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ドリーネ、ウバーレ、ポリエ。鍾乳洞にタワーカルスト。背の高い男性教諭が黒板にカルスト地形の分類を書き連ねる。続けてその特徴を几帳面に板書した。
悠一はそれをノートに写し終えた後、指先でペンをくるりと回転させた。教壇では中年の地理教師が低い声で淡々と説明を始める。
(ちょっと念仏みたい)
密かにそんな感想を抱いていると、近くで誰かがふわりと欠伸をした。どうやら、この声が眠気を誘ったらしい。
教室にはどこか弛緩した空気が漂っていた。特に後ろ側の席を中心に、教科書の陰で何やら内職をしている者、気の無い顔で窓の外を見る者、中にはあからさまに船を漕いでいる者もいる。窓際後方の悠一の席からは、それが手に取るように分かった。
昼休みと掃除が終わり、午後最初の授業だ。窓からは穏やかな日差しが入り込み、室内を程よく
もちろん、真面目に耳を傾けている者もいないではない。悠一もどちらかと言えばまともに取り組んでいる方だろう。板書は欠かさずに写しているし、なるべく解説にも注意を傾けている。とは言え、やはりクラスに充満する倦怠は少なからず伝染する物だ。ともすると、心が明後日の方へと向きがちになる。
そんな時、防ぎようもなく去来する心象が有った。それはあの不思議な夕日の一刻だ。
(あれ、何だったのかな)
ぼんやりとあの風景を思い浮かべながら考える。
あれから数日が過ぎていた。あの後、何とか両親よりも先に帰宅した悠一は特に不審がられもせずに日常に戻れた。そうして、なるべく何事も無かったかのように、普段通りに過ごそうとして来た。しかし、それでも今のように気が緩むとふと頭に思い浮かぶのだ。
あの奇跡的な赤の世界が。
あの夕日の中では全てが溶け合い、一つになっていた。悠一が望んでいた通り、何も取り残されず、何も仲間外れにならずに。曖昧に輪郭を失って、安穏とした熱量だけが有った。その中で、悠一とあの少年はお互いを分かち合っていた。
(あの男子――アイツも、いったい何者なんだ?)
少年はブレザーを着ていた。あれは悠一達の学校が指定している制服だ。となれば、この学校の生徒に違いない。そう思って、悠一はそれとなく校内を探しているのだが、未だに見付けられずにいた。
あるいは、探し方も悪いのかも知れない。交友関係の極端に狭い悠一にはほとんど情報源が無い。そのため、見付ける手段は廊下や全校集会で辺りを観察するぐらいしか出来ない。それで全校生の中から一人を探すのだ。どうしても限界がある。
(なんか他に手がかりは・・・)
そうやって思考を巡らせる内に、ふと閃いたのは校章の色だ。
悠一達の学校では入学年毎に通学用のスポーツバッグや上履き、校章の色が違う。一昨年なら緑、昨年は黒、今年は青と言った具合だ。それで、来年入学する生徒は恐らくまた緑を使う。
それに当てはめてみるとどうだろう。
あの時、少年はスポーツバックを持っていなかったし、靴も外履きだった。だが、生真面目な身なりで、校章は付けていた気がする。あまり意識していなかったのでうろ覚えだが、その色は確か――。
「黒――」
そう、黒だったのではないか。
「黒木!」
突然、きつく自分の名が呼ばれて悠一は身を竦ませた。
恐る恐る顔を上げると、教壇に立つ教師が不機嫌顔でこちらを睨んでいる。手には教卓に置いてあったアルミ製の指示棒が握られていて、それが何度も卓を打って小刻みに音を立てる。
「黒木、聞いてないのか。さっきから、当てているだろうが」
「え、あ、はい。えっと」
「断層につて、最近話題になった事を何でも良いから答えなさい」
「えっと、それは・・・・・・」
どうやら悠一が物思いに耽る間に、授業はカルスト地形から次の項目に移っていたらしい。悠一は狼狽えながら慌てて教科書をめくる。
その時、教師は指示棒で激しく教卓を叩いた。大きな音が教室中に響く。寝ていた生徒もさすがに顔を上げる。悠一も動きを止め、小さくなった。
「黒木、ちょっと立て」
「・・・・・・」
言われるままに立つしかない。それでも、なるべく体を縮めて顔を伏せ、逃れようとする。
「お前は僕の話を聞く気があるのか?」
「その・・・」
「僕は、最近話題になった事は無かったかと聞いたんだ。それで、何で教科書を見る必要が有る。あ? 教科書にニュースが書いて有るか」
「・・・・・・スミマセン」
「謝らんでもいい。やる気が有るのかと言ってるんだ」
「・・・・・・スミマセン」
教師は更に渋面を濃くした。指示棒で教卓を叩く音が細かく響く。
この地理教師は今までほとんど声を荒らげた事が無い。普段は無関心なのかと思うほど落ち着き払った態度だけに、初めて見せる苛立ちの気色には恐ろしさが有った。登山家のような引き締まった体つきと、そこから発する重い声音も拍車をかける。
気圧された悠一は委縮するばかりだ。
そんな状況を大方のクラスメートは傍観していた。多少は気の毒そうな目もあるが、所詮は他人事だった。中には同級生が怒られる姿を半ば面白がる者さえいる。実際、ある女子生徒が隣の席と何か言い合って笑った気配が有った。
それを教壇に立つ男は見逃さなかった。
「おい、何がおかしい」
笑った女子生徒を鋭く睨み付ける。いきなり矛先が向いて、今度はその生徒達が縮み上がって目を逸らす。
「一つ言っとくが、黒木だけじゃないぞ。お前ら全員、本当にやる気があるのか!」
もう一度、教師は指示棒で机を激しく叩きつけた。野太い声が響き、教室の静寂の中に緊張が走る。その後を追って、教師は全生徒を不愉快そうに
「僕が気付いてないと思ったのか。おいそこ、今は英語の時間じゃない。片付けろ」
その指摘で、教室の隅にいた女子生徒が俯いた。神妙に、無表情を装って、教科書の陰に隠していたプリントを机にしまう。そうして、居住まいを正した。
「お前は頬杖をつくな」
やや前目の席で机にもたれかかっていた男子生徒が気怠そうに体を起こす。ポケットに手を突っ込んだままながら、最低限の居住まいを正した。
それを機に、授業から心の離れていた他の者もこっそりと居住まいを正す。
もはや叱責は悠一を離れ、クラス全体に飛び火していた。教師は生徒達の不真面目な学習態度をなじり、礼儀の無さに怒りを呈する。入学から半年以上が立ち、授業以外でも気が緩んでいる例を挙げ、いずれ本格化する受験に対する不安を煽る。
午後の緩い空気は完全に吹き飛んでいた。生徒達の間には気まずさと、この苦行に対する不満が渦巻く。
悠一は一人立たされたままだった。他の生徒が顔を俯け、何とか怒りの直撃を逃れようとする中で、唯一どこにも逃げ場がない。
それがはけ口としての標的にもなった。何人かのクラスメートが非難の視線をぶつけて来る。この災禍の原因を悠一ただ一人に求めるような、恨みがましい目付きだ。
(何でだよ)
顔の、頬の辺りが無性に熱い。なのに、掌に滲む汗はいやに冷たかった。
(何でオレだけがそんな目で・・・)
確かに、最初に火を点けたのは悠一の不注意だ。それはマズかった。だが、それまで悠一はきちんと授業に参加していたのだ。少なくとも、大半の生徒よりは真面目に。決定的に油を注いだのは、それ以上に不遜な学習態度の生徒が多かったからだ。にもかかわらず、どうして悠一ばかりを責められるのか。
もちろん、それが独りよがりの自己弁護でしかないのは自認している。だが、彼らの視線を、悠一はどうしても理不尽に感じてしまう。
(あの時と同じだ。この目はあの時と同じだ)
幾つもの蔑みの目が、悠一の頭の中でぐるぐると回る。
息苦しかった。胃の奥から何かが逆流して、気道を塞いでしまったのではないかと思うほど、息苦しかった。頬の熱は額を突き抜け、頭頂まで達しようとしている。
目の前が真っ赤になる。
真っ赤な――真っ赤な影が一片舞った。
それに気付いて、悠一はハッと息を飲んだ。寸前の辛苦も忘れ、その色に見入る。
どこから、と思う間もなくその影は一枚、二枚と落ちた。怒る教師の前や悄然とする生徒の間を、場違いなほど優雅に、ゆっくりと翻る。だが、誰もそれを気に留めない。ほどなく、それは数え切れないほどになった。無数の赤い影が散り乱れ、次第に人の姿も教室の風景も掻き消して行く。
それは紛れもなく、あの時と同じ花弁だ。赤い、桜の花弁。
空間はその桜吹雪に満たされ、彩られ、塗り込められる。全てが一つの色にかき消され、視界が全く利かなくなった。
その花模様が一旦晴れた時、いつの間にか悠一は階段にいた。
あの校舎の北端にある外階段の途中だ。そこはあの時と同じように赤かった。強い西日に晒され、
最上階にあの少年がいた。
あの時と同じで一心に西の空を見ている。だが、少しだけ振り返り、悠一の方を見た。その目が穏やかに呼びかける。
誘われるまま、少年の隣に並ぶ。そこから見える落日は、やはり複雑に赤い。その色に、不思議なほど心が落ち着き、一方で衝動も湧き上がる。
少年はまたも躊躇いなく手摺の上に飛び乗った。悠一も一緒になって続く。一層近づき、燃え立つ夕日に期待が高まる。その二人の周囲を乱れ散る花弁の嵐が吹き抜けた。
(一つに――ただ一つに)
同じ思いで二人は飛び出していた。花弁と共に体が宙で踊る。夕日の中へと落ちて行く。
ぐるぐると回っていた。ぐるぐると溶け合いながら、何もかもがぐるぐると――。
「おい、黒木! 黒木!」
再び、教師の声が響いた。やけに近くで、強い口調が悠一の名を呼ぶ。だが、そこに叱責の調子はない。むしろ、狼狽と不安が有る。
悠一はゆっくりと目を開いた。
床が見えた。それと生徒の物とは違うズボンの裾だ。眼鏡がどこかに行ったのか、歪んで見える。
あの階段ではない。教室だ。だがひどく騒がしい。悠一は働かない頭のまま、緩慢に首を廻らせた。天井が見え、蛍光灯が浅く照らし、教師の焦りと心配を帯びた顔が間近に有る。
「気が付いたのか? 大丈夫か?」
どうやら悠一は倒れているらしい。机の位置が乱れて椅子も横倒しになっている。その傍で、地理教師が姿勢を屈めて覗き込んでいた。周囲に近くの席の生徒が集まり、さすがに動揺の色が滲む。
どこか他人事のようにそれらを確認すると、少し探してすぐ傍に眼鏡を見付ける。どうやらレンズは無事なようだ。それをかけ直して、悠一はようやく立ち上がった。
「おい、大丈夫か?」
教師も一緒に腰を伸ばし、何度目かの質問を繰り返す。それでも悠一の意識が戻ったからか、最前よりは幾ばくか安堵の気配も漂う。
それに、悠一は無言で頷いて応えた。
「何だ、黒木、調子でも悪かったのか?」
「え、いや――はい」
惰性でとりあえず肯定してしまう。
正直、悠一はまだ混乱していた。自分の状況を上手く掴めない。ただ、少し前までの気分の悪さは既に無くなっていた。今は、どこか雲の上を歩くような心地だ。
その外見上落ち着き払って見えた悠一の同意に、地理の教諭は顔をしかめた。
「何だ、それならそうと早く言いなさい。そうしたら僕だって、怒ったりしない」
「・・・・・・スミマセン」
それはそれで理不尽な叱責に思えた。だが、正論には違いないので、悠一はただ頭を垂れて目を逸らした。
「とにかく、君は一旦保健室に行きなさい。ええっと、このクラスの保健委員は・・・」
「あ、いえ、一人で、行けます」
「そうか? 大丈夫か?」
「・・・はい」
これ以上誰かに迷惑をかけたくは無い。それに、今は他人と一緒にいたい気分でも無かった。弱々しい同意の声に教師は多少の
取り囲んでいた生徒の間を縫い、悠一は教室の戸口に向かった。心配と好奇と、憐みの混じった視線が幾つも追いかけて来る。それが何とも言えず気持ち悪かった。消えたと思っていたムカつきがぶり返してくる。
悠一は廊下に出るとトイレに向かった。そこで三度ほど吐いた。
昼食を抜いた吐瀉物は胃液ばかりだった。
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