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「あっ」

 悠一が少々間の抜けた声を上げたのは、手を向けた矢先に職員室の戸が開いたからではない。そこから出てきたのが、見覚えのある女子生徒だったからだ。

 小柄な身体に癖のある長い髪。顔立ちは整っているが、相変わらず愛想の欠片かけらもない。先日、桜の木の前で声をかけて来たあの女子生徒だ。

「えっと」

「・・・・・・」

 思わぬ遭遇そうぐうに固まってしまった悠一と違い、女子生徒は自然に一歩退いた。道を空けて無言ながら明らかに「どうぞ」と言っている。

「ど、どうも」

 そうまでされて立ち尽くす訳にもいかず、悠一はあわてて横を抜けた。つい軽く頭を下げたのは少し滑稽こっけいだったか。

 女子生徒は入れ替わりで外に出る。そのまま、何事も無かったかのようにあっさりと戸が閉まった。そこに何の余韻よいんさえ残さずに。

(オレの事、全然憶えて無いのかな)

 ふとそう思う。

 あれ以来、あの女子の顔は何度か目にしていた。名前は久路詩緒里くじしおりと言うらしい。それは貰った名刺から判明した。渡される時に何か裏書きしていたが、それが名前だったのだ。

 ただし、書いてあったのは《詩緒里》と言う下の部分だけだった。後は、バッグの色などから同学年と見当が付いていたので、クラス名簿で調べた。

 そうして認識下に置くと、同級生だけあってたまに廊下ですれ違ったり、学年集会などで見かけたりもするのに気付く。悠一としてはその度に少なからず意識する物が有った。この前のやり取りが気になって、つい様子を窺ってしまうのだ。

 だが、あちらはいつもあんな態度だった。目が合うどころか、こちらに気付いた気配すらない。まるで、この前の会話さえ記憶に無いのではないかと言うていだ。

(まあ、単にオレなんかには興味無いってだけなんだろうけど)

 そうやって多少自虐的に肩をすくめめてみる。だからどうだと言う訳でも無いが、改めて自分の存在感の程度を思い知った気分がした。

 それはそれとして、悠一は本来の用事に気持ちを戻す。

 全ての授業が終わり、ホームルームにも片が付いたこの時間、職員室には出入りが多い。悠一以外にも何人かの生徒がいたし、教師の席も半分は空いていた。

 果たして、先生はいるだろうか。何となく、相手がいないならいないでも良い、と思う。それは、これからする質問にあまり気が進まないせいか。

 幸か不幸か、悠一の目的の人物は逆の半分だった。

「あの、村中先生」

「はあい――ちょっと待ってね」

 何か作業をしていたらしい。声をかけても村中は手元のプリントに忙しなくペンを走らせた。その作業がひと段落着いてやっと顔を上げる。

「はいはい、何かしら――あら、ミスタ黒木じゃない」

 村中は悠一の姿を珍しそうに認めた。もとより、悠一も進んで職員室を訪れるタイプではない。なので、意外だったのだろう。

「どうかしたの?」

「あの、ちょっと聞きたい事が有って」

「あら、授業で分からない所でも有った?」

「いえ、そうじゃなくて」

 気軽に首を傾げた村中に対し、悠一は少し躊躇ちゅうちょした。その分、少し声がくぐもる。

「この前の話なんですけど」

「この前の話?」

「はい。あの、この前、教室棟の外階段で会ったじゃないですか。その時に聞いた」

「あー ――ああ・・・」

 一瞬、怪訝けげんな顔をした村中も、それで思い出したらしい。同時に幾らか表情が曇った。手に持ったままだったペンのキャップを、しきりに開け閉めし始める。

「あの時、先生は生徒が落ちたって言ってましたよね?」

「ええ、まあそれは。でも、それがどうかしたの?」

「いやその、それって何でなのかと思って」

「何でって・・・突然どうしたの? そんな事」

「それは・・・ちょっと気になって」

「だから何故?」

 村中が繰り返した。あの階段での転落死に興味を持つ悠一を不審がっているらしい。あるいは、以前の話しぶりからしても、本来は触れたくないからなのか。

「何故」と問われるなら、もとより悠一の動機はあの夕日の光景だ。また、今もまだ毎日のように見ている、あの光景の夢だ。

 だから、あの夕日に出て来る少年が気になる。あの少年に関係の有りそうな、生徒の転落死が気になる。特に、写真を見付けて少年の実在が確実になってからと言うもの、その思いはいや増していた。

 実を言えば、あれから悠一は生徒の転落死について自力で更なる調査もしていた。事件の起きた大まかな時期や名前など、多くの情報が有るのだし、それは簡単に出来る気がしたのだ。

 所が、これが意外に難しい。まず、十年近く昔の古い出来事なので残っている資料が少ない。関係者も、その所在も分からない。それらを調べる手段の知識も無い。

 辛うじて悠一に出来たのは、図書館で当時の新聞などを調べるだけだった。それも、細かい日付は分からなかったため、縮刷版しゅくさつばんの一年分近くを総当たりするしかなかった。

 それで確かめられた事実はほんのわずかだ。当然、記事では具体的な人名や校名は伏せられていたし、地域や状況から何とかこの転落死が推測出来たに過ぎない。いっそほとんど収穫は無かったと言って良い。

 結局、それで悠一は唯一分かっている関係者――つまり村中を当たる事にしたのだ。以前の反応などから察して気は進まなかったが、他に新たな情報を得る手段は思い浮かばなかった。

 悠一としては、出来ればもう少し当時の状況について知りたい。生徒は――少年はどのように転落したのか。何故、そうなったのか。それが知りたいのだ。

 ただ、そうした経緯を村中に正直に明かすのは気が引けた。あの夕日に付いてどう説明すれば良いのか分からないし、理解してもらえるとも思えなかった。幻覚や妄想で片付けられるのが落ちで、下手をすれば、久路詩緒里のように精神病院さえ勧められるかも知れない。

 ならば、そうした核心はぼやかしつつ、探りを入れるしかないだろう。

「だって、別に落ちるような場所でもないですよね、あそこ。普通なら」

「それは・・・」

「あ、他にも誰か落ちた所なんですか?」

「いえ、そうではないのよ。そうではないのだけれど・・・」

「だったら、変な事を聞くかも知れませんけど、もしかしてソイツって自分から飛び降りたとか――」

「黒木クン!」

 急に村中が語気を強めて遮った。声をあららげられた訳では無いが、悠一は咄嗟とっさに息を飲む。まさか、こんなに激しく反応するとは。束の間、緊張が走る。

 村中は取り繕うように咳払せきばらいをして、手に持っていたペンを机の上に置いた。

「とにかく、ここでは何だし、少し場所を移しまショ。こっちに来なさい」

 連れて行かれたのはまたしても生徒相談室だ。あまり使われない部屋特有の埃っぽさが漂う中、以前と同様にローテーブルを挟んで差向う。村中は浅く腰掛けて端然たんぜんと背筋を伸ばしていた。ただ、小柄なせいだろうか、古びたソファがやけに大きく見える。

「さっきはごめんなさいね。あの事件はまだ気にされている先生もいらっしゃるから」

「それってやっぱり、その、自殺だったからですか?」

「・・・・・・」

 恐る恐る尋ねた悠一に村中は答えあぐねた様子だった。腕を組み、片頬を手で覆って視線を泳がせる。慎重に口を開いたのはしばらくしてからだ。

「分からないわ」

「分からない、って・・・・」

「自分で飛び降りたのか、それとも事故だったのか。少なくとも事件性は無いと、警察は言っていたけれど」

「じゃあ、どう言う扱いなんですか?」

「学校では、事故と結論付けているのヨ」

「でも・・・・・・」

 先ほども言ったようにそう簡単に落ちるとは思えなかった。高い場所ではあるが、東と南側は校舎の壁が有って強い風にあおられたりもしない。その上、コンクリート製の手摺が、悠一の胸ほどの高さまで有るのだ。よほど身を乗り出すか、自らその意思を持たない限り、乗り越えるとは思えない。

「自殺ではないとされたのは、遺書が見付からなかったからなのよ」村中は静かに頭を振りながら続けた。「それに・・・」

「・・・?」

「彼が自ら命を絶つ理由が見当たらなかったわ」

「理由・・・」

「確かに、とても大人しい子で、少し周りから浮きがちな所もあったと思う。多少、人間関係には苦労していたかも知れないわ。それでも、少なくとも学校の調査ではいじめられていた訳では無かった」

 いじめ。こうした事件では真っ先に疑われる動機だろう。ただ、学校側の調査など、本当に信頼して良い物だろうか。

「教師としての感と言うか、私もそうした気配は感じなかったわ。もちろん、直接的に指導していた立場ではないから、絶対にと言うつもりではないの。けれど、当時担任されていたのは、そうした経験も豊富な先生だったから・・・」

 狭い部屋の中に村中の重苦しい吐露とろが続く。それは悠一に説明していると言うより、半ば自分で確認し直しているような様子さえ有った。

「家庭や成績面でも特に問題が有る子では無かったわ。少なくとも、思い詰めているほどの素振そぶりは感じなかった」

 もしかすると、明確な理由が見当たらないその生徒の死は、村中達を戸惑わせたのかも知れない。死には根拠が必要なのだ。原因が有るから結果が生じる。死からその単純な理解が失われれば、生と分かつ手段が霧消むしょうする。

 だから、余計に事故と言う認定を覆したくない。先ほど、語気を強めたのはそれ故にも思えた。

 もっとも、もっと単純な理由も有るらしい。学校側の事情だ。村中によれば、事故と結論付けた学校と教育委員会に、生徒の両親は納得しなかったと言う。その結果、事件は裁判沙汰にまでなり、最終的には和解したものの、後味の悪さとしこりが残った。だから、今でもこの話題に教師陣はナイーブなのだ。

「そんな訳だから、黒木クンも興味本位で調べてはダメよ。それで、傷ついたり不快に思ったりする人もいるのだから」

 村中はそうたしなめて締め括った。悠一は決して興味本位では無かったが、それは言っても仕方がないだろう。

 相談室を出て、教室へと向かう。それなりに時間は経っていたらしく、校舎内は閑散としていた。しかし、最終下校時刻にはまだ遠く、どこか放課後らしい緩い活気がある。

 果たして、村中と会談もそれほど新しい事実を明らかにはしなった。むしろ、新たな疑問を生んだと言っても良いかも知れない。

 村中たちは少年の死んだ理由を見付けられなかったと言う。しかし、そこで本当にその意味を解しなかったのだろうか。なのに。

 悠一はほぼ確信していた。あの夕日での光景も踏まえ、やはりあの少年は自ら飛び降りたのだ。決して事故などではない。

(けど、そうなると・・・)

 あの少年の存在は、ある意味を持って来るのではないだろうか。

 それは、あの少年の写真を見付けた時から薄々気になっていた。そのせいか、この所はいつも見ているあの光景の夢も、何か違う物のように思える。以前は、その空間に浸り、解放された気がしていたのに、今は心のどこかで警戒している。

 あの少年は数年前この高校に実在した。それから、あの階段で転落死し、時を経て悠一の前に現れた。

 そうした存在を定義する言葉を、悠一は一つしか知らない。


――幽霊。


 いや、それが荒唐無稽こうとうむけいなのは分かっている。幽霊など、悠一は信じていないし、できれば信じたくもない。

 だが、他にどう結論付けられるだろう。様々な特徴がそれを示しているではないか。そもそも、もし単なる夢や幻なら、悠一が何の接点も無い過去の生徒を見る意味が分からない。既に、スタートが怪奇的なのだ。この際、そこに怪奇現象を足して何の不都合が有ろうか。

 不意に「つかれているの?」と聞いた久路詩緒里の顔が思い浮かんだ。あれはもしかすると、「かれているの?」と言っていたのではないだろうか。つまり、悠一が幽霊に取り憑かれていると。

(あのコって、まさか霊能力者とかなのか)

 それなら、あの奇妙な雰囲気にも何となく納得が行く気がした。

 考えている内に、教室に着いていた。中には誰もいない。蛍光灯も消え、薄暗い部屋の自分の席に戻る。机の中身を引っ張り出し、バッグの中へと詰めて行く。

 しかし、仮にあの少年が幽霊だとすると、あの光景や夢の位置付けはどうなるのだろう。

 あの光景の中で少年はしきりに悠一を誘い、悠一はあの階段から飛び降りる。あれは何なのだろう。何故あんな事をさせるのか。

 そう言えば、先ほどの村中との会話だ。あの中で、村中は死んだ生徒の事を、「大人しい」「周りから浮きがち」「人間関係には苦労」と評していなかっただろうか。その評価はまるで悠一と同じにも思える。

 似た者同士。確かに、あの少年は悠一に似た所がある。最初に出会った時から、不思議なほどの親近感が有った。時には、旧友と取り止めのない会話をしている気分にさえなった。

 自分と似た悠一がのうのうと生きている。自ら命を絶った少年にはそれが許せないのかも知れない。だからこそ、悠一に取り憑き、自分と同じ運命へと導いている。あの階段から飛び降りさせようとしている。

「そんなの、まるっきり呪いじゃないか!」

 愕然がくぜんとして、悠一は声を上げた。

 上げてしまって、すぐ我に返って周りを確かめる。「良かった」相変わらず誰もいない。もし人に見られていたら、気味悪がられたに違いない。

 強いて気を鎮めながらも、感じた戦慄せんりつは中々治まらなかった。脇の下に嫌な汗が滲み、腕の辺りには鳥肌が立っている。

 あの少年の霊は悠一を取り殺そうとしている。そう考えると恐ろしくて仕方がなって来る。悠一とて、そう簡単に死にたくはないのだ。

 とにかく、何とかしなければならない。しかし、呪いなどどうやって対処すればいいのだろう。

(ああ、そう言えば)

 またしても詩緒里を思い出す。

 あの女子生徒はいち早く悠一の状態に気付き、警告をしてくれたのだ。霊能力者なのか何かは分からないが、彼女なら何か対処法を知って――。

(いや、ダメか)

 その思い付きを即座に否定する。よく考えてみれば、あの時に詩緒里自身は「私には何も出来ない」と宣言していたのだ。もしかすると、これを見越していたのかも知れない。ただ、その代り――。

 すぐさま、悠一はスポーツバックのサイドポケットを漁った。ポケットティッシュや適当に突っ込んでいたプリントに混じって、すぐにその一枚を見付ける。


『結城医院 医師 結城京介』


 そう書かれている名刺。

「もしあなたが本当につかれて困ってるなら、助けになれる人は知ってる」

「ここに行けば、きっと力になってくれる」

 この名刺を差し出しながら、詩緒里は確かにそう言っていたはずだ。

  



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