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「あー、次化学かぁ」
詩緒里の近くで、クラスメートの女子がそんな風にぼやいた。午前中、三つの目の授業が終わった直後だ。
ここ数日続いていた季節外れの暑さも収まり、小春日和の形容に相応しい緩い空気が満ちている。そんな教室で、女子生徒はいかにもだるそうに机に向かってへたり込んでいた。その様子を見ていた別の女子生徒が親しげに笑う。
「何、あんた化学嫌いだったんだ?」
「んー、だってモル濃度とかワケ分かんないじゃん」
「まあねぇ、私もあれ苦手」
「それにおサトもね~」
おサト、と言うのは科学を担当している佐藤教諭の事だ。三十代の女性教師だが、何故か多くの女子に人気が無い。その理由を詩緒里はよく知らかなったし、特に知りたいとも思わなかった。
「移動教室も面倒臭いし。あ~サイアク。マジ三重苦じゃん」
「まあまあ。それこそ移動だから、さっさと準備しないと遅れるよ」
「はぁ」
大袈裟に溜息を吐く女子生徒に対し、もう一人は宥めながら準備を促している。そうしてみると、取り成している方は口で言うほど化学が苦手ではないのかも知れない。嫌がる女子生徒に同調して見せたのは単なる謙遜、と同時に、対立しないための誤魔化しなのだろう。どちらかと言えば、彼女からは化学と言う課目に対する嫌悪より、むしろ興趣の気配が――。
そこまで察しかけて、詩緒里は務めてその二人から意識を逸らした。結ばれていた焦点がぼやけ、二人の存在も周囲と同じその他大勢になる。そうなってしまうと、周りにいる全ての人が舞台背景のような物だった。
それらを捨て置き、詩緒里は準備を終える。化学の教材とノートを抱えて教室を出る。
廊下には教室間を移動する生徒達が入り乱れていた。授業と授業の合間、短い休みだが、それでも出来る限り息を抜きたいのだろう。そこかしこで生徒達が起こす波紋は、授業中よりも心なしか大きい。
だが、それも背景と思えば同じ事だ。詩緒里は生徒達の間を通り抜けて化学教室へと向かった。一つ一つに焦点を当てず、距離を取って全体の総和として捉える。それは詩緒里に必要な処世術だ。身を守るためには必要な手段だし、また人として最低限のモラルでも有る。先ほどのように、たまたま耳にした会話から、誰かの事を深く知り過ぎてしまうのはいけない。それはルール違反だと思う。
こうして焦点をぼやかす術を、詩緒里はここ数年で培ってきた。それなりの経験も積み、いっそ一種の技術と称しても構わない。相当に異質な存在感でもなければ、この技術は狂わな――。
そう思った矢先、その異質を見付けた。
詩緒里にしては珍しく、思わずと言った風に振り返る。その先には廊下を歩く生徒達が何人もいた。
一瞬、ほんの一瞬だが、あの中の異質がいた。他の者とは明らかに違う、気配を持った誰か。
果たして誰だったのか。その異質はもうどこかに消えてしまっていた。
多分、それはすれ違った時だったのだ。ほんの一瞬、その人物との距離が近くなり、それで詩緒里の感覚に引っかかった。恐らく、異質ではあっても、発している気配自体は弱い。だから、すぐ分からなくなる。
その人物は敢えて隠しているのだろうか。それとも、その自覚すらないのか。
すれ違ったのなら、化学教室の方から来たのだろう。先ほどから詩緒里達のクラスと入れ替わりに生徒が出て来ている。どうやら、一つ前は同じ学年で別クラスの授業だったようだ。
もう一度振り返り、その人物が去った方向を見やる。だが、結局その正体が誰であるかは分からなかった。
ただ、一つだけ気付いた事もある。この気配は初めてではない。この気配には既に一度出会っている。
だが、しかし、そんなはずは――。
詩緒里の脳裡には、数日前の夕日が過っていた。
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