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猫がいる。そう思って悠一が足を止めたのは、児童公園の前だった。
敷地の一番奥、隣家との境となったブロック塀の上だ。小柄な猫が一匹、丸くなって気の無い顔をしている。のんびりと、半分寝ぼけているのではないかと思うような目が、小さな公園内を見ていた。
何となく興味を惹かれて、悠一は敷地に入った。植込みの他はベンチやちょっとした遊具しかない、本当に小さな公園だ。今は人の気配もなく影がちで、猫は近づいてくる悠一を気に留めた風もなく、欠伸をしている。鷹揚と言うか、あるいは超然としてシニカルですらある。
(何かいいなあ)
そう思った悠一は肩にかけていた学校指定のスポーツバックを担ぎ直し、ブレザーのポケットからスマホを取り出した。それからアプリを起動してカメラを構える。
陽が昇り始めたばかりの空は青く、よく晴れていた。雀が屋根や電線を飛び移りながら姦しく囀り、住宅街は朝露に湿って少し肌寒い。だが寒過ぎる程でもなく、むしろ、この分なら昼頃には暑くなりそうだった。
悠一がここに立ち寄ったのは登校を始めて間もなくだった。通勤、通学にはまだ少し早く、まだそれほど人通りは多くはない。ちらほらいる通行人や車、バイクも通りかかってはすぐ見えなくなる。そんな時間帯だ。
こんな人もまばらな早朝に、悠一がわざわざ学校に向かっていたのは、結局、早く起き過ぎたからだった。
あの不快な目覚めの後、ほどなくして母も起きてきた。思ったよりも早かったが、神経質な性質の母は毎朝きっちりリビングを掃除してから朝食を作るので、そのためだったのだろう。
ともかくも、それを見計らい、悠一も部屋を出て浴室に向かった。やはり、早く汗を流してしまいたかったのだ。そうすれば不快だった目覚めの残滓も一緒に流せそうな気がした。
しかし、そうして早く起きてきた悠一に驚いたのは母だ。普段、登校時間のギリギリまで寝ている悠一の異変に、何かあったのか、体調でも悪いのかと不審がったのだ。母は神経質で、心配性だ。
悠一はどう説明したものか迷った。気分が悪いと言えば言えなくもないが、親に訴えるほどでもない。しかし、曖昧に答えたのでは母が余計に心配するかも知れない。そうして心配させたくないと思う半面、いちいち不安気な顔をする母が鬱陶しくもあった。それでつい、「今日はちょっと学校に用事があって」と誤魔化してしまった。
そう言い訳した以上は家で長々と過ごす訳にもいかない。それで朝食を食べるとすぐに家を出てきたのだ。
そうして早く出てきたものの、悠一の足は一向に前に進まなかった。
通っている高校は近い。電車はもちろん、自転車さえ必要ない距離にある。普通に歩いても、朝ドラ一話分ほどの時間でもあれば着いてしまう。だからと言って、取り立てて早く着きたい場所では、当然ない。実際に用事などがある訳では無いのだから。
その上、寝起きの気分の悪さまでまだ残っており、足取りが軽くなるはずもなかった。
それでつい、家から出て幾らもしない内に、近所の児童公園で足を止めてしまっていた。
カメラを向けても猫は顔色一つ変えなかった。いや、もちろん悠一に猫の表情が読み解ける訳でもないのだが、いずれにしても猫は逃げようともしない。街猫だけあって人慣れしているのだろう。一方で、どこか人におもねらない孤高さも持っている。
立ち位置を変えながらその姿を画面に映す。
近づいたり離れたり、あるいは左右に動いてみたり。色々と変化を付けるのだが、中々思うように画が定まらない。一度試しにシャッターを押してみたものの、今一つしっくりこなかった。陽が低く、影が多いせいか、どうも精彩に欠ける気がする。
それでも、しばらく試行錯誤を繰り返す内に、これはと思うタイミングが訪れた。
「あれ、ユッチじゃん」
ようやくシャッターを押そうとした時だ、背後からそんな聞き覚えのある声がしたのは。悠一は驚いて振り返る。
そこにいたのはやはり
菜穂は同学年で、いわゆる幼馴染だ。未だに悠一の事を「ユッチ」と子供の頃と同じ呼び方をする。しかし、こんな所で会うと思っていなかった悠一は少なからず動揺していた。
「あ、なっ――今井さん。おはよう」
「おはよ。どうしたのユッチ。珍しいじゃん、こんな時間に会うなん――あっ!」
喜色を滲ませながら近づいてきた菜穂は、自らの短い叫びで言葉を遮った。つられて目線を追うと、先ほどまでじっと座っていた猫が塀の上から飛び降りた所だった。そまま隣家の庭先に消えて行く。菜穂はそれをみてばつが悪そうに頭を掻いた。
「あー、ゴメン。今、それ撮ってたんだよね。邪魔したなぁ」
「あ、ああ、いや。別に」
「んー、でも」
「良いって。ちょっと撮ってただけだし。全然、大丈夫」
「そう? でも何かゴメン。まさかユッチがいると思ってなかったから、ついさ」
そう言って、菜穂は謝りつつも屈託なく笑って見せた。つられて悠一も笑う。
「別に良いって。オレも、ほんとは早く来るつもりじゃなかったんだけど、今日はたまたま」
「そうなんだ。何、なんか用事?」
「まあ、そんなとこ」
「でも、ほんと珍しいね」
菜穂がそれほど強調するのも無理ないのかもしれない。それぐらい、悠一はほとんど朝に活動しない。
そもそも悠一は朝が苦手だった。朝起きるのが、ではない。朝の空気そのものが苦手なのだ。
それは単純に言えば場違いだからだろう。
朝は、一日の内でも最も清廉で健全なイメージがある。特に、今日のような、良く晴れて、寒くも暑くもないなら尚更だ。多くの人がポジティブで爽やかな印象を受けるのではないだろうか。
それは悠一の持っている性質とは全く対照的なものだ。自分には似合わない。そう思ってしまう。だから、いつも居心地が悪い。
そんな疎外感を覚えるようになったのはいつ頃からだったか。ともあれ、気付けば悠一は滅多に早起きをしなくなっていた。それこそ学校の行事でもない限り、できるだけ朝はゆっくり起きて自宅で過ごすのが常だ。
逆に、菜穂はまさに朝が似合う人だと、悠一は思う。
「今井さんは朝練?」
「うん。超ダルイ」そうやって冗談めかして笑いながらも、言うほど嫌そうではない。
「でも、もうすぐ新人戦があるから」
「そうなんだ。試合、勝てそう?」
「うーん、どうだろ。ウチもそんな強くないしなぁ」
「ふうん」
「でも、その分レギュラーには食い込めそう。学年リーダーも任されてるんだ」
「へえ、凄いじゃん」
菜穂が所属しているのはバスケットボール部だ。悠一たちが通っているのはどこにでもある普通科の進学校で、部活はそれほど盛んでは無い。そのため、体育会系の部活はどこも強い訳では無いが、それでも一年生でレギュラーに名を連ねるならたいしたものだろう。バスケ部は部員数も多いのだし。
菜穂は運動神経が良いだけなく、性格もさばけて明るいので、昔から男女共に慕われていた。学年のリーダーに選ばれるのも、その人柄の故だろう。
そうした明朗さとスポーツマンらしい強さが菜穂にはある。それに、朝練を怠いと言いつつも、活気に溢れている。そんな菜穂の雰囲気は本当に朝に合っている。
「ま、良かったらまた応援に来てよ。今度の土日にも試合あるし、市民アリーナが会場だからさ」
「うん。まあ、出来たらね」
まさに朝のような爽やかさで菜穂が笑いかける。それに悠一も何とか笑みで答えた。だが、少しぎこちなかったか。
菜穂が少年団でバスケを始めたのは小学校高学年の時だ。その頃は菜穂や菜穂の家族に誘われるまま、悠一もよく応援に行っていた。中学になりそれが部活に変わっても、しばらくは試合を観に行ったりもしていた。そう言えば、最後に菜穂の応援に行ったのはいつだっただろう。
「それにしても」
「え?」
「何か懐いなぁ、ここ」
「ああ――」
急に話頭を転じた菜穂が目を向けたのは児童公園だった。つられて悠一も視線を巡らせる。猫もいなくなり、園内に人や動物の気配はない。少し塗装の禿げた遊具だけがまだ日陰の中にあった。
菜穂の声が近況の報告から変わって、懐古的な響きを帯びる。
「昔はさ、ユッチやみんなとよくここで遊んだよね」
「うん、鬼ごっことか、かくれんぼとか」
「今思うと、よくこんな狭いとこで走り回ってたなぁ」
「そうだね」
悠一も昔は近くの菜穂と同じマンションに住んでいた。そのマンションに住む子供達にとってこの公園は恰好の遊び場だった。中でも、引っ込み思案だった悠一は、いつも面倒見の良い菜穂に引っ張られてここに来ていた。砂場遊びも、ヒーローごっこも、その多くは菜穂との思い出と重なっている。
「ユッチもさ――また一緒に遊ぼうよ」
「うん、出来たら」
公園の風景に目を細めていた菜穂が、横顔で視線を送って来る。だが、悠一はつい顔をそらしてしまった。今度は愛想笑いを返す事も出来なかった。
「そう言えば、今井さん、時間大丈夫なの?」
取り繕うように、悠一は左手首を持ち上げた。中学生の頃、入学祝に父から与えられたアナログ時計が時刻を示す。立ち話をしている間にすっかり時間が経っていた。菜穂も上着のポケットからスマホを取り出し、画面を見て慌てる。
「ヤッバ。遅刻」
「急いだ方が良いよ」
「うん。じゃあ、私先に行くわ」
「うん。気を付けて」
菜穂は勢い込んで走り出そうとして、思い直したように足を止めた。悠一の方を振り返る。
「何か、ユッチと久しぶりに長く話した気がする。でも、会えてすごく良かった」
それは悠一も同じだったが、声に出すのは何となく気恥ずかしかった。ただ、むっつりと頷く。それだけでも菜穂は嬉しそうに笑った。
「じゃ、また学校で」
「学校で」
菜穂はそう言って手を振ると、駆け足で去って行った。悠一はその背中に手を振り返す。
菜穂のおかげか、先ほどまでの気の重さはずいぶん晴れていた。こんな風に菜穂と会えるなら、毎朝早起きでも良いかも知れない。そう思いかけて、自嘲気味に頭を振る。
「まあ、そう上手く行くなら、もともとこんなじゃないか」
明るさを増した道は、先ほどまでより人通りと車が多くなってきていた。もう少しでラッシュが始まる。そうなる前にと、悠一はゆっくり歩き始めた。
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