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 黒木悠一くろきゆういちと言うらしい。

 あの体育館裏に立つ桜の木の前で出会った男子生徒の名前だ。詩緒里はそれをクラス名簿で調べて知った。同じ学年なので時折姿は見かけていた。後はその行動を観察してクラスを特定し、そこから絞り込んだのだ。

 そうやってわざわざ調べたのは興味が湧いたからに他ならない。あの男子生徒――黒木悠一に一瞬だけ重なった気配。それはあの桜の木の物だった。詩緒里はそれが気になる。

 あの時、桜の木を仰ぎ見ていた悠一は強く惹かれている気がした。まるで、桜に宿る強い思念に取り憑かれているように。

 だから、詩緒里は「憑かれているの?」と口にしてしまったのだ。

 対する、悠一はこちらの意図を充分にめなかったらしい。ずいぶん怪訝そうな表情をしていた。

 もっとも、それは責められない。そんな一般的に非現実的と考えられている事をいきなり問われても、普通はすぐに認識できないだろう。

 それでも、そうした現象は存在している。例えば、あの木のように強い思いを宿した物質。それはごくまれには違いないが実際に発生するのだ。非常に気付かれにくく、認知され難いものの、本来、物と心はそうした関係性を持っている。物質的な世界と複雑に影響を与え合っている。そうして宿った思いが強くなれば、時として逆転的に人さえとりこにしてしまう。

 環境的、体質的に詩緒里はそれをよく知っていた。

 なればこそ、その異常性も理解している。元来、こうした現象が気づかれないのは、それほど精神と物質は上手く調和しているからだ。なのに、人を虜にするほど露わになるとすれば、それは有るべきバランスが崩れているあかしと言えた。

 今回、その原因を作ったのは詩緒里だ。詩緒里がほつれた糸を引いたため、穴が広がってしまった。木の中に眠っていた思いが露わになった。

 それでも、普通であれば、そのままその穴は閉じるはずでもあった。そうならなかったのは悠一が新たに糸に気付き、引っ張ったからだ。

 恐らく、波長が合ったのだろう。それは何となく理解できる。

 それとなく観察し続けた印象として、黒木悠一と言う人物はごく平凡だ。学業にしろ、容姿にしろ、身体能力にしろ、目立った所はほとんど無い。まさに可もなく、不可もなく。その上で、ごく大人しい控えめな性格をしている。

 多少、特異であるとすれば、そうした性格故に、葛藤かっとうしている所だろうか。積極的になれず、コンプレックスを抱いて他人と距離を感じやすい。また、それを助長じょちょうする因子も有る風だ。

 そうした雰囲気は、なるほど、あの桜のいだく思念に似ていた。

 となれば、あの桜は詩緒里に見出したと同じ物を悠一に求めたのだ。

 それ自体に大きな問題は無い。ただ、悠一は詩緒里と違ってちゃんと共鳴出来る。その同調性は本物の水を枯れ木に注ぎ、その結果として木の勢力は増していた。また、悠一の中にもあの木と同じ思念の一部が宿っているように感じられる。それが気配のダブる理由なのだろう。

 これが過度に進行すれば、いずれ精神と物質のバランスは決定的に崩れる。つまり、現実とのさかいを越えてしまう。そうなれば、悠一はあちらに取り込まれ、二度と戻れなくなるだろう。

 境を越えるか越えないか、それは本人の選択だ。悠一自身が望むなら、余人よじんが口を差し挟んだとて無駄だろう。しかし、惰性だせいの結果であるなら、それは好ましい事ではない。

 要は、悠一がこちらに残りたいかどうかなのだが――。

 この間、声をかけた時にはかなり同調する兆候ちょうこうが見られた。しかも、それに対し悠一には自覚が無い。それでつい、警告めいた言葉と、力添ちからぞえの申し出を送ったのだ。

 詩緒里にも端緒たんしょを生んだ責任が有るのは理解している。それを思い悩む心は無いにせよ、最低限の道理として悠一の力にはなるべきだった。

 と言って、詩緒里とて専門家ではないので、手段は限られている。とまれ、最善の策として義父ぎふと兄の所を紹介しておいた。詩緒里が知る限りでは最も経験豊富でサポートに適した人材だ。

 後は本人が訪れるかどうかだが、兄や義姉の様子からすればまだ来ていないのだろう。また、桜の木の方も調和を保っている。

 このまま、何事もなく時間と共に事態が収束するなら一向に構わない。ただ、そうはならないだろうと、詩緒里は予感していた。

  



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