6−2 本当に大切なもの



 渓と美耶を乗せたバスが金沢駅についたのはまだ朝6時前だった。


「本当についてくるの?」


「当たり前でしょ。何のためにここまで来たと思ってるの」


 美耶がそう言うと渓は深いため息を吐き、大きなスーツケースをガラガラと引いて歩いていく。美耶は黙ってその後を追った。


 金沢駅から電車に乗って6駅、そこからバスに乗り換えて田舎の細い道を揺られること約1時間。


 屋根もベンチもない看板がぽつんと立つだけのバス停で渓は降車ボタンを押した。周囲にはほとんど民家も店もなく、田畑と山ばかりが見える。生まれも育ちも東京都内の美耶にとっては新鮮な景色だった。


「こっから少し歩くけど平気?」


 渓は美耶の足元を見て尋ねる。こんなところに来るとは思っていなかった彼女は底の浅いパンプスを履いていた。長距離を歩くには向いていない。


「少しってどれくらい」


「30分」


「さんじゅ……!?」


 美耶は一瞬顔をしかめたが、いずれにせよ次のバスが来るまでは一時間以上かかるし、ここまでついてきた時点ですでに覚悟は決まっていた。


「……大丈夫。それくらい歩く」


「舗装されてない山道も通るけど」


「それでも、平気」


 美耶の答えに、渓は再び深いため息を吐いた。そしてくるりと背を向けて道を進んでいく。美耶のことを配慮してか、少しだけ市街地を歩いていた時よりもペースを落として。


 田舎道を進んでいくと、やがて一軒の木造の古い家が見えてきた。渓はその敷地の前で立ち止まる。


「ここ、ばあちゃんちなんだ。今は誰も住んでない」


 それだけ言うと、渓は敷地の中へと入っていく。玄関までの敷地には畑があるが、手入れされていないのか雑草が伸び放題になっている。駐車場には錆びた軽トラック。そして締め切られた雨戸。確かに今誰かが住んでいるような雰囲気はない。


 渓は鍵を取り出して玄関の引き戸を開けた。古い家特有の湿気った土のような匂いが中から漂ってくる。


 渓に案内され、美耶も靴を脱いで家の中に入った。広い畳の部屋で渓はスーツケースを置いて座る。美耶も座って天井を見上げた。荘厳な木彫りの欄間が目に入る。


「立派な家だね……平屋建てでめちゃくちゃ広いし」


「もともと庄屋の家らしくてね。築年数80年以上のいわゆる古民家ってやつだよ。小学生くらいの時は毎年お正月に親戚みんなでこの家に集まったりしたんだ。じいちゃんが死んで、ばあちゃんが施設に入ってからはその集まりはなくなったけど。ここは……転勤族の俺にとって唯一固定の居場所だったんだ」


 渓は懐かしそうに壁に貼られた写真を眺めた。そこには渓の祖父母らしき人と、その周りを囲む親戚たちが写っている。


「渓はここに何をしに来たの?」


 美耶が尋ねると、渓はスーツケースの中身を展開しながら言った。


「掃除と荷物の整理だよ。こないだばあちゃんが死んで、この家を継ぐ人が誰もいないから売りに出すことになったんだ」


「もしかしてその連絡があったのって……カフェ開店の打ち上げをしてた時?」


 渓は頷く。


「黙っていたことは謝るよ。余計な心配をさせたくなかったんだ。けど、あと少しで片付けが終わって業者に引き渡したらまたマチカツに集中できるからさ、他の人たちには言わないでおいてくれないかな」


 そう言って雑巾を手に取り立ち上がる。


「ちょっと待って!」


 美耶が叫び、渓の腕をとった。


「渓……あんた本当にそれでいいの?」


 渓は美耶の方を振り向かないまま答える。


「ああ。だって俺はカフェのことに専念しないと。言い出しっぺだし、軌道に乗るまでうずら通り商店街から離れないって宣言しちゃったからな」


 美耶の手が振り払われる。渓の表情は見えない。まるで彼女には本心を見せまいとするかのように。


 美耶はぎゅっと拳を握る。


「何、それ……一人で抱え込んで自己解決すればかっこいいとでも思ってるの? くっだらない! どうして言ってくれなかったのよ。私たちは……うずら通り商店街のみんなは、あんたが街のために頑張ってくれたみたいに、あんたが困った時の支えになりたいと思っているのに!」


 気づいたら彼女は思ったままのことを口に出していた。


 それでも渓は振り返らない。


(馬鹿な人……! 余計な心配はかけたくないって、もうすでにマチカツ部の人も、商店街の人たちも、それに私も……みんなあんたのこと心配してんのよ!)


 美耶はポケットから自分のスマートフォンを取り出す。夜行バスでは充電できていないのでバッテリーは残り20%しかない。だが彼女は構わず電話をかけた。


『美耶か。今どこにいる』


 電話に出たのは城山だった。渓ははっとして、美耶のスマートフォンを取りその通話を切ろうとした。しかし彼女は渓の手を器用にかわし、通話の音声をスピーカーモードにして電話の向こうの城山に向かって話しかける。


「おじいちゃん、ガツンと言ってやってよ。渓はね、自分がおじいちゃんたちに言ったことを気にして本当にやりたいことから目を背けてんの。大事なおばあちゃんの家がなくなっちゃうかもしれないのに、それを大人しく受け入れようとしてんのよ。なんとかしようと思えばできるくせに!」


「おい、その話は言うなって……!」


 渓はスマートフォンに向かってまくしたてる美耶の口を塞ごうとしたがもう遅かった。


 やがて電話の向こうから、状況を理解した城山の落ちついた声が聞こえてきた。


『……伊佐見。お前は本当はどうしたいと思っているんだ? 建前じゃなくて、本心で答えてくれ』


 美耶がスマートフォンを渓の方へと向ける。


 渓は初め首を横に振っていたが、美耶は微動だにしなかった。やがて彼女の真剣な眼差しに折れ、渓はスマートフォンに向かって口を開く。


「俺は……やっぱりこれからもうずら通り商店街に関わっていきたい。これは本心なんです。けどばあちゃんちをなくしたくないって気持ちもあって……ずっと悩んでたけど、やっぱりどっちが優先かなんて決められません。でももしばあちゃんちを引き継ぐことにしたら、ここに住むかあるいは改装して店にするか……いずれにしても古巣市を離れなきゃいけなくなります。それはみなさんとの約束を破ることになる」


 城山からの応答はすぐには返ってこなかった。


 やはり失望させてしまっただろうか。だから言いたくなかったのだ。せっかく得られた信頼を裏切るようなことはしたくない。そんな思いで、マチカツ部を優先することを決めたのだ。


 渓が「それで俺は」と続けようとした時、ようやく電話の向こうで商店会長の低い声が響く。




『地域の活動で本当に大切なのは物理的な距離なんかじゃない、その街の人との気持ちのつながりだと俺は思っている』




 城山は言葉を続ける。




『伊佐見。俺たちとお前の間にあるのはどっちなんだ? 少なくとも俺は後者だと思っていたぞ』




 渓は息を飲んだ。そして恥ずかしさで顔から火が吹き出そうな思いがした。


 本当は自信がなかったのだ。


 もし祖母の家を継ぐという決断をしたとして、城山たちがそれを咎めるような人間ではないことくらい分かっていた。


 だが志半ばで古巣市を去る自分はあの商店街に何かを残せたことになるのだろうか。一年もしたら自分のことなど忘れ去られてしまうのではないか。そうなってしまったら、結局今までの中途半端な自分のままで、何も変われていないということになるんじゃないだろうか。


 そう考えたら怖かった。だから言い出せなかった。


 だが、それは渓の杞憂で。


 城山は物理的な距離よりも大事なものが、渓との間にすでにできていると言ってくれた。そうだ、逆の立場で考えてみればわかる。城山のことだけじゃない、他の商店主たちに街の人々……ただ距離が遠くなっただけで忘れてしまうような思い出はどこにもない。


 きっと一生ものになる。


 そう思っていたのは渓だけじゃない、街の人々にとっても同じなのだ。だからこそ、色んな人の力を借りてカフェの開店までやり遂げることができた。


「城山さん、俺……」


 渓が城山に返事をしようとした時だった。


 美耶のスマートフォンの画面が急に真っ暗になった。バッテリーが尽きたらしい。通話も当然切れてしまっている。


 美耶は「あーあ、いいところだったのに」と言いながらスマートフォンをポケットにしまう。そして渓に向かってにっと微笑んだ。




「もう一度よく考えてみてよ。私もおじいちゃんと同じ意見だよ。伊佐見渓が好きだからこそ、自分たちが足かせになってあんたが進めなくなるのが嫌なんだ」




 二人の間に一瞬の沈黙が生まれる。


 美耶はハッとして自分の口をおさえた。彼女の顔がみるみるうちに赤くなっていく。


「あ、ちょっと、今の『好き』は人としてって意味で、その、そういうことじゃ……」


 渓は戸惑う美耶を見て笑う。そしてそっと彼女の身体を抱き寄せた。




「ありがとう、美耶」




 美耶は驚いていたようだが、やがてその顔を渓の方にうずめて言った。


「……私、待ってるよ。落ち着いたら私たちの街に帰ってきてよ。うずら通り商店街はもう、あんたの第二の故郷みたいなもんなんだから」




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