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最近、夜眠るとよく夢を見る。
夢の中で悠一はそれを夢だと気付いていない。いつの間にかその場所にいて、その光景に
そこで目が覚め、初めて気が付く。
ああ、またこの夢か、と。
この所、本当にそんな夜が多くなっていた。何でそんな夢を見るのか、それは分からない。ただ、明らかなのは、それが以前、放課後に観た、授業中に体験した、あの夕日の景色と同じだと言う事だ。
だから、また同じ疑問が湧いて来る。
あの光景には何か特別な意味が有るのだろうか、と。
だから、またここに来てしまう。
悠一は西の空に臨みながらそっと溜息を吐いた。いつもの放課後、いつもの外階段。色んな意味ですっかり見慣れたこの場所は、今日も変わらずひと気が無い。
(もう何回目かな)
ここにこうやって来るのは。手摺にもたれかかりながら悠一はそう考えた。もちろん、それをいちいち数えたりはしていないが、相当な回数になる気がする。何せ、もうほとんど毎日なのだから。夢の中も含めれば本当に数え切れないほどだろう。
だが、それだけこの階段に足を運んでも、相変わらず何も無かった。最初に見たような光景に出会う事もなかったし、手掛かりらしい物も見付からない。ただ、ここに来てこうしてしばらく景色を眺めているだけだ。
見渡す今日の空はどんよりと暗い。こんなに雲が多いのはここに来るようになって初めてだ。おかげで太陽の姿さえどこにも見えない。昨日、一日中降った雨のせいか、空気も重く湿っていて、それがこの階段を殊更陰々と見せている。
そんな場所だからなのかも知れない。何もないのに、悠一がこうして足繁く通うのは。陰気と言えば聞こえは悪いが、その分、閑静で押し付けがましくない。だから、普段の息の詰まるようなどんな場所に比べても、居心地が良い。
その安らかさに悠一はそっと目を閉じた。
その時だ。突然、背後でドアノブが捻られる音がする。
人が来ないと思っていた悠一は完全に意表を
顔を出したのは悠一のクラスの副担任である村中だった。彼女もまたここには人がいないと思っていたのだろう、何の気なしに出てきて来た風だ。だが、悠一と目が合って凍り付いた。
そう、まさに凍り付いた。村中の反応はそのぐらい過剰だった。見る間に顔が青ざめ、見開いた目元が引き
「く、黒木クン? 何してるの、こんな所で」
村中が震える声で呟いた。
「あ、いや、その・・・」
「ねえ!」
「別に、本当に何も・・・」
いきなり詰め寄られて悠一は当惑するしかない。それが伝わったのだろう、村中は少し自制を取り戻して口調を鎮める。
「本当に?」
「はい。その、ただぼっとしてただけって言うか、向こう見てただけって言うか・・・」
村中は不安気に悠一を
「そう、それなら良いのだけれど・・・。でも、ごめんなさい、少しビックリしたものだから」
「え、ああ、ハイ・・・」
ビックリしたのはこっちだ、と言いたいが、まあそれはどうでも良い。それより、悠一には相手の狼狽ぶりの方が気になった。
「あの、どうかしたんですか?」
「いえ、何でもないのよ」
村中は自分の動揺を恥じらうように苦笑いして否定した。
だが「ああ、ただ――」途中で急に表情を陰らせ「あまり、ここには近づかない方が良いと思うわ」
「は? あの、それってどう言う・・・」
意味する所が分からず、首を傾げた。何でもない、にしては含みが有る。悠一が
「それはほら、ここは高くて危ないし、もし事故でもあったら大変でしょ?」
しかし、悠一は返ってそれでピンと来た。
「あの、もしかして誰かここから落ちた人でもいるんですか?」
「いえ、それは・・・・・・」
「先生」
言葉を濁す相手に対し、今度は悠一が食い下がった。そのいつにない強硬さに村中もたじろぐ。何とかいなそうと言葉を探していたが、しまいには根負けしたように息を吐いた。恐らく、観念の息を。
「もう、ずいぶん前の話なのヨ」そう断りつつ「まだ私がこの学校に
教師は腹の前でしきりに掌を揉んでいた。表情はさほど変わらない。だが、視線はずっとその手の辺りで
「まあ、だからでは無いのだけれど、ここに人がいると少し不安になるのネ。それでつい、さっきは慌ててしまって」
「・・・・・・」
「とにかく、ミスタ黒木もよく気を付けて。できれば、非常時以外にここには立ち入らないようにしなさい」
悠一に目を向けた村中は、いつもの口やかましい先生に戻ってそう釘を刺した。
それから促されて階段を降りた。職員室に帰ると言う村中とは途中で別れ、下校するだけの悠一は一番下まで向かう。
一人になり、自然と今の会話が
外階段から転落した生徒。
その
それは突拍子も無い発想だ。全くリアリティは無いし、現実的な理屈も無い。だが、悠一には奇妙に確信めいたものがあった。
転落したと言うのはあの少年かも知れない。
当然、仮にそうだとしたら、どうして何年も前の、それも死んだ人間が現れるのだとの疑問がある。そんな事は有り得ない。だが、それが悠一の直感なのだ。だからこそ、先ほども敢えて村中に食い下がった。
これこそ、まさに悠一が求めていた手掛かり。そんな気がする。
(手掛かりと言えば――これもそうか)
更に、そう閃いたのは階段を降り切った時だった。すぐ正面に体育館裏が見える。そこにはうら寂し気な桜の木が立っていた。
周辺には人の気配も無い。悠一はそれを確認しながらゆっくりと近づいた。ここはどこのクラスが掃除を担当しているのか、あまり手入れが行き届いてない。足元には落ち葉がかなり残っており、木陰の下で湿っていた。踏みしめると、少しかび臭い。
(あんまり桜っぽくないな)
そんな感想を抱いたのは、やはり花が無いせいだろう。見上げる枝はわずかに枯れ葉が残るばかりで寒々しい。網目のように重なった細い小枝の間を、どんよりと曇り空が
こんな陰気な場所の、花も付けない桜とは、こんなにも桜らしくない。下手をすれば、誰も桜とは気付かないのではないだろうか。
少なくとも、悠一自身はそうだ。この木を桜と認めるのは、あの夕日の中での花盛りを知っているからに過ぎない。今仰ぎ見ている枝とは違い、あの階段から見下ろすこの木はいつも満開だ。季節も知らぬげに目いっぱい咲き誇り、辺り一帯を染め上げるほど花弁を
それは、あの景色にとって欠かせない要素に思えた。
ならば、この木にも何か重要な意味があるのではないだろうか。そこに大きな手掛かりが有るのではないだろうか。
悠一は根から梢まで
成人男性の
ふと、あの晩の感触を思い出す。
(ああ、そうだ)
最初にあの光景を見た日、悠一は気が付けばこの木の前にいた。いつの間にか日は暮れており、闇に沈むこの木がそびえていた。あの時、悠一はどこかすがるようにこの桜の肌に触れたのだ。
そのザラリとした手触りが
悠一は知らず知らずの内に手を伸ばし――。
「その木に触れない方が良い」
唐突に遮られる。
悠一は思わず動きを止め、声のした方に振り返えった。
いつからそこにいたのだろう。悠一の背後に少し距離を置いて女子生徒が佇んでいた。青いスポーツバックを肩にかけている、と言う事は同級生だろう。指定のブレザーを身に付け、小柄で線も細い。クセの有る長い黒髪からは整った色白の小顔が覗く。一見すれば人形のような
いや、と言うか、何故だろう。本当に精巧な生き人形と錯覚しそうになる。そんな無機質な雰囲気が漂っている。
「つかれたの?」
「はぃ?」
その女子が唐突且つ意味不明に尋ねて来た。悠一は思わず
「いや、えーと、疲れたって何がですか?」
いきなり制止の声をかけ、そんな事を問う。さすがに訳が分からず、聞き返す。
だが、その女子はそれに応えないで真直ぐ悠一を見返した。大きな瞳がじっと見据えて来る。その見透かすような視線と沈黙に耐え兼ねて、悠一は目を逸らした。
「別に、オレは疲れてなんかないんだけど・・・」
「そう」
小声に主張すると、今度は淡泊ながら返答があった。それに内心ホッとする。丸きり自分の言葉を無視されるのは、やはり誰が相手でも気分が悪い。
「ごめんなさい」
「えっ」
「そう言うつもりじゃ無かった」
「・・・・・・?」
涼やかで
何となく、悠一はこの女子生徒が人形染みて見える理由が分かった気がした。抑揚だけでなく、表情も無いのだ。先ほどから全くと言って良いほど感情が表に出ない。それがどこか病的で人間味に欠けている。
もっと言えば、存在感さえ希薄だ。ここにいながら、ここにいないような感じがする。良く言えば儚げだが、むしろ空気に例えたくなる。
(この感じ、もしかして電波なヤツか)
ならば、出来るだけ関わり合いになりたくない手合いだ。
ただ、少し気になる事もあった。先ほどの女子は「その木に触れない方が良い」と言った。それには何か理由が有るのだろうか。もっと言えば、この木について何か知っているのだろうか。
もしかすると、それは学校の怪談とかの類なのか知れない。最前の
それでも、今の悠一は
そんな期待を込めて見やる。
「あの・・・」
「私には何も出来ない」
「え?」
機先を制して女子生徒が口を開いた。その前に一瞬、顔を背けたように見えたが、またすぐにガラスみたいに透明な目を向けて来る。
「でも、もしあなたが本当につかれて困ってるなら、助けになれる人は知ってる」
「いや、だから疲れるって――」
「ここに行けば、きっと力になってくれる」
悠一の発言をぶった切ったその女子生徒はカバンを探った。中から一枚の紙切れを取り出す。一緒にペンも手にして、裏に何か書き付けてから悠一に渡す。それは名刺だ。
『結城医院 医師
中央にはそう大きく書かれていた。端に電話番号やら住所も記してある。その所在はこの学校からもそう離れていない。だが、その専門を見てぎょっとする。
(精神科? って、オレに精神科へ行けって言いたいのかよ!)
「それはむしろお前の方だろ!」と思わず口にしそうになった。しかし、相変わらず女子生徒は顔色一つ変えていない。それで
「これは心の問題だから」
女子生徒はそうぽつりと呟いた。それで用は済んだとばかりに踵を返す。悠一は裏門の方に消えて行くその後姿を呆然と見送るしかない。
現れた時と同じように突然の退散。まるで幻にでも会ったような気分だ。ただ、手の中には名刺が残っている。それだけは現実だったと主張していた。
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