6章 巣立ちの時
6−1 渓の行く先
渓たちはカフェの定休日に店に集まり、有償ボランティアの市民スタッフも含めて会議を開いていた。
開店して二週間も経つ頃には客足は徐々に落ち着き始めていた。スタッフもだんだんルーチンに慣れてきたので、「カフェ・ニューネスト」の課題は一日の営業をなんとか回すことから、いかに黒字営業を目指すかへ。
そのためには一人当たりの客単価が低いことや、客が減りがちな平日昼間がネックだ。
「平日昼間だったらうちの大学の学生を呼び込むのはどうかな。大学からここまでそんなに遠くないし、学内の食堂は混んでてゆっくり過ごせないのが嫌だっていう人も結構いるから」
「確かにそれはありですね。今度二限目の授業の後に教室でビラ配ってみましょうか。真美ちゃん、ビラ作り頼める?」
「あ、はい、やっておきます」
「後はドリンクの幅を増やしてみたらどうかな。今ってコーヒーと抹茶とスムージーしかないけど、カフェラテとかカプチーノとか種類が多かったら注文も増えるかも」
渓の提案に宗介がおそるおそる手を挙げる。
「あの……ラテとカプチーノって何が違うんすか?」
「どっちもベースは深煎りで抽出したエスプレッソだよ。ラテはミルクと混ぜたやつ、カプチーノは泡立て牛乳を入れたやつ」
「ああそうなんすね! 俺、てっきり作る機械を別々にしないとダメなものかと思ってました」
慶隆は話し合いが終わった頃合いを見てカフェを訪れた。店内で明日の営業の準備をしている渓に向かって手招きする。渓は「どうしたんですか」と店の外に出てきた。慶隆は「ちょっと話さないか」と言って渓を商店街の裏にある公園に連れて行く。公団団地に住んでいる子どもたちがよく集まっている場所だ。今は遅い時間なので誰もいない。
「後輩たちはどうだ?」
慶隆が尋ねると、渓は一瞬ほっとしたような表情を浮かべて答えた。
「なんだ、こんなところに連れてこられて何の話かと思いましたよ。一年生二人は開店前に比べて会議での発言回数が増えてきた感じがします。やっぱり実際に店に立った経験が自信になったかもしれないですね」
「そうか、それはいい傾向だな」
「はい。ただビジネス的な視点はまだまだですね。市民スタッフのお二人もそうなんですけど、収支を考えずに感覚的な案を出すことが多いのでそこのコントロールが難しいです。理人はどちらかといえばビジネス視点寄りなんですけど、あいつ大人しいから後輩二人に市民スタッフ二人の計四人に意見を通せるようなキャラじゃないんですよね。やっぱりそこはまだ俺が支えていかないと」
いきいきと話す渓。そんな彼に水を差したくはなかったのだが、慶隆はその思いを押し殺して尋ねた。
「渓……お前就活は大丈夫なのか?」
大学三年生の冬。そろそろ就職活動に向けて業界研究やOB訪問を始めている学生もいる時期だ。だが渓は相変わらずマチカツ部にかかりっきりでその気配はない。慶隆は渓が望むなら自分の就職先や、他の大手企業に勤めている大学OBを紹介してやるつもりだった。しかし当の本人は首を横に振る。
「お気持ちはありがたいですけど今はやめときます。自分で考えていることもあるので」
「そうか。それならいいが……お前が変に気負ってるんじゃないかと思ってな」
「それは……」
渓は言葉を濁す。だが、だからといって慶隆の誘いに乗る気もなさそうだった。慶隆は小さくため息をついて笑った。
「お前がどんな進路を選ぼうと俺は何か言うつもりはないが、ちゃんと考えとけよ。お前自身の人生なんだから」
「はい……」
そう返事する渓の表情はどこか暗かった。
慶隆は花笑や美耶の言う通りだと思った。カフェがオープンしてからというもの、渓の様子がどこかおかしい——花笑も美耶も口を揃えて同じことを言うのだ。
慶隆の目にはそういう風には映っていなかったのだが、それはマチカツ部で活動している間の渓しか見ていなかったからだと気づく。
渓はカフェの中では普段通りに振舞っていた。だが確かにこうして店の外に連れ出してマチカツ部とは関係のない話題を振ってみると、どこか落ち着かない様子で心ここにあらずという印象を受ける。
マチカツ部のメンバーに言えない悩みでもあるのだろうか。
慶隆は目の前にいる後輩に対してもどかしい感情を覚えながらも、渓の抱えているものに対して直接踏み込むようなことは言わなかった。きっとまだ本人の中で答えが出ていないだけだ、整理がついたらきっと話してくれるだろう……そう信じて。
「俺、この土日は短期インターンで商店街に来れないんだ。悪いけど理人、店のこと頼むよ」
十一月に入った金曜の夜、閉店後のミーティングの終わりに渓は理人に対して申し訳なさそうに言った。
「それは全然構わないですけど……伊佐見さんってちゃんと就活してたんですね」
「ん? ああ、一応形だけでも始めようかなと思って」
渓は苦笑いを浮かべる。
その場にいた後輩三人は誰も表には出さなかったが、渓の言葉にほっと安堵していた。自分たちが頼りないせいで渓が進路のことに集中できていないのではと心配していたのだ。
渓が帰った後、理人は店に残って一年生二人と話していた。一刻も早く渓が手離れできるようにするためには、彼がいない今週末の営業で今まで以上の成績を残せばいい。そのためにはどうするか……作戦を練っていると、閉店後のカフェの扉を叩く音がした。入ってきたのは美耶だ。
「ねぇ。さっきすれ違ったんだけど、渓って今週末どっか旅行にでも行くの?」
「旅行? この土日は短期インターンだって言ってましたけど」
理人が答えると、美耶はうーんと首を横にひねる。
「インターンって……私服で巨大なスーツケース持って行くものだっけ」
「え……」
企業のインターンであれば普通はスーツで参加するはずだ。理人たちは顔を見合わせる。
「イサミン先輩、何考えてるんすかね……?」
「私たちに嘘をついてどこに行くつもりなんでしょう……」
不安を口に出す宗介と真美に、理人は「いや、あの人嘘をつくような人じゃないし」とフォローしたがいまいち自分の言葉に自信を持てなかった。
最近の渓は就職活動の話を振るといつも別の話題にすり替えてごまかすし、頻繁に電話がかかってきては誰にも聞かれないような場所でそれを取ることが多い。まるで後輩に対して隠し事をしているかのように映っていたのだ。
「ああもう、モヤモヤするのは嫌っす! 追いかけてみましょ」
宗介がそう言って立ち上がり店の外に出ようとした。しかしそれを美耶の腕が阻む。そして彼女は落ち着いた口調で言った。
「あんたたちは店のことがあるでしょ。ここは私に任せて」
美耶は渓に気づかれないよう後を追う。幸い彼は大きなスーツケースを持っているので見失うことはなかった。
渓は古巣駅から電車に乗り、新宿駅を目指しているようだった。美耶も彼と距離を空けながら電車に乗り込む。この夜遅くから一体どこへ行くつもりなのだろう。いや、夜中に大学生がスーツケースを持って新宿駅に行く理由なんてたかがしれている。おそらく夜行バスだ。
渓は新宿駅で降りると、美耶の読み通り夜行バスの停留所の方へと向かった。彼が立ち止まったのは金沢方面行きのバス停だった。
以前聞いた話だと、渓は北陸の生まれで親の仕事でその周辺を転々としていたのだという。
ということは帰省だろうか。そう考えているうちに乗車案内が始まってしまった。このままでは声をかけないうちに見失う。
渓がバスに乗り込んだ後、美耶は慌てて車掌に頼んで乗車券を買い車内に乗り込んだ。渓の隣は空席だ。美耶はどさっと彼の隣に座り込む。渓はようやく気づいたのか、ぎょっとした表情で美耶のことを見ていた。
「お、おい、なんでお前がここに……!」
「あんたが何も言わずにどっかに行こうとするのが悪いのよ」
美耶はむすっとしながら渓から目をそらす。渓は何か言いたげだったが、バスが進みだして車内が消灯してしまったので口をつぐんだ。
真っ暗な車内。手を伸ばせば触れられる距離の隣同士の席で、やがて渓の寝息が聞こえてくる。美耶は荷物もなしに乗り込んだ自分の身の無計画さを呪いながら腕を組んでまぶたを閉じた。
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