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 絵筆にたっぷりと水を含ませて、パレットのマゼンダを一部すくい取って伸ばす。

 まずはそれを白い紙の全体にごく薄く広げる。次に、溶かす絵の具の量を増やし、滲ませながら塗り重ねて行く。スカーレット、ローズ、バイオレット。濃淡と共に様々な色が生まれる。

 今度はそこにレモンエロウやインディゴを混ぜ、オレンジ、バーミリオンと変化を付ける。

 そこまで描いて、詩緒里は手を止めた。

 画面には赤を基調としながら幾重もの波紋が生まれている。それはおおよそイメージ通りの詩緒里のテーマなのだが、何か今一つしっくりこない。何故だろう。

 詩緒里が首を傾げた所で、部屋の戸が短くノックされた。

「おい、アヤが風呂空いたってさ」

 顔を出したのは上下ジャージ姿の兄だった。その特有の赤い髪はしっとりと濡れている。既に兄も風呂は済ませたらしい。

「わかったすぐに行く」

「絵、描いてたのか?」

 ふと近づいて来た兄が手元を見た。詩緒里は無言で肯定し、一緒になってしばらく眺める。

「お前にしちゃあハッキリしない感じだな」

 そうかも知れない、と内心頷く。隠しても詩緒里がその気になれば見透かされると分かっているからだろう、いつもながら兄の寸評すんぴょうには忌憚きたんが無い。だが、それだけに的確でもある。やはり、何か一味足りないのだ。

「迷ってる感じだな。まあ、それが良い。お前が思ってるほど、お前の心は壊れちゃいないんだ。そうやって悩むのは健全な傾向だよ」

 そんな物だろうか。詩緒里の頭を撫でた兄はずいぶんと満足気だ。

「所で、お前が紹介してくれたあの同級生君の件なんだけどな、一応、一区切りついた」

 まるで絵を見て思い出した風を装って、兄はそう切り出した。

 同級生君――例の黒木悠一の事か。

 悠一が結城医院を訪れ、兄に助力を請うた話は既に聞いていた。それにより、兄が体質を利用して協力する方針になったとも。それが一段落したなら、結構な事だ。

 ただ、一応の部分に少し含みも有る。

 目顔で問いかけると、兄は頭から手をどかして悩まし気に腕を組む。

「喧嘩別れのような形になってな」

「そう」

「もう少し円満に収められると思ってたが、甘かったよ。想像してた以上に黒木君も参ってたらしい。見極められなかった俺の未熟だ」

 溜息を吐いた兄は、言葉の調子通り心残りになっているらしい。後悔ではないが、反省している感じだ。その揺らぎが詩緒里にも伝わる。

「まあ、後は経過観察するしかないな。強引な形になったから影響が残らないとも限らん。出来れば、その辺りはお前も学校で気にかけておいてくれないか。とりあえず、定期的な診察と何か有ったら来るように言っといたが、こればかりは予測が付かないからな」

「分かった」

 兄が仕事関係で詩緒里に何か頼む事はほとんど無い。ただ、今回は相手が同級生だからなのだろう。それに加えて、もともと詩緒里が気にしていたのも承知している。それで敢えて話を持ち掛けて来たのか。兄らしい気遣いだ。

 詩緒里としても異存は無かった。

「じゃあまあ、よろしくな。あと、早く風呂に入れよ。もうお前だけだから、出たら湯を抜いとけ」

 兄が部屋を出て行き、再び一人になって絵に目を落とした。とまれ、キリの良い所までは仕上げよう。さて、何が足りないか。

 そう思いつつも、詩緒里は別の事を考えていた。

 悠一はあの思いを拒んだ。それが結末だった。結局、彼もそれを変える事は出来なかったのだ。むしろ悪化さえさせてしまったのか。

 胸の底の辺りが何故だか無性に疼く。

 詩緒里はブラックの絵の具を取った。パレットの上で他の色と混ぜ、水で調整する。その滴を、思い切って画面の真ん中にポタリと落とす。

 赤い波紋の中に黒が主張を始めていた。

  



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