○



 昇降口を一歩出ると、外の舗装面はまだわずかに濡れていた。詩緒里はローファーを汚さないようそっと歩き出し、いつもながら人通りを避けて裏門に向かう。

 空は鈍色にびいろだ。昨日は久しぶりに雨になり、一日中降り続いて今朝方に止んだ。置き土産のような厚い雲は夕方が近くなった今も残っている。そのせいか湿度が高く、空気はしっとりと重い。

「まあ、毎日晴れてばかりよりは良いかな」

 そう言ったのは朝食時の義姉あねだ。

「何でだ?」

 兄が不思議そうに問うと、しかつめらしく頷き返す。

「晴れてばっかりだと乾燥するもの。乾燥は肌に悪いでしょ」

 そうして、詩緒里に向かって「ねえ」と同意を求めてきた。正直、よく判らなかったので首を傾げると、義姉は大いに嘆息した。

「かけまくもかしこきティーンエイジャーである詩緒里ちゃんには、わかんない悩みかなぁ」

 そう意味不明にぼやき、何故か詩緒里の頬をつついて来る。しかも「ぷにぷに」などと安直な擬音を口にしながら。

 それをかわそうとすると、今度は抱きすくめて頬ずりまでしてきた。義姉には何故か詩緒里に無闇と抱き付こうとする困った性癖がある。結局、詩緒里が解放されるには、兄が呆れ加減に「お前ら早く飯食わないと遅刻するぞ」とたしなめるまで待たなくてはならなかった。

 まったく、義姉のこうした行動はいつもながら不可解だ。

 もっとも、今朝に関しては、それなりに意図を持っていたらしい。それはつまり、詩緒里を元気付けようとしたのだ。

 校舎の角を曲がって裏門の方へと向かう。道筋に有る武道場からは気合の声が聞こえていた。そこに竹刀しないのかち合う音が重なる。あるいは、すぐ傍の体育館からも威勢の良い掛け声が響いていたし、校舎のどこかでは何かの金管楽器が低く空気を震わせていた。いつも通り、放課後の校内は賑やかだ。詩緒里は校舎に沿って進んで行く。

 詩緒里にその自覚は無い。だが、義姉によれば最近元気が無いらしかった。いつもより表情が暗いのだと言う。

 もともと詩緒里は表情に乏しい性質だ。ともすれば普段から陰気と思われがちで、だから義姉の主張には疑問が有る。

 しかし、それでも思い返せば、確かにこの所少し気がそぞろになりがちかも知れない。ふとした瞬間、ぼんやりしたり、集中力が切れたりする事が増えている。

 今日、部活を早々に切り上げたのもそのせいだ。先ほどまで美術部で絵を描いていたのだが、何故か全く筆が進まなかった。それで活動が始まって間もないにも関わらず、既に美術室を後にしたのだ。そうした態度を元気が無いと見るならそうなのかも知れない。

 ならば、その原因は何なのか。それには多少、思い当たる節も有る。

 丁度、ここだった。詩緒里は今まさに通りかかった体育館裏で足を止めた。そこには狭い余剰地に寂れた桜の木が一本だけ立っている。

 何日か前、詩緒里はここでとある気配に出会った。それは今にも消えそうな儚い気配で、詩緒里に救いを求めて息を吹き返してきた。しかし、成すすべの無かった詩緒里はそれを見捨てたのだ。

 その数日後、詩緒里は再びそれに似たような気配を見付ける。それもこの場所ではなく、校舎の廊下で。それは想定外の出来事だった。

 以来、何かが詩緒里の心に引っ掛かっている。最近たまにぼんやりしてしまうのは、不意にそれが心に浮かぶからだった。

 そう説明した時、義姉は衝撃を受けて固まり、真顔で呟いた。

「詩緒里ちゃん、それ恋よ」

 いや、それは無い。

 朝のそんなやり取りを思い出しつつ桜の木を見やり、詩緒里は今更ながら気が付いた。こんな場所に人がいる。やや細身で中背の男子生徒がこちらに背を向けて木を見上げている。

(まさか――)

 その姿を見た瞬間、詩緒里の中で閃く物があった。しかし、その思い付きは容易には形を取らず、掴み所の無いイメージとしてわだかまる。定まらない思考が詩緒里を不安にさせる。

(不安?)

 あまりにも意外なその感覚に詩緒里は動揺した。それでも、男子生徒から目が離せない。

 見つめるその視線にも気付かず、男子生徒はじっと木をあおいでいる。その姿はどこか思い詰めている風でさえあった。

(あの木――あの桜に惹かれている)

 詩緒里にはそれがわかった。

 その時、男子生徒が動いた。だらりと下げていた手を樹皮に向けて伸ばす。手掛かりを求めて、答えを求めて。

 だがそれは――。

 思わず、詩緒里は声を出していた。

「その木に触れない方が良い」

  



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る