8



 最近、夜眠るとよく夢を見る。

 夢の中で悠一はそれを夢だと気付いていない。いつの間にかその場所にいて、その光景にひたっている。外階段の一番上で燃えるような夕焼けに没頭して、一人の少年が隣にいて、一つの思いが心を満たす。そうして、悠一は桜の花弁が描く赤い渦に飲まれて落下し続けるのだ。

 そこで目が覚め、初めて気が付く。

 ああ、またこの夢か、と。

 この所、本当にそんな夜が多くなっていた。何でそんな夢を見るのか、それは分からない。ただ、明らかなのは、それが以前、放課後に観た、授業中に体験した、あの夕日の景色と同じだと言う事だ。

 だから、また同じ疑問が湧いて来る。

 あの光景には何か特別な意味が有るのだろうか、と。

 だから、またここに来てしまう。

 悠一は西の空に臨みながらそっと溜息を吐いた。いつもの放課後、いつもの外階段。色んな意味ですっかり見慣れたこの場所は、今日も変わらずひと気が無い。

(もう何回目かな)

 ここにこうやって来るのは。手摺にもたれかかりながら悠一はそう考えた。もちろん、それをいちいち数えたりはしていないが、相当な回数になる気がする。何せ、もうほとんど毎日なのだから。夢の中も含めれば本当に数え切れないほどだろう。

 だが、それだけこの階段に足を運んでも、相変わらず何も無かった。最初に見たような光景に出会う事もなかったし、手掛かりらしい物も見付からない。ただ、ここに来てこうしてしばらく景色を眺めているだけだ。

 見渡す今日の空はどんよりと暗い。こんなに雲が多いのはここに来るようになって初めてだ。おかげで太陽の姿さえどこにも見えない。昨日、一日中降った雨のせいか、空気も重く湿っていて、それがこの階段を殊更陰々と見せている。

 そんな場所だからなのかも知れない。何もないのに、悠一がこうして足繁く通うのは。陰気と言えば聞こえは悪いが、その分、閑静で押し付けがましくない。だから、普段の息の詰まるようなどんな場所に比べても、居心地が良い。

 その安らかさに悠一はそっと目を閉じた。

 その時だ。突然、背後でドアノブが捻られる音がする。

 人が来ないと思っていた悠一は完全に意表をかれ、身を固くして振り返った。直後に重い鉄の扉が鈍いきしみを立てて開く。

 顔を出したのは悠一のクラスの副担任である村中だった。彼女もまたここには人がいないと思っていたのだろう、何の気なしに出てきて来た風だ。だが、悠一と目が合って凍り付いた。

 そう、まさに凍り付いた。村中の反応はそのぐらい過剰だった。見る間に顔が青ざめ、見開いた目元が引きる。

「く、黒木クン? 何してるの、こんな所で」

 村中が震える声で呟いた。

「あ、いや、その・・・」

「ねえ!」

「別に、本当に何も・・・」

 いきなり詰め寄られて悠一は当惑するしかない。それが伝わったのだろう、村中は少し自制を取り戻して口調を鎮める。

「本当に?」

「はい。その、ただぼっとしてただけって言うか、向こう見てただけって言うか・・・」

 村中は不安気に悠一をうかがう。それでも、徐々に納得したのか軽く息をいた。恐らく、安堵あんどの息を。

「そう、それなら良いのだけれど・・・。でも、ごめんなさい、少しビックリしたものだから」

「え、ああ、ハイ・・・」

 ビックリしたのはこっちだ、と言いたいが、まあそれはどうでも良い。それより、悠一には相手の狼狽ぶりの方が気になった。

「あの、どうかしたんですか?」

「いえ、何でもないのよ」

 村中は自分の動揺を恥じらうように苦笑いして否定した。

 だが「ああ、ただ――」途中で急に表情を陰らせ「あまり、ここには近づかない方が良いと思うわ」

「は? あの、それってどう言う・・・」

 意味する所が分からず、首を傾げた。何でもない、にしては含みが有る。悠一がいぶかしんでいると、村中は心なしか慌ててそれを打ち払おうとする。

「それはほら、ここは高くて危ないし、もし事故でもあったら大変でしょ?」

 しかし、悠一は返ってそれでピンと来た。

「あの、もしかして誰かここから落ちた人でもいるんですか?」

「いえ、それは・・・・・・」

「先生」

 言葉を濁す相手に対し、今度は悠一が食い下がった。そのいつにない強硬さに村中もたじろぐ。何とかいなそうと言葉を探していたが、しまいには根負けしたように息を吐いた。恐らく、観念の息を。

「もう、ずいぶん前の話なのヨ」そう断りつつ「まだ私がこの学校に赴任ふにんしてそう何年も経たない頃ネ。その頃に、ここから転落して亡くなった子がいたのよ」

 教師は腹の前でしきりに掌を揉んでいた。表情はさほど変わらない。だが、視線はずっとその手の辺りで彷徨さまよっている。

「まあ、だからでは無いのだけれど、ここに人がいると少し不安になるのネ。それでつい、さっきは慌ててしまって」

「・・・・・・」

「とにかく、ミスタ黒木もよく気を付けて。できれば、非常時以外にここには立ち入らないようにしなさい」

 悠一に目を向けた村中は、いつもの口やかましい先生に戻ってそう釘を刺した。

 それから促されて階段を降りた。職員室に帰ると言う村中とは途中で別れ、下校するだけの悠一は一番下まで向かう。

 一人になり、自然と今の会話が反芻はんすうされる。

 外階段から転落した生徒。

 その符合ふごうが悠一の頭の中で回転していた。一つの場景が浮かび上がる。横顔を照らされながら手摺の上に立つ男子生徒。一歩踏み出し、赤い花弁と共にひらりと身体が翻る。

 それは突拍子も無い発想だ。全くリアリティは無いし、現実的な理屈も無い。だが、悠一には奇妙に確信めいたものがあった。

 転落したと言うのはあの少年かも知れない。

 当然、仮にそうだとしたら、どうして何年も前の、それも死んだ人間が現れるのだとの疑問がある。そんな事は有り得ない。だが、それが悠一の直感なのだ。だからこそ、先ほども敢えて村中に食い下がった。

 これこそ、まさに悠一が求めていた手掛かり。そんな気がする。

(手掛かりと言えば――これもそうか)

 更に、そう閃いたのは階段を降り切った時だった。すぐ正面に体育館裏が見える。そこにはうら寂し気な桜の木が立っていた。

 周辺には人の気配も無い。悠一はそれを確認しながらゆっくりと近づいた。ここはどこのクラスが掃除を担当しているのか、あまり手入れが行き届いてない。足元には落ち葉がかなり残っており、木陰の下で湿っていた。踏みしめると、少しかび臭い。

(あんまり桜っぽくないな)

 そんな感想を抱いたのは、やはり花が無いせいだろう。見上げる枝はわずかに枯れ葉が残るばかりで寒々しい。網目のように重なった細い小枝の間を、どんよりと曇り空がうごめく。

 こんな陰気な場所の、花も付けない桜とは、こんなにも桜らしくない。下手をすれば、誰も桜とは気付かないのではないだろうか。

 少なくとも、悠一自身はそうだ。この木を桜と認めるのは、あの夕日の中での花盛りを知っているからに過ぎない。今仰ぎ見ている枝とは違い、あの階段から見下ろすこの木はいつも満開だ。季節も知らぬげに目いっぱい咲き誇り、辺り一帯を染め上げるほど花弁をき散らしている。

 それは、あの景色にとって欠かせない要素に思えた。

 ならば、この木にも何か重要な意味があるのではないだろうか。そこに大きな手掛かりが有るのではないだろうか。

 悠一は根から梢までめつすがめつした。

 成人男性の二抱ふたかかえほどもある幹は、桜の持つイメージよりもかなり無骨で太い。ほぼ全面に瘡蓋かさぶたにも似た細かい横筋が有り、荒っぽくもある。その上に薄い青銅色の菌類が蔓延はびこり、地肌の灰白色や錆色と冷たくまだらを成していた。

 ふと、あの晩の感触を思い出す。

(ああ、そうだ)

 最初にあの光景を見た日、悠一は気が付けばこの木の前にいた。いつの間にか日は暮れており、闇に沈むこの木がそびえていた。あの時、悠一はどこかすがるようにこの桜の肌に触れたのだ。

 そのザラリとした手触りがよみがえる。何となく、それが無性むしょうに懐かしい。もう一度それを確かめたい。そんな誘惑に駆られる。

 悠一は知らず知らずの内に手を伸ばし――。


「その木に触れない方が良い」


 唐突に遮られる。

 悠一は思わず動きを止め、声のした方に振り返えった。

 いつからそこにいたのだろう。悠一の背後に少し距離を置いて女子生徒が佇んでいた。青いスポーツバックを肩にかけている、と言う事は同級生だろう。指定のブレザーを身に付け、小柄で線も細い。クセの有る長い黒髪からは整った色白の小顔が覗く。一見すれば人形のような容貌ようぼうをした女子だ。

 いや、と言うか、何故だろう。本当に精巧な生き人形と錯覚しそうになる。そんな無機質な雰囲気が漂っている。

「つかれたの?」

「はぃ?」

 その女子が唐突且つ意味不明に尋ねて来た。悠一は思わず頓狂とんきょうな声で応じてしまう。

「いや、えーと、疲れたって何がですか?」

 いきなり制止の声をかけ、そんな事を問う。さすがに訳が分からず、聞き返す。

 だが、その女子はそれに応えないで真直ぐ悠一を見返した。大きな瞳がじっと見据えて来る。その見透かすような視線と沈黙に耐え兼ねて、悠一は目を逸らした。

「別に、オレは疲れてなんかないんだけど・・・」

「そう」

 小声に主張すると、今度は淡泊ながら返答があった。それに内心ホッとする。丸きり自分の言葉を無視されるのは、やはり誰が相手でも気分が悪い。

「ごめんなさい」

「えっ」

「そう言うつもりじゃ無かった」

「・・・・・・?」

 涼やかで玲瓏れいろうな声だ。だが、言っている意味が分からない。口調も平板へいばん抑揚よくように欠け、普通ではない。

 何となく、悠一はこの女子生徒が人形染みて見える理由が分かった気がした。抑揚だけでなく、表情も無いのだ。先ほどから全くと言って良いほど感情が表に出ない。それがどこか病的で人間味に欠けている。

 もっと言えば、存在感さえ希薄だ。ここにいながら、ここにいないような感じがする。良く言えば儚げだが、むしろ空気に例えたくなる。

(この感じ、もしかして電波なヤツか)

 ならば、出来るだけ関わり合いになりたくない手合いだ。

 ただ、少し気になる事もあった。先ほどの女子は「その木に触れない方が良い」と言った。それには何か理由が有るのだろうか。もっと言えば、この木について何か知っているのだろうか。

 もしかすると、それは学校の怪談とかの類なのか知れない。最前の奇矯ききょうな言動を考えれば、いかにも有りそうだ。

 それでも、今の悠一はわらにもすがりたかった。何でもいいから、あの光景につながる手掛かりは欲しい。そもそも悠一は極端に情報源が少ないのだ。だから、例えどんな下らない噂であっても、聞ける時に聞いておきたい。それこそ、先ほどの村中の話のように、どこから何を閃くのか分からないのだから。

 そんな期待を込めて見やる。

「あの・・・」

「私には何も出来ない」

「え?」

 機先を制して女子生徒が口を開いた。その前に一瞬、顔を背けたように見えたが、またすぐにガラスみたいに透明な目を向けて来る。

「でも、もしあなたが本当につかれて困ってるなら、助けになれる人は知ってる」

「いや、だから疲れるって――」

「ここに行けば、きっと力になってくれる」

 悠一の発言をぶった切ったその女子生徒はカバンを探った。中から一枚の紙切れを取り出す。一緒にペンも手にして、裏に何か書き付けてから悠一に渡す。それは名刺だ。


『結城医院 医師 結城ゆうきけいすけ


 中央にはそう大きく書かれていた。端に電話番号やら住所も記してある。その所在はこの学校からもそう離れていない。だが、その専門を見てぎょっとする。

(精神科? って、オレに精神科へ行けって言いたいのかよ!)

「それはむしろお前の方だろ!」と思わず口にしそうになった。しかし、相変わらず女子生徒は顔色一つ変えていない。それで憤慨ふんがいしかけた悠一の気勢も削がれてしまう。

「これは心の問題だから」

 女子生徒はそうぽつりと呟いた。それで用は済んだとばかりに踵を返す。悠一は裏門の方に消えて行くその後姿を呆然と見送るしかない。

 現れた時と同じように突然の退散。まるで幻にでも会ったような気分だ。ただ、手の中には名刺が残っている。それだけは現実だったと主張していた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る