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 スピーカーから昼休みを告げる鐘が鳴り響いた。

 短い挨拶が済み、教壇が空になる。それだけで急速に解放感が広がった。鎖から解き放たれた生徒達は束の間の自由を満喫すべく、黄色い声を立てて三々五々散って行く。あるものは教室で仲間と机を寄せ合って弁当を開き、あるものは購買や食堂に向かう。

 昼休み、クラスメート達から一拍遅れ、悠一は教室をのっそり滑り出した。ほんの数分前、どこにこれだけの活気があったのだと思うほど、廊下は騒々しい。多少げんなりしながら悠一は歩いた。その目的地は購買でも食堂でもない。図書室だ。

 悠一には昼食を摂る習慣が無かった。より正確に言えば、学校での習慣が、で、家にいる時は普通に食べている。所が、学校では何故か気持ち悪くなってしまうのだ。その症状が出始めたのは中学生の終わり頃だった。急に何度も給食を吐くようになり、病院にも通った。しかし、原因は不明で、ストレスの可能性が高いと言われるだけだった。何とかしようと、母が弁当を用意してくれたりしたが、あまり効果は無かった。

 それで結局、昼飯の習慣自体が無くなった。

 だから、悠一は昼が苦手だ。

 昼食を摂る習慣がないと、他の生徒達と行動のリズムがずれる。そうなると、当然、そこで生まれる人の輪に関わるのも難しい。悠一にとって昼は否応なく、流れからはみ出してしまう時間だ。周りが賑やかになり、喧騒に包まれる分、尚更それが意識させられる。気分が良いはずもない。

 そんな悠一は一人でいても苦にならない場所を探すしかなかった。その結果、辿り着いたのが図書室だ。当然、図書室で昼食を摂る者はほぼいない。加えて、雑談などをし難い分、一人でいる利用者も多かった。ここでなら、悠一も浮かずに済むのだ。

 そこで悠一は備え付けのパソコンを使ったり、昼寝のをしたりして時間を潰す。もちろん、本を読む事もある。もともと読書は趣味みたいなものだから都合は良かった。そうして、昼休み後の清掃が始まるまでじっと待つ。それが悠一の日常だった。

 図書室は管理棟と呼ばれる東側校舎の最上階に有る。管理棟は中庭を挟みながら、クラスルームの集まった西側校舎、通称教室棟と平行に南北へ伸びていた。教室棟は最上階に幾つかの多目的教室があって、その下から一年生、二年生、三年生と学年ごとに階が降りて行く。その二つの棟の北側を渡り廊下、南側を連絡棟で結んでいた。ただ、最上階だけはつながっていないので、悠一のクラスから図書室に行くには一旦連絡棟にある階段を上がる必要が有った。

 悠一は生徒で賑わう廊下を通り抜け、廊下の南端を曲がった。見た目に大きな違いはないがそこからが連絡棟の区分だ。

 中庭を向いた窓からは正午過ぎの日光が燦々と注ぎ込み、廊下に陽だまりを作っている。朝から引き続いての快晴だった。思った通り気温も高くなり、季節を忘れそうな程に暑い。授業中に座っていた時はそうでもなかったが、歩くと汗ばんで来る。悠一は制服のネクタイを少し緩めた。これなら上着は教室に置いてきても良かったかも知れない。

 上階への階段は廊下の途中、管理棟との境の南側にあった。陽気に辟易しながらそちらへ曲がろうとする。

 そこで階段を降りて来ていた人と鉢合わせた。ぶつかりこそしないものの、お互いに足を止める。そこで「あら」と相手が声を上げた。

「もうビックリした、ミスタ黒木」

「あ、すいません」

 両手で胸を抑えて大仰に驚いて見せた相手に思わず謝ってしまう。そうしてからよく見ると、その人は悠一達のクラスの副担任、村中むらなかさちだった。小柄で細身、眼鏡をかけた四十代後半ぐらいの女性英語教師だ。以前、授業だかホームルームだかの余談で、この学校に勤続して十年近いベテランだと言っていた覚えがある。多少口やかましい嫌いはあるものの、英語に訛ったような独特の口調に愛嬌があり、生徒からも適度に慕われ、親しまれている教師だ。

「失礼します」悠一は軽く会釈してから、道を譲って脇を抜け、階段を上ろうとする。

「あ、ちょっと待って」それを村中は呼び止めた。一瞬ドキリとする。別に、副担に何か言われそうな事はしていない筈だ。そう思いつつも素直に向きなおる。

「は、はい?」

「あなた、どこに行くの?」

「いえ、普通に図書室です」

「図書室? ご飯はどうしたの?」

 そう聞かれて、合点がいく。確かに、まだ昼休みが始まって間もないこの時間に図書室に向かえば奇異にも映るだろう。それが普通の感性だ。しかし、悠一の習慣を説明するにはどうしたらいいのか。簡単には理解されないに違いない。

「あの、それは、その・・・・・・」

「そう言えば、黒木クンはお昼御飯が食べられないンだったかしら?」

「え、ああそうです」

 何だ、と拍子抜けしてしまう。どうやら村中は悠一の事情を知っていたらしい。副担任だけあって、そこら辺は親とか中学校とかから情報が入っているのかも知れない。

「そう、それは難儀だわネ。どう、まだ食べられそうにない?」

「ええ、まあ、はい」

「――そう」村中はその返事に少し思案顔をした。だが、すぐ悠一に意識を戻す。

「ねえ黒木クン、図書室へは急ぎなの?」

「いえ、別にそれは」

「なら、少し話をしたいのだけれど、良いかしら?」

「はあ」

 早く解放して欲しかったが、どうやらそうはいかないらしい。悠一が一応は承服すると、村中は先に立って歩き出した。仕方なくその後に従う。

 連れて来られた先は生徒相談室だった。階段を一つ降り、管理棟側に入ってすぐの場所に有る。

 職員室もその近くだった。連絡棟側から来て、突き当たった所から北に曲がって伸びる廊下の一番手前の部屋だ。村中はまず、悠一を残して職員室に入ると、鍵を持ってすぐに戻ってきた。それで廊下の南端に二つ並んだ相談室の片側を開ける。

 そこは粗末な応接セットが一組あるだけの狭い部屋だった。村中は奥の一人掛けソファに座り、ローテーブルを挟んで反対側の長椅子に悠一を座らせた。椅子は何かのお古なのか、角が破れてクッションがはみ出ている。悠一の視線は何となくその裂け目に落ちた。

「ミスタ黒木、あなたは図書室によく行くのかしら?」

「ええ、まあ。・・・本が好きなんで」

「そう言えば、教室でも本をよく読んでいるわよネ。どんな本を読んでいるの?」

「いや、色々です。多分、エンタメ系の小説が多いですけど」

「へえ、例えばどんな?」

 悠一は基本的に何でも読むが、どちらかと言えばミステリなどの娯楽作品が多かった。ラノベなども気が向けば読む。一方で純文学や古典の類はあまり好みではなかった。

 そうした傾向から幾つかの好きな作品名を答えると、村中は頷きながら今度は自分の嗜好を披露する。意外にもこの教師はファンタジーが好きらしい。もっとも、そこは英語教師だけあって、読むのは『指輪物語』や『ゲド戦記』と言った古典名作や海外作品が多いようだ。何なら原語でも読むとか。悠一の趣味とはかなり違う。翻訳物は表現が難しいので少し苦手なのだ。まして、原語など手が出るはずも無い。

「ところで」ひとしきり当たらず障らずの話しをしてから、村中が話題を変えた。「黒木クンはもう高校生活には慣れた?」

「はあ、それなりには」

「何か、悩み事とかがあったりしない?」

 そう立て続けに問われて、悠一は胡乱気に見返した。何故いきなりにこんな事を聞くのだろう。村中は柔和に微笑む。

「実はね、前々から黒木クンの様子は少し気にしていたのヨ」

「オレの、ですか?」

「ええ。黒木クンは教室でも一人でいる事が多いし、休み時間なんかもあまり人と一緒にいないようだったから――」

 そこで一旦、言葉を切った村中の穏やかな表情の中にわずかな真剣さが垣間見える。それでいて、その目が慎重に悠一を窺った。

「もしかして、いじめとか、そう言う事は?」

「いや! 無いです。無いです、それは」

 思いもよらぬ懸念が飛んできて、悠一は反射的に強く否定してしまった。

 実際、それはなかった。確かに、悠一はほとんど他人とつるまないが、それは別に無視されたり仲間外れにされたりしているからではない。単純に悠一自身の性格の問題だ。

 あるいは、クラスの中では他にそうした行為があるのかも知れない。だが、少なくともそこに悠一は関係していない。

「そう、なら良いのだけれどネ。黒木クンは中学校の頃も少し学校に行けない時期があったと聞いているし、何かあれば力になってあげて欲しいとも言われているから」

「それ、誰にですか?」

 村中がそこまで知っている事に悠一は驚いた。確かに、悠一は中学二年の頃、とある事情で少しだけ学校に行けなかった。だが、それは冬休み前の一月足らずの間だ。もし、中学校側からある程度の情報が届いていたとしても、そこまで細かいものだろうか。

「ああ、それは・・・」

 村中が珍しく言い淀む。その表情には言ったものかどうか、と言う迷いがあった。ならば、情報源は学校や親ではないだろう。それでいて村中に悠一を気にかけるよう進言する人物。

 そんな心当たりは一人しかいない。

「それって、今井さんですか?」

 村中は微かに口角を上げただけで、何とも答えない。だが、それは無言の肯定のように見えた。

 考えてみると、菜穂と村中の関係も理解できる。村中はバスケ部の副顧問なのだ。副顧問と言っても、競技を指導する立場ではない。顧問がいない時の活動への立ち合いや遠征の引率などの補助が仕事のようだ。非常に便宜的なものらしく、複数の部での兼任も少なくない。実際、村中は英会話系の文化部で正顧問をしていたはずだ。それでも、クラスが違う菜穂と村中につながりがあるとすればバスケ部だろう。

「ともかく、何か困っている事があれば相談しナサイ。もし、私に言い難いなら、担任の尾本先生でも良いし、学年主任の平川先生でも良いのよ。出来る限り力になるから。絶対に一人で抱え込まないのね」

 結局情報源を明らかにしないまま、村中は最後にそう締めて悠一を解放した。

 相談室を出てから悠一が時計を見ると、昼休みはもう終わりに近かった。掃除時間まではまだ幾らか猶予もあるが、何かするには半端な時間しか残されていない。

 それでも図書室に行こうかと少し悩んで、結局教室に戻る事にする。今週の清掃は教室の担当になっていたので、どうせすぐにとんぼ返りしなくてはならない。それなら、多少居心地が悪くてもそこで待っていた方がマシだろう。

 戻ってみると教室は案外閑散としていた。弁当組だったと思しき何人かが、幾つかのグループで固まっているだけだ。彼らは会話に夢中になって、こちらを気にする様子もない。何となく安堵しながら、悠一は静かに自分の席へと戻った。

 中途半端な残り時間が手持無沙汰で、悠一は暇潰しにスマートフォンを取り出す。メールが一件入っていた。母からだ。

《残業が入るかも知れません。遅くなる時は連絡します》

 メールが苦手な母らしい簡潔な文章だった。ともすれば何かの業務連絡じみている。

 他のメールボックスは空だったので、後はニュースサイトや動画サイトを冷やかす。だが、特に気を惹くトピックも無い。ついでにアプリの更新情報も確認するが、それもすぐ終わってしまった。

 いよいよやる事の無くなった悠一は、惰性で画像アプリを立ち上げた。トップに出たのは今朝撮ったばかりの写真だ。結局、猫の撮影には失敗したが、菜穂と別れた後に少し寄り道をしながらカメラを向けたのだ。

 写真を見ていると朝の出来事が思い出される。菜穂は「ユッチ」と呼んでいた。「応援に来なよ」と誘ってくれた。「一緒に遊ぼう」とも「会えて良かった」とも言ってくれた。その影の無い声が、颯爽とした姿が、悠一の脳裡に蘇る。

 相変わらず、菜穂は菜穂だ。

 あの頃から何も変わっていない。近所の公園にも中々出て行けない人見知りの悠一を、いつも誘いに来てくれていた幼き日のままだった。

 村中の件にしたってそうだろう。以来、周りと距離を取りがちな悠一を、それでも気にかけてくれている。悠一の望み通りの付かず離れずの距離で。それには感謝しかない。また、その菜穂に応じてくれる村中の厚意も有難かった。

 だが、それだけに自分自身が不甲斐なくもある。そうした働きかけにも関わらず、いつまでも吹っ切れられない。菜穂に対してもどこか素直になれない。そんな自分が。

「お、黒木が昼休みにいるの、珍しいじゃん」

 いきなり声をかけられて悠一は冗談ではなく飛び上がりそうになった。反射的に手元のスマホを机の中に押し込んでしまう。

 顔を上げると、目の前に同じクラスの男子がいた。咄嗟に声も出ず、目を白黒させる悠一をにやにやと笑って見ている。物思いにふけっていて、近づく気配に全く気が付かなかった。

「何ビビってんだよ黒木。何、エロサイトでも見てたの?」

「ち、違う!」

 あんまりな事を声も落とさず言うので、悠一は顔を赤くした。この同級生は誰彼かまわず話しかける癖があり、さして親しくもない悠一にもこうしてたまに声をかけてくる。だが、女子がいる前でも平気でこう言う事を言うので、正直苦手だった。

「悪い悪い。あんま怒んなって」

 言葉の割に悪びれた様子もなく男子生徒は軽薄に悠一の肩を叩く。それでもう興味が失せたのかその場から離れて行った。そのまま近くにいた他の男子のグループに加わり、おどけた奇声を発する。何が面白いのか、そこで大小の笑いが起こった。

 それ以上絡まれなかった事に悠一は安心していた。

 だが、ふと思う。本当にそれで良いのだろうか。どんな内容にせよ、クラスメートが話しかけてきたのだ。なのに、それを半ば迷惑がって、離れて行ってから安堵するとは。本来なら、ちゃんと受け答えするべきだったのではないだろうか。少なくとも、の男子なら、多少品が無くてもあの程度なら鷹揚に切り返せていたはずだ。

 それを逃げているから、悠一はいつまでも吹っ切れられないのだ。いつまでも菜穂に気を使わせてしまうのだ。

 不甲斐ない。改めてその言葉が去来する。

 悠一は机の上に突っ伏した。次の予鈴がなるまで、もう顔を上げる気にもならなかった。



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