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悠一がそれに気付いたのは、家に帰ってかなりの時間が経ってからだった。
部活や委員会に入っておらず、塾にも通っていない悠一は、いつも授業が終わると早々に帰路に着く。この日も、そうして戻った自宅で宿題の一部を片付け、気分転換にさて本でも読もうかと考えていた。その時、そう言えば、また母からメールが来ているかも知れない、そう思って確認しようとしたのだ。
しかし、どこにも無い。制服のポケットにも無い。カバンにも無い。リビングや部屋も探してみたがやはり見付からない。
それでスマホを忘れてきたのに気が付いた。
いったいどこに、と記憶をたどって思い当たったのは教室の机の中だった。あの時だ。あの昼休みに話かけられた時、あれで思わず机に突っ込んでしまったのだ。
それから清掃があり、午後には移動教室もあった。その間にすっかり頭の中から零れ落ちていた。忘れたまま教科書の出し入れもしたし、奥に押し込んでしまったのだろう。一応、帰る時に机の中は一通り攫ったものの、充分に確認したとは言い難い。
改めて、あの時のクラスメートに対する反応が悔やまれた。
ともかく、面倒な事になった。学校まで取りに行くべきだろうか。さほど遠くない距離なのだからそれは充分に可能だ。今ならまだ学校が完全に閉まる前に間に合うだろう。
ただ、一旦下校した学校に戻るのはどこか心理的抵抗もあった。加えて、悠一にとってスマホは必須の物でもない。無ければ無かったで、何とかなるだろう。わざわざ労力を割くほどの価値は無いと言えば無いかも知れない。
それでも、多少気になるとすれば両親からの連絡だった。何か急な予定が入っている可能性は有る。あるいは、他からのメールや電話も全く無い訳ではない。一応、緊急連絡網もあの端末に回ってくる。
悠一は幾つかの条件を天秤にかけて懊悩した後、やはり取りに行く事に決めた。もし、これで大切な連絡や親以外からメールでも入っていたら嫌だと思ったのだ。いや、こんな時に限って入っている。もしかしたら、今まさに届いているかも知れない。一度そんな疑心に駆られるといても立ってもいられなかった。
着替えていた部屋着から再び制服に袖を通し、家を出る。
そうして学校に辿り着いたのは最終下校時刻になる間際だった。太陽の角度もずいぶん浅くなり、雲の少ない空は徐々に
正門付近の幹道には学校から吐き出される生徒が大勢いた。その流れに逆らうのは極まりが悪いので、悠一は裏門を目指す。こちらは住宅街の細い路地で、さすがに数人とはすれ違ったものの、さほど目立つ事も無く学校の敷地北西にある小さな門に辿り着いた。
そこから校内に入ると、丁度スピーカーが唸って甲高く鐘の音が響いた。それを契機にクラシック音楽が流れ始め、放送部員の録音と思しき声が完全下校を促して行く。確か、このピアノは『別れの曲』と言うタイトルだったか。
門を入るとすぐに倉庫があり、そこを過ぎると教室棟の北端近くだった。校舎の西向かいに少し離れて体育館が見えた。バスケ部は今日もそこで練習していたはずだが、既に人の気配は無い。菜穂はもう帰ったのだろうか。
少し気になりつつも、悠一は目的を思い出して校舎に近づいた。しかし、南にある生徒玄関には回らず、建物の北端に設けられた外階段に向かう。そこは普段から教室棟の昇り降りにも利用されている、非常用を兼ねた階段だ。コンクリート製のその階段を上る前に、一番下の裏側に回り込む。そこは色々な物が粗雑に押し込められた物置として利用されていた。適当に置かれた段ボールの一つを探ってみると、案の定、スリッパが見付かる。その一足を掴んで悠一は階段を上り始めた。
当然、こちらは正規の入り口では無い。ただ、体育館を利用する部活を中心に、横着な一部の生徒が校舎内に出入りに使っていた。スリッパも半ばそのために置いて有るような物だ。時間短縮のため、悠一もそれを真似させてもらう事にしたのだった。
クラスがある階まで来てスリッパに履き替える。出入り口の鉄製扉を開けると、蝶番の軋む音が重たく響いた。
校内は既に灯が落ちて薄暗かった。非常口を示すランプが仄かに照らす中、入ってすぐ近くの廊下を右に曲がって教室に向かう。廊下の窓からは中庭の向こうに管理棟が見え、職員室だけが明るかった。それでも、まだ生徒もいるのか、廊下の先で慌ただしい足音が大きく響く。
辿り着いた悠一の教室は無人だった。誰かカーテンを閉め忘れたらしく、窓から差し込む強い西日が並んだ机の影を濃く伸ばす。悠一は眩しさに目を細めつつ、窓際後部の自分の席に近付いた。
奇妙に緊張するのを感じた。鼓動が少し早い気がする。何だろう、自分は何がそんなに不安なのか。それとも、何かに期待しているのか。ふと窓の下に小柄な影が見えた。多分、裏門から下校する生徒だ。そう言えば、やはり菜穂はもう帰ったのだろうか。
悠一は机の中を探った。堅い手ごたえはすぐ見つかる。思った通り、スマホは一番奥に転がっていた。それを取り出すと、通知ランプがゆっくり明滅した。
ついと額に汗が流れる。昼の陽気の名残で来る道中が暑かったせいだ。それを拭って一拍を置き、ロックを解除して起動する。
果たして、連絡は一件。
《遅くなりそうです。夕飯は先に》
相変わらず味気ない、母からのメール。
悠一はそれだけ確認すると画面を閉じた。端末を握りしめ、俯く。
(ああ、なんだ、やっぱりか)
ゆっくりと椅子に座る。椅子の足が床に擦れ、空ろな教室に耳障りな音を響かせた。気付かぬ内に下校を促す放送も終わっている。悠一は西日に褪色した室内を拒むように目を伏せた。
母からのメールだけ。
まあ、そうだろう。それは妥当な結果だ。普段から悠一に来る連絡はだいたいこんなものだし、携帯も一日に数度の確認で足りる。何であれば、数日放置しても構わないくらいだ。無ければ無いで何とでもなる。
ならば、どうして自分はここにいる?
こんな校門を閉じる間際になってまで来た?
汗をかいてまで歩いて、何でこんな物に執着した?
無くたって構わないくせに。
嫌だったのだ。ごくたまには、悠一にだって家族以外から連絡が来る。欲しいと思うメールや電話が届く。それが万にひとつであれ、手元に無い時に限って有るのが怖かった。
同時に、少しだけ期待してもいた。
「手元に無い時だからこそ、そんな誰かからメッセージが来ているかも」と。
もちろん、そのような偶然は滅多に有るものではない。そもそも、滅多に無いからこそ、スマホを忘れてもすぐに気付かないのだ。
いや、こんな結果は悠一も端から分かっていた。分かっていたはずだ。なのに、何故だろう。何かが、何かがしっくりこない。自分の中身が何も無い気がするのだ。なのに、腹の中が酷くムカついてしょうがなかった。
「なあ」
そのムカつく腹に、にやにや声が響いた。
「知らなかったのか? 普通、ソレは誰かとつながるための道具だ。――けどオレは違う」
噛み含めるように間を持たせ、いやらしくせせら笑う。
「ぼっちを確認するための道具なんだ」
風が一陣、通り抜けた気がした。その風は悠一の体内に入り、一番奥底を冷やす。そこはがらんどうだった。しかし、悠一はそこからえたいの知れない不吉な塊が、冷気帯びて黒々と競り上がって来るのを感じた。
体が冷たい。さっきまでかいていた汗が、もう温度を失って気持ち悪く張り付いている。息苦しい。悠一は目を見開き、喘ぐように仰ぎ見た。
そこに赤が広がった。
爆ぜる炎のように鮮やかな色。
天が赤い。いつの間にか太陽は一段と低くなっていた。先ほどまで黄系色だった空は去り、最後の力を振り絞るように燃えている。
悠一はぽかんとそれに見惚れた。開いた口から日差しが飛び込む。それは喉元の冷たい塊を焼き、空っぽだった腹の底まで照らす。
美しい、と思った。
だが、少しだけ物足りない。ここからでは空が狭いのだ。窓枠と隣に立つ体育館に遮られ、一部が欠けてしまっている。
(もっとちゃんと見たい)
そんな衝動が沸いてくる。
(そうだ、もっと開けた所で写真に――写真に撮ろう)
その思い付きは素晴らしいアイデアに思えた。そうだ、普段から悠一がスマホで写真を撮っているのは、こんな風景を切り取りたいからなのだ。この感じている物を手元に残したい。悠一はスマホを握りしめ、教室から飛び出した。
暗さ増す廊下を急いで外階段に出る。早くしないとすぐに日が暮れてしまう。そんな焦りから、靴に足を押し込むと、スリッパを回収するのさえもどかしく階段を駆け上がった。
一番上まで来ると、そこは確かに開けていた。外階段の最上階は天井の無い吹きざらしだ。隣の体育館の蒲鉾屋根よりも頭一つ高く、その向こうの住宅街を透かして更に先まで見える。遠く高層ビルが建ち並び、陽に焙られた影は黒く長い。しかし、それさえも届いて来ない。
悠一は手摺ギリギリまで近づくと、カメラを構えるのも忘れて息を飲んだ。
西の空が、赤い。
いや、本当はその一言で片付けられる色ではない。
これは、ほんの一瞬間の奇跡だろう。
悠一は夜が嫌いだ。夜は否応なく日中の人のつながりを断つ。そうして、帰った先で共に過ごす相手がいる者といない者を区別する。
悠一は後者だった。まだ幼かった昔は母方の祖母がいたが、その祖母と暮らすために家を買って両親は共働きになり、帰りも遅くなった。しかし、よく面倒を見てくれた祖母も悠一が小学校に上がって数年で他界した。結果、黒木家には意義を見失った家とローンが残り、悠一は一人で過ごす夜が多くなった。
夜は切り離される時間だ。だから嫌いだ。
その上、朝も昼も苦手で、悠一は一日中、いつも自分の所在を持て余している。
そんな悠一でもこの瞬間だけは良いと思えた。この夕日の間だけは心から安らげる。
それはつながりの切り替わる間隙だからだ。そのひと時、誰もが一人になり、分断される。束の間、孤独と向き合う。誰もが一人であると言う点において、誰もが平等であり、同じだった。誰もが同じであれば、それは同じ集団だ。ならば悠一もその中にいる。悠一だけが一人では無いと言う点において、悠一は一人では無かった。
夕日は境界を曖昧に溶かす。離れ離れで孤独になった全てを、タソカレの色に染めて一個の塊へと仕立てあげる。
そうやって溶けてしまえばいい。何もかもが夕日色に染まれば、取り残される者もいなくなる。仲間外れもいなくなる。
こんな奇跡が他に有るだろうか。
なのに、この奇跡はひどく短い。一日の内のほんの一瞬でしかない。何故、もっと続かないのだろう。もっと続いて、ずっとずっと、いつまでも――。
いつまでも。
不意に人の気配を感じて悠一は振り向いた。
いつからそこにいたのか、隣に男子生徒が立っていた。さして特徴の無い、普通の少年だ。やや細身の大人しそうな佇まいで、皺一つないブレザーに潔癖さが滲む。
少年は西の空を一心に見つめていた。
誰だろう。悠一はそう思いつつも、呆けたようにその横顔を眺める。少年の柔らかそうな黒髪が陽を反射し、微かにそよいだ。
唐突にその少年が動く。前に踏み出し、目の前の手摺の上へと飛び乗る。当然、その向こうに足場は無い。階数分の高さを隔て、舗装された地面が待っているだけだ。だが、少年は恐れも気後れも感じさせず、軽やかに手摺の上に立つ。
その様子を呆然と見ていた悠一に、少年は向き直った。身をかがめ、手を差し伸べる。
少年の静謐な瞳が悠一を捉えていた。
悠一は深く考える前にその手を取る。怖いとも嫌だとも思わなかった。しなやかな掌がそれに応える。
引き上げられ、悠一は手摺の上に立っていた。不思議な感覚だ。ほんの少し高くなっただけなのに、夕日が迫ってくる。
近いと思った。
本当に飲み込まれそうな気さえする。
ただただ圧倒される悠一の横で再び少年が動いた。一歩前に踏み出す。止める暇もなかった。あっと思った時には少年の体が宙に踊っていた。
刹那、真っ赤な風が吹き上がる。
少年の細い体がひらりと翻った。夕日から吐き出されたような風が落下を受け止める。
目を凝らせばそれは無数の花弁だ。幾つもの小さな赤い花びらが、風に乱れて真下から湧き上がっている。
どこから――そう思って視線を下げると、眼下に一本の木が見えた。今まで気にも留めていなかったが、向いの体育館の裏に狭い空き地がある。そこに立っているのだ。その枝が悠一の足元近くまで伸びており、満開の花を咲かせていた。
それは桜だ。だが、赤い。赤い花弁の桜だ。まるで血に染まっているようでさえある。それが風に煽られ、花吹雪となって少年を包み込んでいる。
いつしか、その千々に舞う赤は一面に広がっていた。悠一の周りも、長く伸びる影も、背後に迫る闇さえ覆い隠す。そうして、西からの日差しと一体化し、あらゆる空間を一つの色に染めようとしていた。
(―― 一つに)
風が悠一の体を撫で、花弁が吹き付ける。
(一つになりたい。一つになりたい)
そう思えば、自然と足が出ていた。悠一は踏み出す。夕日の中へと。体が宙に浮く。
落ちて行く、落ちて行く。
だが、同時に真っ赤な波濤が包み、悠一を形作っていた物を解きほぐす。花弁が一枚吹き付けるごとに、肌も、記憶も、その中へと混じり合う。
どこまでも、終わりの無い落下が続く。
悠一は夕日の中にいた。少年もその中にいた。同じ奔流の中でぐるぐると回りながら、その中心には桜の木があった。それらの全ては悠一と同じ物になっていた。
ああ、ひとりじゃない。
ひとりじゃない。
気が付くと、そこは暗がりだった。
それでも悠一の心は落ち着いていた。
目の前には古びた桜の木がそびえている。近くに外灯は無い。取り残されたようなその場所で、街の光を照り返す澱んだ空に向かって梢を伸ばしている。季節柄花はなく、細い枝にはわずかな枯れ葉しかない。
もう、夜だ。握りしめていたスマートフォンで確認すると、かなりの時間が経過していた。もう少しすれば、残業の母も、もとより遅い父も帰ってくるだろう。早く帰らなくてはいけない。
だが、足は一歩も動かなかった。
周りを見回しても、人の気配はない。あの少年はどこに行ってしまったのだろう。いや、そもそも、あれは何だったのだろう。
それを教えてくれるものはいない。
悠一は、答えを求めるように手を伸ばした。目の前の木の幹に指先が触れる。だが、
指先に伝わったのは、思いの外荒々しいその樹皮の感触だけだった。
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