6



 それから数日が過ぎた放課後、悠一は教室棟北の外階段にいた。最上階の手摺に頬杖を突き、ぼんやりと西に開けた空を見る。

(ほんと、ひと気の無い場所だな)

 改めて、そう思った。もともとこの階段は一旦屋外に出なければならないので使用される頻度が低い。尚且つ、教室棟の最上階は物置化した空き教室が大半なため、生徒はほとんど用がない。人が来ないのももっともだ。

 管理棟の向こうのグラウンドでは幾つも大声が上がっていた。隣の体育館からはボールを突き靴底の擦れる音が聞こえ、校外からも騒音が届く。だが、それらはこの階段に無関係で、余所余所よそよそしく遠退いて行く。

 それがやけに森閑しんかんと感じられて、大袈裟おおげさに言えば異空間のようでもある。

(空が高い・・・)

 そう思えたのは雲の薄いせいなのだろう。その綿毛のような白は軽々と天を滑る。同時に、周りを青く、抜けるように見せる。

 悠一は手を伸ばし、スマートフォンをかざした。画面の中を千切れ雲が悠々と過る。パネルをタッチすると、シャッター音が一瞬を切り取った。何の変哲もない空が画面に残り、それでも、その清廉な青と気まぐれな白に満足してデータを保存する。

 写真を撮るのは悠一の趣味だ。と言って、技術に興味は無いし、まともなカメラも持っていない。あくまで気が向いた時にスマホで気軽に撮る。それが好きだった。

 だから、被写体もたまたま目に付く物が多い。この前のような猫だとか、カラスや街路樹、そんな物に不思議と心を惹かれてカメラを向ける。この場所もまた、悠一をそんな気分に誘う雰囲気が有った。

 だが、今日この階段に来たのは、別に写真を撮るためではない。

 スマホをポケットにしまってから、悠一はまたしばらく西の空をじっと見つめた。まだ日が沈む時刻でもなく、柔らかな陽光が街並みに降り注いでいる。屋根や窓が反射で白々と輝いて見えた。

 けれど、どれだけ眺めた所で他に何がある訳でもない。そんな事は最初から分かっていたが、それでも悠一は半ば落胆した。体を反転して手摺に背を預け、空を仰ぎながら嘆息する。

(収穫なし――かな・・・)

 内心、期待していたのだ。ここに来れば何か分かるのではないかと。

 それはもちろん、あの夕日の光景について。

 先日の授業中の一件もあって、悠一は更に気になっていた。あの夕景は何なのか。何故、授業中に再びあんな体験をしたのか。

 ただの幻覚、あるいは白昼夢なのだろうか。普通ならそう考えるしかない。だが、悠一には何故かそう割り切れなかった。

 そんな腑に落ちない煩悶の中、ひょいと思い至ったのがこの階段だ。

 結局、最初にあの夕日を見たのはこの場所だった。更に、二度目もいつの間にかここの景色の中にいた。ならば、ここにこそ意味があるのではないか。

 その思い付きが悠一に足を向けさせたのだ。

 だから、実を言えば、またここに来るとあの景色を見るのではないかぐらいには思っていた。それを半ば恐れさえしていた。

 だが――実際には何もない。少し校内でも特殊な空気感が有る程度で、何が起こる訳でもなく、平凡な街並みと平凡な空が見えるだけ。それは当然と言えば当然なのだが、変に身構えていた分、拍子抜けも良い所だ。

 それが何となく悔しくて、未練がましく待ち続けてみる。しかし、幾つ雲を数えてみても、空は暢気のんきに青いままで平穏そのものだ。

 さすがに首が疲れてきて、悠一は再び溜息を吐いた。傍らに置いていたスポーツバッグをのっそりと担ぐ。

(ま、いいや。今日はもう帰えろ・・・)

 諦め気分で階段を降り切って正門に向かう。

 その道すがらだ。体育館の脇を通った所でふと足を止める。換気をしているのか、側面に三つある大きい鉄扉てつとびらが開いており中が見えていた。

 もしやと思って近付くと、カーテン状のネットの向こうにいたのはやはりバスケットボール部員だった。特に、悠一がいる扉の付近のコート一面分は女子部員が使っている。

 ただ、今は休憩中なのか大半の部員がコートの外だ。雰囲気も和やかで、水分補給をしたり、タオルで汗を拭いたりしながら雑談をしている。唯一、悠一と反対側のコート半面を使う四人組だけが、バスケらしく二対二での勝負をしていた。

 その内の一人が菜穂だった。

 ハーフパンツにナイキの黒いTシャツ、その上にビブス姿で、どうやら今は攻撃側らしい。ゴールから少し離れた右手前で味方からパスを受け、マークに来た守備側の一人を背負ってブロックしていた。

 菜穂は片足を軸に左右に揺れながら牽制する。だが相手もしつこく寄せていた。背は菜穂の方が高いようだが、攻め手を止められている。

 そこへ、もう一人のビブスが素早く近づいて来た。菜穂の外側を回るようにゴールに向かって左手から走り込む。守備側のもう一人がマークに付いていたが一歩遅れている。

 味方とほとんど接触するような距離になった瞬間、菜穂がボールを差し出した。味方も手を伸ばすと、そのまま右側へと抜けて行く。菜穂に付いていたマークが慌てて動いた。ボールを受け取った選手を、もう一人と一緒に挟むつもりだ。

 だが、そこにボールは無い。

 靴底の擦れる高い音が響いた。マークの外れた菜穂がボールを手に中央へターンしている。フェイントだったのだ。

 そのままドリブルで大股にゴール下へ向かう。ディフェンダーは再度慌てて追いすがるが間に合わない。菜穂は澱みなくジャンプして、リングに置くようにボールを投げた。鉄の輪を叩く鈍い音、次いですぐにネットが軽やかに鳴る。

 ゴール。

 菜穂は味方とハイタッチをかわして喜んだ。決められた側も、悔し気ながら笑って称えたようだ。そうして、すぐに攻守が入れ替わってプレーが再開する。

(すごいなぁ)

 バスケの良し悪しはほとんど分からないが、純粋に鮮やかだと悠一は思った。まさに阿吽あうんの呼吸。お互いに一瞬で意思疎通し、無駄のない動きだ。

 菜穂個人のらしさも目立った。手足の長さを活かしながら、伸びやかに動いている。パスやドリブルでのミスも少なくないが、すぐ切り替える辺りにさばけた性格がよく出ていた。

 こう言う菜穂を見たのはいったいいつぶりだろう。やはり、バスケをする菜穂は活き活きしている。いかにも楽しそうで、見ている悠一まで嬉しくなった。見る目も自然と柔らかくなる。

 だが、その眼前が急に遮られた。

 気付けば、正面に二人の女子生徒が立っていた。それぞれ浅緑と山吹色のTシャツに下はハーフパンツで、恐らくバスケ部員なのだろう。二人はネットを潜って顔を突き出した。体育館の床は外より数段高い分、悠一を見下ろす形になる。

「ねえ、あんた」

 緑シャツが口を開いた。声にどこか険が有る。その雰囲気に悠一は身を固くした。

「さっきから見てるけど何か用なの?」

「え、あの・・・」

「見学?」言い淀んだ悠一に山吹シャツが被せ気味で聞いて来る「見学なら、男子は向こうなんだけど」

 その言い方には緑シャツ以上の棘がある。声音も警戒を通り越して攻撃的だ。

 気圧された悠一の声は縮んで震えた。

「別に、そう言う訳じゃ・・・・・・」

「じゃあ何? 用があるなら言いな」

「どうなの」

「・・・・・・」

「何? 言えないの」

 上から口々に言われて、悠一は言葉に詰まった。頬が熱い。頭の奥も物を詰めたように重たかった。(何? 何って・・・何?)そんな疑問が空回りし始める。そこから先に思考が進まない。

 近くにいた他の部員の注目も集まりだしていた。トラブルの気配に皆、警戒している。

「早く言いなよ」

「早くしろってんでしょ」

 完全に押し黙った悠一に山吹シャツの声が昂ぶった。それから一転、低く蔑んだ調子になる。

「あんた何かやましいコトでもあんの?」

「あ、ノゾキとか? ニヤニヤ見てたしさ」

「マジ? 超キモイんだけど」

「違う!」そう叫びたかった。だが、声が出ない。悠一はただ顔を赤らめ、否定に頭を振るばかりだ。

 それを見てもいないのか、緑と山吹は勝手な推測を勝手に確信していた。互いに「キモイ」と「ヤバイ」を繰り返し、軽蔑と嫌悪に歪んだ瞳を向けた。

 その暗い眼光が悠一の脳裡のうりを突き刺す。

 瞬間、四方に無数の視線が有った。

 男子も、女子も、悠一を見ている。その視線は一様に濁っていた。疑惑と不審と非難と侮蔑ぶべつ憐憫れんびんと拒絶とが、混じり合って鈍く淀んでいた。

 彼らの声が聞こえる。「やっぱやったんだ」「マジキモイ」「ヤバイ」「サイテー」「ノゾキだって」「いかにもって感じじゃん」「早く自白しろよ・・・・・・・」それは本当に空気を震わせた声なのか、それとも視線がそう錯覚させただけなのか。とにかく、そんな言葉が聞こえる気がした。

 悠一はその真ん中で叫ぶ。

「違う、違う、違う!」

 だが、やはり声にはならない。ただおこりのように震えるしかない。その周りを幾つもの瞳が回りながらさいなんだ。

 息苦しい。腹の底が冷える。胃が広がり、喉の奥からたまらなく不吉な何かが競り上ろうとしていた。

「あの、先輩!」

 その聞き覚えのある声で、悠一は我に返った。

 見れば、緑と山吹の後ろに菜穂がいた。困惑した様子で戸口の三人を見ている。緑シャツが振り返ってその姿を認めた。

「ああ、菜穂。何?」

「あ、いや。ちょっと様子が見えたんで。あの、ユッチがどうかしたんスか?」

「何? 菜穂、こいつアンタの知り合い?」

「そうッス。友達です」

「じゃあ、あんた菜穂に用があんの?」

「あの、それは・・・」

 別にそうではない。だから、悠一は水を向けて来た緑シャツへの返答に迷った。だが、相手は先に自分で結論してしまう。

「なら初めからそう言いな。ヨケーな手間かけさせないでよ」

「すいませんした」

 とりあえず頭を下げたのは菜穂だ。悠一は黙って俯く。二人のバスケ部員は多少不愉快気に悠一を見たが、それだけで離れて行った。

 それを見送り、少し間が空く。菜穂は気を取り直したように笑いかけた。

「ユッチ、どうしたの。何か用だった?」

「・・・ごめん、何か迷惑かけて」

「え、全然大丈夫だって。気にしないでよ」

 ちょっと驚いた風にそう答えた菜穂は、本当に何とも思っていないのかも知れない。だが、悠一はやはり少し申し訳なかった。

「別に用とかでも無くて。ただ、ちょっと中が見えて、今井さんもいるかと思ったから」

「ああ、そうだったんだ」菜穂は納得顔をしながら「今休憩中だったから、向こうで先輩とツー・オン・ツーしてた」親指を立てて背後のコートの方を指して見せる。

「うん。ちょっと見てた。やっぱ今井さん上手いね」

「え、そうでもないって。ミスばっかだし」

 照れて謙遜する菜穂に悠一は頭を振る。

「そんな事無いじゃん。さっきのあの、交錯しながら連携してたのとかもスゴかったし」

「ああ、アレ」表情が明るくなる「あれは確かにイイカンジ。あの先輩とは相性良いから、イメージ合うんだよね」

「へえ、そうなんだ」

 少し誇らしげな菜穂に、悠一も思わず口元が綻ぶ。こう言う裏表を見せない菜穂のキャラクターが、少なからず悠一を救ってくれる。

「菜穂、休憩終わるよ!」

 コートの真ん中辺りからそう声がかかった。女子の一人が手を振っている。見れば、他の部員達も集まりだしたようだ。菜穂は手を振り返してそれに応える。

「じゃあユッチ、あたし行くから」

「うん。頑張って」

「また見に来てよ」

「うん」

「じゃあ」

 仲間に合流する菜穂を見送って悠一もそそくさとその場を離れた。

 体育館から遠ざかり、徐々に菜穂との会話の余韻も霞んでくる。するとその裏に潜んでいたわだかまりが鎌首をもたげていた。

 わだかまりは目を持っている。その視線が悠一に軽蔑と嫌悪を投げかけていた。そうして、「何? 言えないの」と何度も責める。

 その度に、悠一は後頭部の辺りを強く掻いた。何とか、そのイメージを剥ぎ取りたい。そんな気分で。



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