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 その日、黒木悠一くろきゆういちが飛び起きたのはまだ夜明けの前だった。だが、その時は自分の目が覚めたのかどうかさえよく判らなかった。

 辺りは真っ暗だ。深い闇が四方を覆い、何もかもを黒く塗り込めている。突然、そんな空間に放り出されたように思えた。視界が利かない中で、勢い、意識は聴覚に集まる。しかし、それも地鳴りのような低音とそれを遮る断続的な打音、そこに混じる擦過音しか聞こえない。

(何? 何?)

 悠一は焦った。

 何か途轍もなく恐ろしい状況なのではないか。そんな不安が腹の底から沸き上がって来る。背筋を伝ったそれは脳髄に襲い掛かり、全身から嫌な汗が噴き出す。

 しかし、時と共にそれが錯覚だと気付いて来た。次第に意識の底が明瞭になり、地がならされて形を整える。すると、それまで不定だった認識にも形が生まれてくる。

 擦過音は自分の呼気だった。その時に喉が引き攣り、半ば悲鳴のように掠れていたのだ。同じく、激しい打音は鼓動であり、地鳴りは血流だった。あまりに神経が過敏になり、自分の体内音すら過大に聞こえたのだ。

 そうして知覚に芯が通れば、呆気ないほどに現実は戻ってくる。音の大きさが正常になり、部屋の隅で掛け時計の秒針が規則的に音を立てているのが分かった。また、窓の外から微かな犬の遠吠えが聞こえ、壁の向こうに冷蔵庫やボイラーの低い唸りが響いていた。

 視界も思ったほどの闇ではない。常夜灯の類は消えているので暗いには暗いが、何も見えないほどでは無かった。向いの窓にかかったカーテンがわずかに開いて近くの街灯の光を滑り込ませ、それが部屋の輪郭を浮かび上がらせている。本棚やラックのシルエットになり、その合間にパソコンやテレビのパイロットランプも浮かんでいた。

 それらの全ては霞み、歪んでいる。だがそれも異常があるからではない。単に、もともと悠一の視力が低いせいだ。

 つまり、何の変哲もない自分の部屋。

 飛び起きた姿勢のまま、ベッドの上で半身をもたげながら、視界だけを巡らせて何度もそれを確認した。

「寝ぼけた・・・?」

 呼吸を収めつつ、悠一は意識的に声に出してそう呟く。それで、やっと恐怖も去り、本当に夢から覚めたような気がした。

「ああ、何だよもう」

 緊張がほどけ、身体の力が抜ける。ほうっ、と肺から息が漏れると、上半身が重力に引かれてベッドに落ちた。安物の敷マットが軋んで音を立てる。両手で顔を覆い、何度もぬぐうように擦った。それから苛立ちまぎれに頭も掻き毟り、寝癖をより酷くする。本来、行儀よく切り揃えられたその髪は見る影も無い。

 悠一は心の底からほっとしていた。一瞬、本当に怖かったのだ。何か得体の知れない、気味の悪い、そんな不安があった。例えるなら,有ると思っていた階段が無かった時の、あの感じ。自分の認識と現実が食い違った時の怖さ。その割に、危険でも何でも無いと言う結果も似ていたかも知れない。

「てか、今何時・・・」

 ぼやき気味に枕元をまさぐると、眼鏡ケースを取り出し中身をかける。それから上体だけ起こしてベッド脇のカラーボックスを手探りし、スマートフォンを取り出した。少し、古い型のものだ。充電コードにつながったままのそれを操作し、画面を開く。色気の無いプリセットの壁紙の上に幾つかのアイコンが並び、それに囲まれて中央にデジタルで時刻が表示される。

「うわぁ」

 思わず呻き声が漏れる。ミッドウィークの朝、深夜も深夜――と言うよりは割と後だが、いずれにしても、かなり早い時間だ。少なくとも、普段の悠一なら絶対に起きない。季節柄、日毎に日照が短くなっているせいもあり、陽が昇るにもまだしばらく暇が要る。道理で暗いはずだ。

 悠一は深く溜息を吐いてスマホと眼鏡を元に戻した。再び寝転がり、ぼんやりと天井を見上げる。

 安堵したと言っても嫌な目覚めには違いなかった。未だに神経はどこかささくれ立っていたし、吐き気のような気持ち悪さもある。何より、全身にかいた汗が不快だった。できれば、起きてシャワーでも浴びたい所だ。

 だが、どうやら今はまだ止めて置いた良さそうだった。あまりにも時間が早過ぎる。父も母もまだ寝ているだろう。両親は共働きで日頃から忙しくしている。尚且つ、夜が遅く朝は早いのだから、それを物音でも立てて起こしてしまっては申し訳ない。特に、神経質な母は眠りが浅いので、ちょっとした事で起きてしまいそうだ。

 そうかと言って、二度寝をする気にもなれなかった。幾らか間があるとはいえ、夜明けまではもうすぐだ。今寝てしまえば確実に寝過ごしてしまうに違いない。悠一は今年から高校に通い始めてもう半年ほどになるが、まだ遅刻はなかった。できれば、これからもしたくはないので、寝坊は嫌だった。まあ、そもそも二度寝をしようにも、最悪な寝起きのせいで神経が昂ぶっているので、寝るのは難しいだろう。

 それにしても、こんなに気分の悪い寝起きは久しぶりだ。悪い夢でも見たのだろうか。それはそうかも知れない。起きる直前、何か凄く不穏な感じがした気もする。だが、それは漠とした印象しかなく、上手くイメージがつかめなかった。夢は一旦過ぎ去ってしまうと途端に思い出し難くなる。

 漫然と眺めていた天井には所々に染みが目立った。昔は近所のマンションで暮らしており、この一戸建ての家には住み始めて十年ほどになる。だが、中古なので築年数はもっと古く、細部の傷みは隠しがたい。

 悠一はもう一度大きく溜息をつくと、体勢を変えて俯せになった。掴み切れないイメージを追いかけるのは苛々するし、そもそも悪い夢など思い出しても何の得になるのか。天井の染みを数えて時間を潰すのもバカバカしい。さりとて、もちろんこんな起き抜けに学生の本分に手を出すほど奇特でもない。となると、あまり物音を立てず悠一にできる事などわずかだ。

 枕元の眼鏡を再び取り出し、カラーボックスからはスマホの代わりに文庫本を取り出す。昨晩読みかけにしていた小説だ。時間を潰すにはこれが一番マシそうだった。

 気分は全く乗らなかったが、早く時間が経つ事を願って、悠一は栞を挟んでおいたページを静かに開いた。



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