現の境(うつつ の さかい)
@ono_teruhisa
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序
序
最終下校時刻。西へと傾き始めた太陽に、屋内はすっかり陰りを帯びる。その薄闇に帰宅を促す放送が滲み、残っていた生徒達も続々と校門へと向かおうとしていた。その小柄な女子生徒もまた、そうした一人だった。
しかし、それは予定よりずいぶん遅い時間だ。本来、陽が落ちる前には家に着くはずだったのに、どうしてこうなったのか。いや、理由は単純で絵を描いていたからに他ならない。美術部に属している詩緒里はいつもこの放課後を制作で費やしている。ただ、今日は少し失敗だった。もともと打ち込み過ぎる嫌いがあるが、それにしても没頭が過ぎたのだ。つい根を詰めて、他の部員が全員帰っても気が付かなかった。
これで帰りが遅くなれば、義母や義姉は心配するだろうか。多分、するだろう。二人は少々過保護の気味が有る。だから、なるべく日が暮れる前に帰れと、口を酸っぱくされていた。それを考えると、ともかく、今は早く家に帰りたい。
急ぎ足で昇降口を抜けると、詩緒里は南側の正門ではなく北西にある裏門へと向かった。正門から続く道は広い大通りで、その分人も多い。そうした人通りを避けるため、常から詩緒里は住宅街の細い道へ出る裏門をよく使っていた。
昇降口の有る連絡棟から、隣接する教室棟の南端を回り込んで建物の西側に出る。校舎は北に向かって長く続いており、その対面には少し距離を空け、玄関を突き合わせた武道場と体育館が南北に並んでいた。教室棟と武道場の間を抜け、体育館が西日を遮る中へと進んで行く。伸びた影は校舎の白い壁面にもたれかかっていた。影の届かない上の階と、体育館に比べて多少北に長い建物の端だけが西日を受けてセピア色に輝いている。教室棟の先の突当りに倉庫が見え、その更に向こうが裏門だった。
はたと足を止めたのは体育館を通り過ぎた時だ。建物が切れて陽を遮るものがなくなり、詩緒里の陶器にも似た白い肌がオレンジ色に照り返す。詩緒里はその日差しを見返すように振り向いた。
誰かに呼ばれた気がする。
だが、どこから。目が向いたのは丁度差し掛かった体育館の終端、建物の裏に当たる場所だ。そこはわずかなデッドスペースになっていた。体育館の西向こうは一段低くなって一般道の細い路地で、その道は建物の裏辺りから学校の敷地側に向かって斜めに切れ込み、裏門の方まで通っている。その体育館裏から裏門までの三角形に切り取られた空間。そこは外との境界に沿ってフェンスとカイヅカが続いていたが、しかし、ただそれだけの場所だった。他には頼りなげな桜の木がぽつんと一本立っているばかりで、いかにも用地上たまたま使い道の無い空間が出来て、そこに目隠しの木を植えただけの空き地に見えた。
人の姿もなく、声がかかるはずもない。
だが、詩緒里はなるほどと思った。なるほど、呼ばれたのではない、いつものあれだ。
そう思いながら、おもむろに桜の木に近づき、その樹皮に手を差し伸べた。ザラリとした荒々しい手触りがする。
やはり、この木――か。
触れてみて、詩緒里は確信する。この木、このうら寂しげな桜から、微かな揺らぎが伝わってくる。それが詩緒里の感覚に触れ、だから、呼ばれたような気がしたのだ。
だが、何故今なのだろう。詩緒里はそれが不思議だった。この高校に入学して既に半年余り。気付くなら、もっと早く気付いても良さそうなものだ。
そう思い、この木のさざめきをもっと確かに感じるため、心を澄ます。それに応えるように桜の木は揺らぎを強めた。初めは弱々しかったその勢いも、徐々に活き活きとしてくる。まるで、枯れかけた植物が水を得たように。
いや、実際にそれは枯れるはずだったのだ。長い年月の中、摩耗し、消えかけていた。それに伴っていつしか木の葉は緑から茶に変わって落ち、粛々と終焉に向かいつつあった。
だが、それでもこの時、この瞬間だけは違った。この時間にだけは、その思いの求めていた物だったから、それが留まった理由だったから、わずかでも残った存在を強めていたのだ。あるいは欲する物を常に渇望し、探していたと言うべきか。
詩緒里が今日初めてその存在に気付いたのは、たまたまその時間に居合わせたからだ。普段は、なるべく早く帰るようにしているため、通りかからないこの時間に。
その存在にとって、詩緒里はそれこそまさに求めていた物でもあった。砂漠の中の水だった。水を得て、枯れかけた木は蘇る。
しばらくして、詩緒里はそっと手を離した。
そうして、どのぐらい経っただろうと思い、空を見上げる。体感ほどは時間が過ぎておらず、太陽は先ほどよりほんの少し傾いただけだった。それでも、褪せた色をしていた空は、燃えるような熱を帯び始めていた。
大体の事は分かった。この木が何なのか、何故詩緒里を求めたのか。だから――。
だから、詩緒里は踵を返した。そうして、何事もなかったかのように、裏門へと向かって歩き出す。桜の木からは、追いすがるようなざわめきが伝わってくる。
だが、詩緒里にはどうする事もできなかった。気付いたのだ。事情を知ったから、それ故に自分自身が何もできないのだと。何故なら、詩緒里が知覚できた理由と、何もできない理由はほとんど同源なのだから。
何もできないなら、留まる意味もない。
裏門前を塞いでいる物置の所まで来て、詩緒里は振り返った。いよいよ角度を下げ赤く燃える西日が桜の木の片面を焙る。陰影は深くなり、にもかかわらず輪郭は朧になる。
残酷な事をしてしまったのは分かっている。今やそれは先ほどの弱々しさを忘れ、新たな活力を得ていた。枯れるべきはずなのに、蘇ってしまった。
そのきっかけを作ったのは詩緒里だ。枯れた木に、水を注いでしまった。
だが、詩緒里には水を与え続ける事はできない。何故なら、詩緒里のそれは本物の水ではないのだから。砂漠で見た蜃気楼。どんなに誤魔化した所で、それは何も潤しはしない。
凪いでいたのに。心安らかに終わりを迎えていたのに。詩緒里が触れた事で、それは邪魔されてしまった。後はもう、ひたすら満たされない思いだけ抱きながら、最後を迎えるしかないのだろう。
そうなってしまって、それでも詩緒里は何も思わなかった。悲しみも、懺悔も、あるいは喜びすらない。ただ少しの責任と、内側の深い部分に疼痛のような何かを感じるだけだ。その疼痛もまた、所詮は幻肢の痛みのような物に過ぎない。
詩緒里は向き直って裏門を出る。そうして、もうそれ以上は振り返らなかった。
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