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 今年は暖冬傾向だそうだ。確かに耐え難いほど寒い日はまだ無かったし、テレビでもスキー場の準備がどうのとよく言っている。それでも、さすがにそろそろ防寒着が必要な時期に差し掛かろうとしていた。

 悠一はブレザーの上にダッフルコートを羽織り、スポーツバッグを担いで昇降口を出た。天気は快晴で、その分、空気は乾燥気味だ。午後も盛りを過ぎ、降り注ぐ陽光は明るさの割に遠慮がちに緩い。悠一は一旦眼鏡を外し、目を擦ってから歩き出した。

 向かうのは、いつもの非常階段だ。

 あの夢を見なくなった。あれほど毎日のように見ていたのに、あの少年を追い払って以来、ぱたりと止んだ。やはり、アイツが原因だった。望み通り、悠一は呪いから解放されたのだ。

 なのに、どうしてだろう。

 ともすると、こうしてあの現場へと足が向いてしまう。授業の終わった後や昼休み、ちょっとした空き時間につい訪れてしまう。あの少年が、呪いが、怖いならもう近づかなければ良いのに。

(オレは何を求めてるんだろう)

 自問しても、答えは出なかった。ただ、何かを掴もうと手を振り回しても、そこには空洞しか無い。そんな感覚だ。

 歩きながら振り仰ぐと、抜けるように青く澄んだ空が広がっていた。その中へと校内の活気が吸い込まれている。遠くから響く生徒の声を聴いていた悠一の傍を風が密やかに吹き抜けた。

 そうして、いつもの階段下まで来た所ではたと足を止める。見覚えの有る姿を視界の端に捉えたのだ。

 改めて、見直すとやはりいた。桜の木の下にあの久路詩緒里が立っている。いつもの無機質な空気を纏い、木を見上げている。

 何をしているのだろう。こちらからは表情が判然としないが、そうやってじっと佇む姿は木と会話しているようですらある。この前、声をかけて来た事からしても、彼女はあの木に何か思い入れでも有るのだろうか。

(あ、それはそうと、ちゃんとお礼を言っといた方が良いかな)

 ふとそこに思い至る。実を言えば、まだ直接、結果報告はしていなかった。何だかんだで、今回の一件が落着したのは詩緒里の世話のおかげだ。そこはきちんと感謝を含めて伝えるのが筋だろうか。

 そう思って、近くまで歩み寄って、しかし、いざ声をかけるとなるとやはり躊躇した。最初の時以来、詩緒里は悠一にほとんど関心が無いようなのだ。もしかしたら、忘れてさえいるかも知れない。それなのに声をかけて、引かれでもしたら物凄く恥ずかしいではないか。

「あなたは拒絶したのね」

 どうしようかとまごつく内に、先に詩緒里の方が振り返った。そうして、憶えているの憶えていないのと気を揉んだのが馬鹿らしくなるほど、またも唐突に訳の分からない事を宣う。

 悠一は急に振り返った相手に身構え、更に、何の話かと鼻白んだ。ただ、すぐにあの少年の事だとは察しが付く。自分達の間に他の話題も無い。悠一が少年を「巻き込まないでくれ」と突き放した事を言っているのだろう。その顛末てんまつは京介にでも聞いたのか。

 詩緒里の平板な目に見据えられ、睨まれている訳でもないのに、悠一は緊張した。

「あ、アイツの話? だけど、それはだって、そうでしょ」

 呪い殺されそうだったのだ。そうなると拒む以外に選択肢は無い。そもそも、詩緒里が京介を紹介してくれたのもその為のはずだ。取り憑かれて困っていた悠一に、祓う手助けの出来る人を教えてくれた。

「違う。そんなつもりで兄を紹介したんじゃない。だって、これは呪いなどでは無いから」

「え?」

 まるで心の声に答えたようなその否定に、悠一は動揺する。あまりに見透かすようなタイミングが不気味だった。

 それに、呪いではないとはどう言う意味だろう。あの現象は幽霊や呪いそのものに思えた。他に何が有ると言うのだ。

「あなたはあちらへ取り込まれる恐れがあった。その意味で危険性が有った事は否定しない。でも、それは呪いや心霊現象のせいではないわ。あなた達が共鳴していたから。同じぐらい求め合っていたから」

「求めた、ってオレは死にたがってなんかない!」

「そうじゃない。あれは思い。あなたはその思いに気付いて同調した。理解して、寄り添った。波が重なろうとしてた」

「波? 波ってなんだよ」

 淡々とした詩緒里に苛立ちながら小声で吐き捨てた。またぞろ電波染みて意味不明な、それでいて思わせ振りな言い方だ。

 だが、詩緒里は気にした風も無く、人形のように首を左右に振った。

「口では説明できない。ただ、私はそう感じるの。人の心の動きを波のように感じられる」

「はっ・・・そんなバカバカしい」

 思わず鼻で笑ってしまう。その口振りでは、要するに人の心が見えるとか読めるとか、そう言いたいのだろう。SFとかじゃあるまいし、そんな与太話よたばなしが実際に有るはず――。

「でも、あなたは少なからず実感してる」

 そう切り返されて、悠一も返答にきゅうした。

 詩緒里と目が合う。その大きな瞳がガラスのように悠一の姿を映していた。こうして見られるといつも酷く落ち着かない気分になる。まるで何もかもを見透かされているように。まさか、それは――本当にそうなのだろうか。

 果たして、自分自身の体験を幽霊や呪いと考えている人間が、詩緒里の言葉だけ否定出来るだろうか。これまでの不思議な体験が有るのに、否定出来るだろうか。

 そう言えば、この前、京介は「アイツは異変に敏感だ」と口にしていた。もしかして、それは心が読めるからと言う意味なのか。

「読むとか見るとか、それほどはっきり分かる訳じゃ無い。人より少し察しが良いだけ」

 狼狽えて言葉も無い悠一に、詩緒里がそう注釈する。しかし、それをどう受け止めろと言うのだ。

「はっきりでは無くても、私にはあの思いの波が感じられた。それは空虚さにさいなまれていた。それを理解して欲しくて、同じむなしさを抱く人を求めていた。黒木君はそれに共感した」

「ち、違う」

 そんな事は無い。オレとアイツは違う。オレはまだ死にたくないし、俺はアイツほど空っぽなんかじゃない。まだ――まだ、つながりを持っている。踏み止まる理由が有る。

 そう言いたかった。だが、口から出たのは弱々しい否定だけだ。

「別に、あなたを責めているんじゃない。黒木君があの思いに気付いてしまったのは、私のせいだから。本来、気付くはずの無い物に気付いただけだから。だから、受け止め切れないのは仕方が無い。ただ、私は――私はどうしてそれが気に入らないの?」

 不意に詩緒里が自問じもんした。変わらぬ無表情も、しかし、今までになく揺らいで見える。

 しばらく考えてから「そうか、私は苛立っていた」詩緒里はぽつりと自答じとうし始めた。

「同じ物を求められたけど、壊れた私の心ではどうにもならなかった。でも、普通の心を持った黒木君が気付いたなら、思いに応えられるかも知れないと思えた。それに期待してた。あの思いが報われるなら、私も救われる気がしていたから・・・」

 その独白はどう言う意味なのだろう。やはり悠一には理解の外だ。それでも、あの少年に対する拒絶が、どうやら、目の前の女子生徒を落胆させたらしいのは分かった。

 もちろん、悠一にその一方的な望みを叶える義理は無い。なのに、どうしてこう、いたたまれないのか。

「だったら、俺はどうすりゃ良かったんだよ」

 半ば不貞腐ふてくされながら、力なくこぼす。それに対して詩緒里はゆっくりと頭を振った。

「あなたは間違っていない。これはただ私の我儘わがままだった。だから、最初に戻るだけ。黒木君が離れれば、あの思いは拠り所を失う。そうして、本来あるべきままに人の思いは消えて行く。もう消え始めている」

「でも、先生は、京介さんは付喪神とか言ってた。そう言う妖怪って、ずっと残るんじゃあ・・・」

「多分、それはただの例え。あれは妖怪ではなく、ただの人の思い。誰かが応えるのでなければ、いつまでも維持する力は無い。寄り添う者の無い思いは、長くは続かない」

 つまりは消えて行く。

 消えて行く。

 それは詩緒里の言うように本来あるべき流れなのか。結局、幽霊だか、人の思いだか知らないが、普通は人が死んだ後に何かが残るはずもない。常では有り得ない。

 とにかく、詩緒里の話からも、今回はイレギュラーな事態だったのは違いないのだろう。それに悠一は悩まされた。その原因が正常化されるなら、どの道、願ったり叶ったりだ。

(そう。願ったり叶ったり、だろ)

 頭の上で桜の枝が音を立てて揺れていた。風が吹いている。暖冬だと言うのにやけに冷え冷えと素っ気なく。

 そう感じたのは、胸の内に空洞が有るせいだろうか。この穴はどうして開いたのか。

 揺れる枝の間に太陽が乾いた光を投げかけている。その中で、最後に首を横に振って飛び降りた、少年の顔がチラついていた。



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