ケン太のかいぼう

 この研究室に就いて三年もいれば、動物の死臭も癖になる。


 最初はぎゃーぎゃー叫びながらつまんでいた内臓も、「焼肉屋ででてくるホルモンと大差ないな」とまで悟っていた。


 いやはや、慣れとは恐ろしい。


 解剖学というのは世間から見たら気味悪がられる学問だと思う。


 街中で動物の轢死体を見つけたら、嬉々としてゴミ袋に詰めて持ち帰る。知的欲求を満される笑顔で死体のはらわたを掻きまわす。棚には数多もの動物の頭骨がぎっしり。


 実際、私もこの分野に飛び込むまではあちら側の住民だったから、そんな現場を目撃する貴殿のお気持ちはお察しします。


 でも一定の距離を置くことはやめてほしいな、と内心淋しく思う。そりゃ、死体拾いなんて、女子大学生のするイメージとはかけ離れてはいるんだろうけど……。


 そんな私は、おそらく畏怖に近い視線を向けられているのだろう。あるいは、動物園とかにいる珍しい生き物とか。


 そんなこんなで友達も恋人もできるわけがなく、おかげ様で自分の研究に没頭することができた。


 同級生の男子には、轢死体を拾う姿を目撃されてから、一定の距離を置かれている。ただ、同じ研究室に所属している望月くんを除いて。


「美空、例のが届いたぞ」


 窓から外を覗き込むと、軽トラックの荷台から、大人が五、六人がかりで黒い袋を降ろしていた。


「あの袋の中に――」


「そ、○○動物園で飼育していたケンタウルスだ」



 六肢動物網 翼獣目 ケンタウルス科


「ケンタウルス」は翼獣目の中でも「翼」を持たない稀有な分類群だ。


 ペガサスやグリフォンの前肢は(注:よく中肢が翼になったイラストが出回っているけど、骨格を観察すると地面につく脚より前に翼の肩甲骨が位置するため、あれは前肢なのだ)大きな翼となって飛翔適応をもつ一方で、ケンタウルスは地上に残る選択をした。


 その代わり、他の種では見られないほど大型化し、大きいものだと体高は三メートル、体重は約一トンになる。


 もちろん、そこまで大きいと解剖台に乗らないけど、今回研究室に持ち込まれたのはその三分の一の大きさ。


 つまりケンタウルスの子どもがやってきたのだ。


「虚弱体質で何とか看病していたらしいが、先日とうとう病気で亡くなったらしい」


 同期の望月くんは手元の書類を眺めながら言った。覗き込むと、体重や出生年月日などの数字がびっしり並んでいるなか、「ケン太」の文字がやたら浮いていた。


「男の子、なんだね」


「推定六歳らしい。ヒトでいうと小学校に入学するかどうかくらいか……」


「……望月くん?」


 尻すぼめる声はいつもの彼らしくなかった。書類とにらめっこしているはず望月くんの視線は虚ろになっている。


 書類に何か書いてあるのかも? 後ろから次の頁をめくろうと手を伸ばしたけど、望月くんは踵を返して華麗に回避した。


「……さて、ちゃっちゃと始めようか。あんだけ大きいと今日中に終わるか分かんないしな」


 ケンタウルス――ケン太の死体は袋ごと冷たいステンレス製の解剖台に乗せられて、地下にある解剖部屋に運び込まれていった。



     *



 白衣とはもう言えないほど赤茶けた服を身にまとい、ゴム手袋を装着する。


 トレイに道具を一通り揃えて地下へ降りていくと、一足先に望月くんがケン太の顔に濡れタオルを巻いていた。


 彼は後肢を専門としており、私の専門は中肢~前肢にかけた体幹だったため、お互い干渉することなく、横並びに解剖が進められる。


 私はケン太の中肢の根本――ヒトみたいな部分の腰にあたる箇所に手を添えた。ごつごつとした硬い感触はなく、ブニブニと、筋肉の弾力が指先に反発する。


「論文で読んだ通り、ここに肋骨がないのね……」


 メスを握る手が小刻みに震える。


 そんな私の挙動を望月くんは咄嗟に察したみたいで、


「……もしかしてケンタウルスの解剖は初めてか?」


「うん。……っていうか、亜霊長類自体が初めて」


 ゆっくりと中肢の根本に、正中線に沿って切れ込みを入れていく。メスを入れたところですぐに内臓は現れない――とはいっても、中肢から前肢にかけては主に肺と心臓程度しか大きな臓器はみられないけど。


 ヒトの姿をした死体の皮を剥いでいくと、逞しい筋肉が現われる。ピンク色の面積が増えれば増えるほど胸の奥からこみあげてくるものがあった。


 皮と筋をつなぐコラーゲンも、いつもはぺりぺりと剥がれる感触を楽しんでいるのに、今日に限っては不快に感じた。


 四苦八苦しながらもクモの巣のようなコラーゲン線維を取り除いた


 残すは首回り、というところで、私のメンタルは限界まできた。濡れタオル越しに浮かぶ顔の輪郭はヒトのそれだった。


「も、望月くん……私ちょっと――」


 そこで彼の方を向いてしまったのが大きな間違いだった。


 望月くんは淡々として馬の身体から大腸を引っ張り出していた。青黒いような赤黒いような肉塊は鼻につくような臭気を発している。


 さっき見た光景と相重なって胃の底から酸っぱいものがこみあげてくる。


「うっ……! ごめんっ! そのまま続けてて!」


 私は急いで手袋を外してトイレへと駆け込んだ。



     *



「美空らしくないな」


 トイレの脇のベンチで項垂れている私の隣に望月くんは腰かけた。


「ごめん……普通の動物なら平気なんだけどヒトの死体を触っているような気がして……」


「アレもれっきとした動物だよ」


 私は無神経な言葉にわざとため息を吐いた。


 でも後から思えば、このときの望月くんの声に生気がなかった気がする。


 私の次に返す発言のほうがよっぽど無神経だ。


「そりゃあ、馬の部分を弄っている望月くんからしたらそれは動物の解剖と大差ないかもしれないけどさぁ……。私はもろヒトの部分を捌いているわけでして……分かる?」


 望月くんは何もリアクションを返さず、


「ああ」


 望月くんは私の膝上にポンッと書類を乗せた。


 あの、ケン太の書類だった。


 望月くんはそれ以上は何も言わず、解剖部屋へと戻っていった。



 私は書類に手を伸ばした。最初にみたように「ケン太」という文字がやたら目立っていて、他は体高や体重、性別などが淡々と連ねられている。


 確かに標本ラベルのようではあるけど、これくらいなら我々人間だって健康診断の後でも――


 私は次の頁で手が止まった。



 そこには理由が書かれていた。


 望月くんが書類を見て物悲しそうだったことの。


 そして彼がケン太のことを「動物」だと主張していたことの。



     *



 私は解剖部屋へ戻ると望月くんがチラリとこちらを一瞥する。


 ケン太の下半身はほぼ除肉が進んで骨だけになっていた。


「もう大丈夫なのか?」


「……うん。あとは私に任せて」


 私の表情を見て微笑むと、望月くんは退室していった。


 ケン太の上半身を覆っていたシートを剥がす。変わらず、ヒトのような体がステンレス台に横たわっていた。


 手の力を抜いて一息つく。


 マントのようについた身体の皮を、首回りで切り取り、邪魔にならない場所に置いておく。


 そして、ゆっくりと濡れタオルを剥がした――虚ろな目でケン太は私を見つめていた。


「大丈夫、怖くないからね……」


 心なしかケン太は不安げな表情を浮かべているようだった。濡れた頭をそっとなでる。


 涙が止まらなかった。私の涙はぽたぽたとケン太の頬に落ちていく。



 あの書類には生い立ちが記されていた。ケン太のそれは決して平凡なものではなかった。


 ケン太は密輸された個体だった。



 中世の西洋では、ケンタウルスは権威のシンボルとして紋章に描かれていた。従順な性格で道具の使い方を教えれば、前肢で物をつかんで獲物めがけて突進する。その姿はまるで騎士のようであるからだ。それを飼いならそうと、裕福な貴族たちは彼らが住むアフリカから輸入した。


 自分の権威を見せしめるため。自分たちのエゴのため。


 伝統っていうのはなかなか消えないみたいで、それは現代でも世界各地で需要が絶えないでいた。


 ケンタウルスの輸入輸出は条約で禁止されているため、その多くはハンターの密輸によって出回っている。特に若い個体が人気で、野生のケンタウルスの子どもたちは親元から無理やり引き離されて捕獲される。


 見た目はヒトと同じであっても、ケン太はヒトに動物として扱われ、動物として自由を奪われた。


 中国へ輸入される途中でケン太は保護された。ただ、ケン太はもう長くはなかった。もともと病弱だったのに長い船旅で体力を消耗しきっていて、病気は悪化していった。


 急遽日本の動物園で看病されたが、それも虚しく、飼育員に囲まれながらケン太は息を引き取った。


 ケン太は動物園の檻越しにどんな景色をみていたのだろう。


 その虚ろな瞳にいる私はどのように映っているのだろうか。


 私は震える手でケン太の徐肉を進めた。


 それが私の勤めだから。


 ヒトの勝手に振り回されたこの子へのせめてもの償いだと思ったから。

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爪のないドラゴン 矢口ひかげ @torii_yaguchi

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