第3話 3
時は緩やかに流れていた。
忍者に抱かれた俺は水に沈むかのごとくゆっくりと落下していく。
砕けた壁と崩落する床が遠ざかっていく。
棚は抜けた床に倒れゆき、砕けた花瓶からは星屑のように水が散る。
俺を見下ろす赤茶色の恐竜は咆哮の姿勢のままで、その口蓋垂すら見えるようだった。
黒装束の忍者は崩落する石床を蹴り、壁を蹴り、身を翻す。
まるで雨粒の中を飛ぶ蜂のように。
そして、時間が俺に追いついた。
「ッ!!」
天地が四度逆転する。
狩衣が顔に巻き付き、矢はぼろぼろとこぼれたが、弓だけは手放さない。
派手な着地だったが衝撃はほとんど感じなかった。骨が折れた様子もない。
鮮やかに着地した忍者が膝立ちとなり、俺の耳元に口を寄せた。その顔は狐の面に隠されている。
「ご無事か」
俺の返事は、崩落するがれきが地を打つ音にかき消された。
見ればオリューシアも忍者の手を借りて立ち上がるところだった。
「――! ――――!」
「――――ッ! ――!」
「――ッ、――ッッ?! ――――――!!!」
悲鳴と怒号が飛び交い、祭りとも火事場ともつかない状況だった。
ばらばらと石礫が降り注ぎ、地に落ちた家具が破砕され、紙束が羽毛のように漂う。
俺はただ茫然と恐竜を見上げていた。
「な、何だあいつは……」
新たに姿を見せた恐竜は、二足歩行を始めたクジラのように巨大だった。
その体色は赤茶で、体躯には岩のごとき筋肉が盛り上がっている。
前足は冗談のように短いが、巨体を支える後足は巨木並みに太い。
顔や胴体の作りはラプトルと似ていたが、目がまるで違う。
ラプトルの目は鳥と同じく丸っこいが、赤茶の恐竜の目は小さく、爬虫類らしい獰猛さを感じさせる。
口の大きさは規格外としか言いようがなかった。人間を丸のみにできるほど大きなそれは先ほどから開きっぱなしで――――
ゴロロロロ、と。
再び放たれた咆哮が空を引き裂き、大地を震わせる。
「~~~~~!!」
俺は危うく腰を抜かすところだった。
「てぃ、
オリューシアは顔面蒼白になっていた。
「あ、れも恐竜か?」
「は、い。私の知る限り、肉食恐竜の中でも最強の――」
どすっとティラノが地を踏んだ。
そしてぐらりと身を傾がせ、砦にもたれかかった。
その僅かな動きだけで三階に残る弓兵が蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
感覚酔いを起こしていることは明らかだったが、あんな巨体にどう立ち向かえばいいのか。
トヨチカや太刀衆もぽかんと口を開けており、刀の切っ先は地を向いている。
「九位。あれは良くない」
俺を助けた狐面の忍者が低い声で囁く。
「安全な場所までお運びいたす。弓を離し、
「あの化け物から逃げ切れるのか?」
「九位お一人ならいくらでも。片方が死んでも必ず使命を果たしましょう」
狐面の黒装束が目を向けると、オリューシアを助けた猿面の黒装束が頷く。
思わず安堵しかけた俺は不快な鳥肌が立つのを感じる。
「待て。俺一人だと?」
「左様」
「俺一人助かってどうする」
「指揮官とはそういうものだ、ワカツ九位。雑兵の命を踏んで生き延びる義務がある」
その声音には物わかりの悪い子供を諭すような色が混じっていた。
俺は俺を抱きかかえようとした狐面を蹴り飛ばす。
「何をなさる」
「行くならお前らだけで行け。救援を呼んで来い」
次の瞬間、感覚酔いから醒めた
奴は文字通り棒立ちとなっている弓兵の一人に襲い掛かり、胴までばくりと口に咥えた。
そして無造作に首を振り回すと、哀れな犠牲者を放り投げた。
いや、放り投げられたのは犠牲者の下半身だけだ。
上半身は今まさに恐竜の舌に乗っており――――
「ァァァあああああっっっ!!!」
おぞましい断末魔を上げている。
ごりゅりゅ、ぼりゅりゅ、と顎が上下した。
牙から滴る赤い血がぼたぼたと地面を濡らす。
「~~~~~!!」
「――ッ、~~~~っ!!」
「~~~~! ――――っ!」
女のものかと思うほど情けない悲鳴がこだました。
弓兵だけではない。太刀衆までもが腰を抜かし、人食い恐竜から逃げ出そうとしている。
ティラノは悠然と前へ進み、逃げ惑う人間たちを値踏みするように見下ろす。
「何してるッ!! 動けっっ!!」
俺の怒号で突堤の弓兵が動いた。
ただしそれはティラノに抗する動きではなかった。
わっと散らばった弓兵は砦の中へ逃げ込んだり、遮蔽物に身を隠した。中庭へ飛び降りる者までいる始末だ。
暴君竜はゴロロロロ、と吠えた。今度は岩石が斜面を転がり落ちるような音だった。
それはか弱い生物の意志をくじくよう、加減した咆哮のようにも聞こえた。
(こ、の野郎……!)
怒りと苛立ちで歯を軋らせると、忍者が囁いた。
「ご覧になったか。まるで肝の据わらぬ連中だ」
「……!」
ティラノがどすっ、どすっと地を踏んだ。
踏みつぶされかけた太刀衆が逃げ惑い、腰を抜かし、小便を漏らす。
黒騎士やトヨチカですら振り下ろされる巨大な足を前になすすべなく後退している。
「九位。貴殿の命はあれらより重い」
「違う」
「違わぬ。兵は消耗品だが、貴殿は――」
違う。
なぜなら俺だってその「消耗品」の子だ。
そして俺はその「消耗品」が寄り集まって作られた国を守るため、弓取りになった。
「時間が無い。力ずくでもお連れする」
「……!」
俺は忍者を突き飛ばし、腹の底から声を上げた。
「喚くな!! 立てお前らっっ!!」
絶叫に近い怒号を放った俺を赤茶の巨竜が見下ろした。
奴と目が合った瞬間、生物としての本能が逃走を命じた。
さあっと顔から血の気が引く。
肝は縮み、足は竦むようだった。
だが――――
「ここでこいつを止めなきゃ――人里に行かせちまうだろうが!!」
ぱちんと泡が割れるようにして、男たちの顔に正気の色が戻った。
「俺たちが逃げ出したら女子供が食い殺されるんだぞ!! 踏みとどまれ!」
ぎりりり、と弓を引く。
鏃の先にあるティラノの顔を睨む。
「生き延びようなんて思うな! あきらめろ!! お前らは今日! ここで死ぬ! だが! 俺も一緒に死んでやる!! だから踏ん張れ! 増援が来るまであと少しだけ、踏ん張れ! ……こいつに――」
腹の底から叫ぶ。肺腑が割れるほどの力を込めて。
「こいつに、葦原の土を踏ませるなッッ!」
怒号と共に放たれた矢がティラノの目を掠めた。
ごるる、と巨体の重心が後方へ動き、奴はよたよたと二本足で自重を支える。
(!)
稲妻が閃くような感覚に襲われる。
奴にも弱点がある。
二本足で支えるには胴体が巨大すぎるのだ。
いや、それだけではない。奴には――――
「
透明な剣を抜いたオリューシアが天高くそれを掲げた。
てんでばらばらに散った黒騎士がウラアアッッと赤茶の恐竜に突撃する。
一見すると無謀にも見える行軍だったが、騎士たちはティラノの目の前で左右に分裂した。
巨体の竜は間抜けな犬のごとく騎士を目で追い、首を左右交互に動かす。
首が己の背後を見ようと巡らされ、重心がぐらついた。
「今だ!」
側面からトヨチカ率いる数名の太刀衆が切りかかる。
脚に刀傷が走り、ぷしっと血が噴き出す。
ゴララララッッ、とひときわ敵意のこもった咆哮が轟く。
暴君の足踏みによって二人の太刀衆が踏みつぶされ、ゆっくりと巨体が回転する。
「伏せろっっ!!」
俺は矢を番えたが、僅かに遅かった。
振るわれた尾が黒騎士数名を小石さながらに吹き飛ばす。
瓦礫にたたきつけられた一人は面頬から血を吐き、遥か遠方に飛ばされた一人は手足をでたらめな方向に投げ出していた。
「ッ」
俺は矢を番えたまま、高速で思考した。
(目、口、鼻……!)
感覚器官は一般的な動物と同じく存在する。
それらを潰せば多少はこちらが有利に――と考えたところで首を振る。
あの巨体が痛みに暴れでもしたら甚大な被害が出てしまう。
(脚か……それとも呼吸器を直接……?)
ほんの数名の弓兵、十数名の太刀衆、十数名の騎士、忍者二人。
この僅かな手勢でティラノを止められるのか。
ひゅお、と空中に球状の何かが飛んだ。
それを目で追ったティラノの鼻先に黒い球体がぶつかる。
途端、ぶわりと辺りを白煙が覆った。
「!」
あれは確か乱破が目くらましに使う道具だ。
そう考えた瞬間、耳元で声がする。
「九位。倉庫に古い攻城兵器が」
二人の忍者が手の中で煙玉を転がしていた。
「攻城……なんだって?」
「『ばりすた』とか言うエーデルホルンの
「バリスタが?!」
話を拾ったオリューシアが顔を上げた。
感情に乏しい彼女の目に希望の光を認め、俺はそれがどれほど強大な兵器であるかを察する。
「手負いの獣は逃げるが必定。あれとて大きな傷を負えば退却するでしょう」
「そんな武器の購入を許可した記憶は無いぞ」
「九位には気づかれぬよう手配しましたので」
「……!」
「悪く思われるな。貴殿は未熟が過ぎるゆえ」
「後で覚えておけよ、忍者の屑が」
俺は忍者の忍び笑いを聞きながら、腰を抜かした連中に叫ぶ。
「倉庫へ行け! バリスタをここへ運べ!」
「待ってください。破壊されたら終わりです! 矢を装填した状態で運んでください!」
追加指示を放ったオリューシアと俺は顔を見合わせ、頷き合う。
「では某らは救援を呼んで参る」
「他に何か使える道具はないのか?! 手裏剣とか――」
「手裏剣も撒き菱もあれには刺さらぬ。脂肪の層が厚すぎる」
忍者が煙玉を放った。
たたらを踏んだティラノが再び白煙に包まれる。
生物の本能からか、白闇に包まれた奴の挙動は目に見えて鈍った。
「毒矢は効かぬぞ。お忘れになるな」
俺は鼻を鳴らした。
「分かってる。いいからお前らは救援を呼べ!」
「承知」
ばっと身を翻した二人の忍者は晴天にとろけるようにして姿を消した。
「! 来るぞ!」
どたっ、どたっとティラノが走り出した。
目的あっての動きではない。目障りな虫を踏みつぶすようにして俺たちに迫る。
「横につけろ!! 前後につくな!」
トヨチカの一喝で太刀衆が恐竜の側面に集った。
おそらく正しい。
二つ脚の生物が真横を攻撃する場合、身体をしならせる予備動作が必要となる。
それは――
「尾の方に跳べっ!!」
ぐおん、と恐竜が地を救いあげるように首を動かした。
が、その時にはすでに太刀衆は尾へ殺到している。
「腱を断てっ!!」
白じらとした刃が閃き、ティラノの足首に無数の針傷を作った。
鱗が飛び、血肉が削れた。
更に余裕のあるものは刃そのものを足に深く突き立てる。
途端、恐竜は信じられないほど怒り狂った咆哮を上げた。
びりびりと空気は震えたが、俺は確かな手ごたえを感じていた。
効いている。腱への攻撃は奴にも効く。
「太刀から手を離せっ! 弓兵っっ!!
トヨチカが叫んだまさにその瞬間、頭を矢のごとく引いたティラノが、ぐわっと顎を開いた。
人間一人を飲み込む顎が友に迫ったその刹那、俺は矢を放つ。
ひゅおおっと曲線を描く矢が暴君竜の鼻先を掠めた。
ラプトルほどではないが、奴も矢に反応している。高速で迫る矢を目で捕捉しているのだ。
俺の矢など奴にとっては蜂のひと刺しほどの攻撃でしかないが、見える以上、避けなければならない。それが生物の本能というものだ。
「させねえよ」
弦の鳴る音を聞きながら、俺は言い放った。
気勢を削がれた暴君竜が吠え、俺とオリューシアに鼻を向ける。
どしっ、どしっ、どしっと迫る足音。
氷の国の剣士は真横に疾駆し、がれきの一つに身を隠した。
だが俺はその場に立ち尽くしていた。
「わ、ワカツ九位?! 何をしているのです! 早く逃げてっ!!」
他国はどうか知らないが、葦原の弓兵は二種類に大別される。
一つは矢立て――いわゆる
もう一つは矢筒――
俺は後者だ。
クジラのヒレほどもある巨大な足が交互に地面を踏みつける。
大量の砂礫が飛び、ばらばらと地を叩く。
奴は信じられないほど巨大だが、脚は交互に振り下ろされる。それも規則的に。
(右、左、右、左……)
頷きながら左右に目を這わしていた俺は、ある一点で前へ飛ぶ。
交差するようにして凶悪が顎が振り下ろされ、一秒前に俺が立っていた空間をがちんと噛んだ。
俺はティラノの真下に駆け込んでいた。
そしてきりきりと矢を番えながら振り返り、一射を見舞う。
ひゅおっと気道に沿って飛んだ矢が上方へ曲がり、正確に喉へ突き刺さった。
ごああ、と悲鳴じみた咆哮。
今にも奴は暴れだそうとしている。
(……!)
頭部へ逃げれば踏みつぶされる。
尾部へ逃げれば騎士の二の舞。
棒立ちのままでも圧死が確定。
なら――――
俺は素早く脚に飛びつき、トヨチカが突き刺した刀を踏んだ。
深く突き刺さった白刃は俺の体重にもびくともせず、具合の良い足場になった。
ティラノの脚が交互に振り下ろされる衝撃の中、俺ははっしと巨体にしがみつく。
「ぐ、お、あァァッッ!!」
ずどん、どずん、と足を踏み鳴らして暴れる竜にしがみつき、俺は叫ぶ。
揺さぶられる俺の動きに合わせて声すらも大きく上下していた。
「ははは! なんだそりゃ! 馬鹿も大概にしろよワカツ!!」
トヨチカはことさらに大声を上げて笑った。
俺もできる限りの大笑いを上げてやる。
さもなくば、誰もが恐怖に呑まれるからだ。
(そうだ。俺は平気だ。お前らの大将の俺は――)
ずどう、と恐竜の脚が地に沈み、衝撃が脳天を突き抜けた。
少しでも手を離せば虫けらのように踏みつぶされる。
その直感に膝が笑い始める。涙が浮かび、歯の根が合わなくなる。
俺は必死に恐竜にしがみついていた。
そしてそれ以上に必死に、顔面を笑みの形に歪めていた。
「てめえらぼやっとするな! 大将が総取りしちまうぞッッ!!」
トヨチカの一喝で縮こまっていた兵の多くが戦意を取り戻した。
「ワカツ! あと三回仕掛けりゃ脚をぶった切れる!」
三回。
遅い。
三回目の襲撃を終える頃にはトヨチカもぺしゃんこにされているだろう。
「わわわ分かった!! おおお前はそれでいいいいけっ!!」
「お前はどうする気だ!!」
「でかいのをぶち込む! お前らはこいつの気を引け!!」
「分かっ」
とうとう俺は投げ出された。
三回転したところでトヨチカ率いる太刀衆が襲い掛かる光景が目に映る。
反対側からは騎士の一団。
まず一度、武士と騎士の軍勢が恐竜とすれ違った。
死者、四。
ティラノの脛に新たな剣が生える。
僅かな矢の雨が爬虫類の目を惑わし、そこに生まれた隙にトヨチカが切りかかる。
死者、二。
三度目の交差を前に我慢が限界に達した俺は矢を番えた。
が、折よくそこへごろごろと運ばれるものがあった。
「九位! バリスタをお持ちしました!」
弓兵の一団がごろごろと巨大な弩を運んできた。
それは確かに城塞の門を破るほど巨大な兵器だった。
隠すのに布団が数枚は必要になるほどの大きさだ。
矢の代わりに装填されていたのは鯨打ちに使う巨大な銛だった。
柄に括られた縄は手垢で光っている。
頭に血の昇ったティラノはまだこちらに気付いていない。
俺は十年来の恋人にそうするようにバリスタに飛びついた。
弩は専門外だが、矢が装填されているのなら後は発射するだけだ。
俺は慎重にティラノに狙いを定めた。
走りながら矢を放てる俺だが、固定砲台の照準合わせは初めてだった。
射角。発射後の下降幅。風の影響。何もかもが手探りだ。
(――……)
二秒で照準を合わせ、一切の躊躇なく引き金を引く。
ばあん、と破裂音にも似た音が響く。
放たれた銛が空気を破り、穿ち、一直線に暴君竜へ飛んだ。
ひょるるる、と縄がそれに追従する。
弓兵である俺の目にも留まらぬほどの速度だった。
それはつまり――
(! まさか)
それはつまり、恐竜の反射を呼び起こすということ。
完全にトヨチカに注意を奪われていたはずのティラノが、銛の突き刺さるひと刹那直前、首を動かした。
銛は太い首の筋肉に突き刺さったが、奴を即死させることはなかった。気道から僅かに逸れたらしい。
世にも哀れな怒号が秋空に轟いた。
と、ティラノは鼻先を霧へ向け、どたっ、どたっと敗走を始めた。
首からは大量の血液が流れ落ち、水たまりほどもある飛沫が歓喜に沸く兵を赤く濡らす。
(やった……)
俺は銛をつかんでいる間も離さなかった弓を下ろし、残心を――
くけーっという奇怪な鳴き声。
はっと見れば小柄なラプトルが砦の陰からこちらに飛びかかるところだった。
「どこを見ているのですか九位!」
オリューシアが俺の視界に割り込み、装飾品の盾で爪の一撃を防ぐ。
衝撃を殺しきれず、彼女は盾ごとこちらに突き飛ばされた。
そして。
ティラノに刺さった銛から伸び、とぐろを巻く縄を。
踏んだ。
「~~~~~!!!」
俺は無我夢中で飛び出し、彼女の手を掴んでいた。
引き戻そうと力んだ瞬間、ひょるるるる、と宙を暴れた縄が俺たちの脚に巻き付く。
「!!」
「ッ?!」
あっという声を置き去りに、俺たちの身は真横に飛んでいた。
遮二無二走るティラノに突き刺さった銛、その先端から伸びる縄が俺とオリューシアを無慈悲に引きずる。
「ッ、っ!」
顔が幾度となく土を打つ。
砦が遠ざかり、太刀衆の顔が遠ざかる。
女剣士と俺はくんずほぐれつの状態のまま、なすすべもなく霧の中へ引きずり込まれていく。
「わ、ワカツッッ!! ワカ――」
「トヨチカッッッッ!!! 後を頼むッッ!! 葦原に――こいつらのことを二位に――――」
言いながら、俺の身は白い霧に飲み込まれた。
その瞬間、世界がめちゃくちゃな入口から俺の感覚器官に入り込んだ。
『つ』
『た』
『え』
『ろ』
口から飛び出した言葉が文字となって地の上を弾んだ。
湿った落ち葉に突っ込んだ瞬間、その苦酸っぱい味が口内に広がる。
ぶぱっと舞う土が皮膚を叩くと、目の中で赤と黄色が明滅する。
白い霧が『白い霧』という文字となって耳から脳に入り、頭蓋の中を踊る。
風の味が。痛みの音が。茶色の匂いが。俺を狂わせる。
(~~~~~!!!)
こらえられず、俺は嘔吐した。
吐しゃ物の色や匂いや味までもがぐるぐると脳内を駆け巡り、更なる吐き気に襲われる。
ティラノは丘を下り、丘を登り、地中に沈み、天へ昇る。
五感がかき乱される不快感は目を閉じても続いていた。
ずしっとティラノの脚が濡れた土を飛ばし、色と味が明滅し、物質化した音が顔を叩く。
俺とオリューシアは姉弟のように互いの身を抱き合い、ただ暴威に耐えた。
数分あるいは数十分、悪夢にも勝る現実が続いた。
気絶と覚醒を繰り返していた俺は、突如として地面が消える感覚を味わう。
「お――――」
霧を抜けた瞬間、俺は憎らしいほどの青空を見上げていた。
いや、違う。
それは空ではなく、水面だった。
俺は空を見上げているのではなく、水面を見下ろしているのだ。
苦痛にのたうつティラノは、あろうことか崖を飛び越えていた。
水面は遠――
「おあああああっっっっっ?!!!!」
ぐんぐん空が近づく。
身を切る風。
落下するティラノ。
近づく青。
ぶつりと何かが切れる音。
着水の衝撃と共に、俺は意識を失った。
「――い。――――。――」
揺さぶられる。
激痛を思い出す。
生水の臭さが鼻腔を満たす。
「おぼっ、っえぶっ!」
激しくむせ込みながら目を開ける。
涙で滲んだ視界にはオリューシアの輪郭が見えていた。
山吹色の髪を濡らした女は、ほっと胸を撫で下ろしている。
「良かった……」
「こ、こは?」
ごぶっと水を吐く。
葦原では考えられないほど生臭い水だ。
ナマズが大量に棲息しているというブアンプラーナの川を思わせる。
「冒涜大陸です」
彼女は俺に甘い想像を許さなかった。
黒い袖から伸びる白指が、ひっくり返りそうなほど広い土地を示す。
葦原で見るよりもずっと広い空が天を覆っている。
その下には広大な丘陵が続いていた。
丸みを帯びた草地を、背にひし形のヒレを持つ恐竜がのしのしとわが物顔で歩いている。
その少し先では小型のラプトルの群れが一頭の恐竜を追い回している。
丘の先には巨大湖が見えた。
信じられないほど首の長い恐竜が樹上の草をむしっており、その近くではワニとティラノらしき生物がもつれ合っている。
巨大湖の向こうには森林地帯があった。
そのさらに先は山裾となっており、その向こうには峻厳たる山脈が続いている。
どこまでも。どこまでもだ。
よろよろと立ち上がった俺は、そのまま卒倒してしまいそうだった。
広い。
広すぎる。
世界はこんなに広かったのか。
俺たち人類の住んでいる土地が大陸の二割ほどに過ぎないということは知っていた。
だが、世界は。世界はこれほどまでに広いのか。
「こんな生き物たちとずっと隣り合わせで生きてきたのですね、私たちは」
オリューシアは胸打たれたように、あるいはあきれ返ったように呟く。
一位も。
太刀衆の長も。忍者の長も。
つい先ほど恐竜と戦ったトヨチカ達でさえも。
誰一人、この土地のことを知らない。
人の世界から霧の膜一つ隔てた場所が恐竜の世界であるということを。
そして、俺たち今日まで文明を築き、安穏と暮らせていたのは偶然に過ぎないのだということを。
「今までは霧の存在が人と恐竜を隔てていたのでしょう。ですが、状況が変わってしまった」
「霧が薄れてるのか……!」
「ええ。おそらくは」
それは単純で、そしておぞましい一つの事実を意味していた。
いずれこの土地の恐竜が霧を越え、嵐となって世界を覆う。
ティラノが、ラプトルが、あるいは名も知れぬ人食いトカゲが葦原の桜を踏みにじり、畳に三つ爪の痕を残し、人肉を貪る。
いや、葦原だけではない。
唐も。エーデルホルンも。ブアンプラーナも。ザムジャハルも。
恐竜が外の世界へ飛び出せば、人類が営々として築いてきた文明のすべてが砂の城のごとく踏みつぶされ、人は食いつくされてしまうだろう。
――そんなことはさせない。
絶対に。
「オリューシア殿」
「はい」
「生きて、葦原に戻るぞ……!」
俺は地面に爪を立てた。
ぬるく湿った土が指の間から漏れだした。
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