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 悠一は病院が苦手だった。別に医者が怖いとか、雰囲気が嫌だとか言うのではない。単純に、病院に行っても役に立たないと思うのだ。

 それは何も理由の無い事では無い。その不信感は経験則から来ている。特にその思いを抱くようになったのは中学に入った辺りだった気がする。

 その頃、悠一は原因不明の体の怠さや気分の悪さを覚える事が増えていた。それを訴えると、母が忙しい仕事の合間を縫って病院に連れて行ってくれる。しかし、その診断の結果はいつも異常無しだった。調子が悪くなる度に病院を訪れ、あるいは場所を変え、人を変えてみたが、ほとんどその結論は変わらない。異常無し。異常無し。異常無し。どこの誰も、悠一が気持ち悪くなる病因を解き明かしてはくれなかった。

 次第に、付き添ってくれる母に申し訳なくなり、悠一はそれを我慢するようになる。

 だが、如何に医者が否定しようと、気持ちが悪い物は悪い。この苦しみを誰も理解してくれず、それも悠一には苦痛になった。

 その後、中学の終わり頃に悠一は給食で気持ち悪くなる症状が出始めた。しかし、それも原因不明とされ、それで決定的に病院を信頼できなくなった。以来、医者を避け、相当危険でない限りはなるべく我慢するようにしている。

 そんな悠一が、この日はある病院の前にいた。大通りから入ってしばらく、やや古い商業ビルが建ち並ぶ地域の一角だ。狭い駐車スペースに申し訳程度の植込み、茶色い外壁の建物も周りに比べれば多少小ぶりか。その玄関の自動ドアには、結城医院の大きな文字が躍っている。久路詩緒里に教えられた、あの医師のいる所だ。

 病院嫌いの悠一にとってここを訪れるのはかなりの決意が要った。分けても、普通の内科などではなく精神科なのだ。どうしても、得体の知れないイメージが付きまとう。

 実を言えば、この建物の前に来るのも初めてではない。何度かやって来てはいたのだ。だが、この科の看板を見る度に躊躇して毎回入り口でUターンしていた。

 ただ、今日こそはもう引き返さない。そう決めていた。

 それはあの夢のせいだ。

 相変わらず、夜な夜な同じ夢が続いている。だが、少年に呪われていると気付いて以降、どうしてもそれが怖くなっていた。朝も中途半端に起きてしまい、いつも気持ちの悪い寝汗をかいている。

 このまま、この目覚めが続くのはもう耐えられない。とにかく、何とかしたい。

 腹をくくった悠一は、初めて玄関の自動ドアをくぐった。

 入ってすぐは緩衝かんしょうスペースだ。足拭きマットに傘立てと車椅子が有るだけで、すぐに次の自動ドアが見える。

 そこの壁に診察日と担当医を表にしたパネルが付いていた。個人医院だけあって、常勤二人と非常勤一人のやや小規模な体制になっているらしい。恐らく、親族経営なのだろう。常勤医師は両者共に結城姓で、片方の名前の後ろに(医院長)とあった。目当ての結城京介は、その肩書が付いていない方だ。

 今日はその診察日になっている。もっとも、それに付いては医療機関を紹介したホームページに同じ表が載っていたので、事前に確認して有った。

 こちらの用件が用件だ。実際、相手にどう対応されるか知れないため、そこはある程度シミュレートしている。その上で、適当な日と時間を考えた。平日ではあるが、学校が終わって受診終了時刻のギリギリ。これなら、多少は時間も融通ゆうづうしてもらえるのではないか。

 そう期待しながら二つ目の自動ドアを抜けると、すぐ目の前が受付だった。L字型の狭いカウンターになっていて、奥の方は書類棚で目隠しされていた。

 その左手は通路を挟んで待合室だ。ベンチにブックラック、観葉植物が置いてあり、数人の患者らしき人がいる。親に連れられた学生と思しき女子に老婦人、会社員風の男性など、特に普通の内科とも大差ない客層(?)に思える。

 後は通路の奥の方に診察室が有るらしい。

 悠一は一旦立ち止まって深呼吸し、緊張を抑え込んで受付に向かった。カウンターには事務服姿の女性が一人座って作業している。

「あ、あの。スミマセン」

「はい、こんにちは」

 女性はすぐに顔を上げてくれた。

 だが、悠一はそこではたと迷ってしまう。今更ながら、どう説明したものか分からなかったのだ。

 いきなり「幽霊を何とかしたい」などと言っても良いのだろうか。その専門家と期待して来た訳だが、どう見てもここは普通の病院だ。果たして、それで通じる自信が持てなかった。

 いや、ここは精神科なのだ。あるいはそれでも対応してくれるかもしれない。ただし、十中八九それはこちらの望みと違う意味で、だろう。

「受診をご希望ですか? 予約はされてます?」

 まごつく悠一に、受付の焦りもせずに水を向けてくれた。穏やかな声で、少し安堵する。

「あ、いや違う――多分、違うと思います。その・・・、結城京介先生っておられますよね?」

「はい。京介先生――若先生の方ですよね?」

「ええっと、多分」

「どのようなご用件ですか?」

「あー、その、ある人に紹介されて、ここの先生に相談すればって。あ、だから、これ」

 とりあえず、詩緒里にもらった名刺を渡してみる。相手はそれを受け取り「あら、これ」と呟いた。それから奥に向かって声をかける。

「あの、アヤさん。コレなんですけど」

「何ですか?」

 呼ばれて書類棚の陰からもう一人、事務員らしい女性が出て来る。丸みを帯びた輪郭の三十代前後ぐらいの女性だ。美人と言う感じではないが、どこか愛嬌あいきょうが有った。

 そのアヤと呼ばれた女性に名刺が渡る。それを裏表に返しながら見て、二人の女性が二言三言、言葉を交わした。それから、場所を入れ替わってアヤの方が悠一に応対する。

「この名刺を持って来て下さったのはあなたですね。失礼ですけど、お名前を窺っても構いませんか?」

「あ、えっと黒木です。黒木悠一」

「黒木悠一くん、ね。二、三確認しても良いかしら?」

 悠一が首肯しゅこうすると、相手は「ありがとう」と微笑ほほえむ。

「じゃあ早速ですけど、この名刺はどう言った経緯けいいで? 裏には詩緒里ちゃんの名前が有るみたいだけど」

「それは、その」先ほどの懸念は拭えないので、悠一は慎重に言葉を選び「高校で、ちょっと悩んでて。そしたら、同級生の久路詩緒里さんがこの人なら助けになってくれるって」

 村中の時と同様、なるべく外堀から攻めて行く。

「そうか、そうか。その制服、やっぱり詩緒里ちゃんと同じ高校なのね」

 少しずつ砕けた口調になって来たアヤは表情もよく動いた。もしかして、それは緊張する悠一に気を使っているのか。それとも、もともとこう言う人物なのか。多分、その両方な気がする。

「所で、詩緒里ちゃんからウチの詳しい話は聞いてる?」

「いえ、その名刺を渡されただけです」

「そっかあ。相変わらず、投げっぱなしなんだからもう」

 アヤが大袈裟にいきどおって見せる。如何いかにも芝居がかっていて、本当に怒っているので無いのは明らかだ。そこからは、何となく詩緒里とアヤの関係が窺える気がした。

「少し事情は分かったわ。多分、そこから先の話しは直接、京介君に聞いてもらった方が良さそうね」

「はあ」

「ああ、だけど――」アヤは待合室の方を窺い、ポケットから時計を出して確かめながら「診察が終わるまでもう少しかかりそうなの。大体、三十分か四十分ぐらいなんだけど・・・どうする? 待ってもらえるかしら」

 この際、是非も無い。悠一が頷くと、アヤはすまなそうに「ゴメンね」と眉を下げた。

「じゃあ、しばらく時間を潰してもらうんだけど、待合室か、それとも奥の部屋にする?」

 どちらでも構わないが、今の心境ではあまり人のいる所は気が進まない。なので、おずおずと奥を所望した。

「オーケイ。こっちに来て」と、アヤは書類棚の向こうに戻って、近くの扉から出てきた。そのまま、奥の通路へと先導する。向かって右には診察室が並んでいた。扉には院長と京介の名前が大きく張ってある。通路の左手は階段とエレベーター、トイレと続き、少し間を置いて談話室と表示された部屋がる。そこから先は突当って非常口だった。

 案内されたのはその談話室だ。入ってアヤが電灯とエアコンのスイッチを押す。観た感じはそれほど大きな部屋ではなさそうだ。ただ、調度ちょうども簡易的な給湯設備と壁際の本棚数台、カポックの鉢に長方形の机、それに合わせたパイプ椅子ぐらいしかなかった。その分、多少広く感じる。

「コーヒー、紅茶、お茶、それからミネラルウォーターが有るけど、どれが良い?」

 悠一に椅子を勧めてからアヤはそう聞いた。

「お構いなく」と答えたが「遠慮しなくても良いのよ」と返されたので、固辞こじするのも失礼かと思い、紅茶を希望した。

 ティーポットでれてくれたのはアールグレイか。さわやかな香りのする紅茶だ。

「じゃあ、悪いけどしばらく待っていてね」

 茶を供し終えたアヤはそう言って立ち去りかけ、ふと足を止める。

「ああ、そうそう。自己紹介して無かったけど、私は結城綾子ゆうきあやこ。まあ、うちは結城姓ばっかだから、綾子って呼んで」

 そう苦笑気味に肩を竦めてから出て行った。アヤとは綾子の略だったのか。

 それにしても、やはり親族経営なのだろう。綾子の言う通り、結城ばかりのようだ。なら結城京介も京介先生と呼ぶべきなのか、それとも若先生と呼んだ方が良いのか。

 悠一は緊張し過ぎているのか、そんなにも付かない事を考えていた。



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