
ぱきぱきぱき、と体重をかけていく。
「一体何がどうまずいん――」
ばじゅん、と。
何かがブーツの下で潰れた。
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