5−5 吐露と告白



 怒涛の勢いで夏が過ぎていった。


 学生たちは八月・九月の夏休みのほとんどをカフェの開店準備に費やすこととなった。


 ある時は高木主導で進める工事の手伝いをしたり、ある時は採用が決まったスタッフと共にメニューの試作とオペレーションのシミュレーションをしたり、またある時は宣伝用にSNSのアカウントや店舗のホームページを作ったり。


 一年生や二年生の時の夏休みは一体何をしていただろうか。渓は振り返ろうとしてみたが、退屈だなと思っていたことぐらいしか思い出せなかった。


 一方で今年の三年生の夏休みは毎日やることがぎっしりと詰まっていた。手帳を買わない主義だった彼もついに観念して文房具屋に行ったくらいだ。


 八月が終わる頃には内装工事のほとんどが完了し、マチカツ部の活動拠点は「スナックHAZAMA」から開店前の「カフェ・ニューネスト」へ。最初のうちは電気が通っていないため冷房がなく店内はサウナのような暑さに包まれていたが、それでも渓たちはなるべくカフェの方にいるようにしていた。スナックの方が作業がしやすいことは重々承知していたが、自分たちが作った店に愛着が湧いてしまって少しでも長く店内で過ごしたかったのである。


 九月に入ってからは電気やガス・水道を通し、什器・備品を設置して、がらんどうだった空き店舗がいよいよカフェらしい姿になってきていた。


 一日のルーチンや接客マニュアルもできてきて、オープン時のキャンペーンとして提供するワンコインランチのメニューも決まった。うずら通り商店街を通る人々にも次第に「ここにカフェができるらしい」というのが認知され始め、開店準備を進める渓たちに「楽しみにしてるね」と声をかけてくれる人も何人かいた。


 あとは開店までにできる限りのことをやりきって、当日を迎えるだけだ。


 そして、いよいよ九月三十日。カフェオープンの前日、二十二時。


「イサミン、まだ残っていくの?」


 花笑に尋ねられてハッとした。店内にはもはや帰る準備をしている花笑の他に誰もいない。


 理人たち後輩三人は明日実際に店頭にスタッフとして立つので早く帰らせていたのだ。四年生の二人は明日就職先で内定式があり、慶隆は会場が大阪で前日入りをしなければいけないため昼頃には帰っている。一方花笑は会場が都内なので夜遅くまで残ってくれていたらしい。


 ちなみに渓は明日店外での宣伝や店内で人員が足りない時のサポートとしての立ち位置である。後輩たちに比べれば自由が利くポジションなので、彼らの分も開店告知ポスターの準備や来店ポイントカードの作成など残りの作業に徹していた。そしていつの間にかこんな時間になっていたのだ。


「花笑さんはもう大丈夫ですよ。あとは俺がやっておくので」


 渓はそう言ったが、花笑は彼が座っている席の近くまで来るとその顔を覗き込んできた。


「ダメだよ、イサミンももう帰らなきゃ。最近まともに寝てないでしょう」


「なんか開店前で緊張というか、ハイになっているというか、全然眠くならないんですよね。だから平気です」


 花笑が小さなため息をつく。


「まさかイサミンがここまでマチカツに一生懸命になってくれるなんて、最初は想像しなかったよ」


「はは……それは俺もです」


「ねぇ、終電までもう少し時間あるし、ちょっと神社まで散歩しない? 気晴らしと、開店祈願に」


 そう言って花笑はすっと立ち上がった。照明を落とした店内の中で、彼女の顔は少しだけ大人びて見えた。渓は「いいですよ」と言って彼女の後に続く。


 うずら通り商店街のアーケードはすでに照明を落としていて、ひんやりと薄暗かった。まだ半袖で過ごせるが、それでも蒸し返すような暑さはどこかへ行ってしまった。あっという間に夏が終わろうとしている。


 アーケードをまっすぐ南へ通り抜ければそこに古巣神社がある。誰もいないその境内の中に足を踏み入れると少しだけ背徳感が湧いた。それは花笑と二人きりということも大いに関係しているのかもしれないが。


「『居座り鴉』ってなんでカラスなのか知ってますか?」


「ううん、知らないよ。イサミンは知ってるの?」


「はい。美耶から聞いたんですけど、古巣神社が祀っているのがヤタガラスだと言われているからなんだそうですよ」


 ちなみに「居座り鴉」のスキンヘッドのベーシストはこの古巣神社の神主をしているのだが、これは「レイヴン」から直接聞いた、美耶も知らない話である。


 花笑は境内の中にある神社の謂れについて書かれた石碑の前で立ち止まった。


「ヤタガラスって日本神話で導きの神様って言われているんだね。それなら……」


 彼女は拝殿の前に立つと、手を合わせてまぶたを閉じた。


「カフェ・ニューネストがこの街の人たちにとって新しい居場所になりますように」


 渓も花笑にならい、彼女の隣に立って手を合わせる。


 まぶたを閉じると色んなことが浮かんできた。明日はちゃんとお客さんが来るだろうか。市民スタッフと学生は折り合いうまくやれるだろうか。釣り銭が途中で足りなくなったりしないだろうか。慣れない接客でクレームにつながったりしないだろうか。赤川に教えてもらったメンチカツの味は再現できているだろうか。


 全部、本当は不安で不安で仕方なかった。


「俺は……ちょっと怖いんです」


 渓は花笑の隣で呟いた。


「ここまで来るのに、色んな人達に助けてもらいました。赤川さんに間さん、それに城山さん、商店主のみんな……もちろんマチカツ部のみんなだってそうだし、弦田さんとか斉藤さんの奥さんにも世話になってる」


「うん、そうだね。色んな人たちが私たちのことを支えてくれて、期待してくれているね」


「もちろんそれは嬉しいんですよ。でも、どっかで怖いって思うんです。もしカフェが失敗してみんなの期待を裏切ることになったら……俺たちの企画に付き合ったことが時間の無駄になってしまったら……そんなことを思うと、プレッシャーで息が苦しくなるんです。俺自身は大したことない人間なのに、こんなにたくさんの人を巻き込んじゃっていいのかって」


「イサミン、それは違うよ」


 花笑は落ち着いた声でそう言うと、渓の方に身体を向けた。彼女のふわりとした微笑みが月明かりに照らされる。


「みんなイサミンと何かやるのが楽しそうだから協力してくれてるんだよ」


「楽しそう……?」


「うん。イサミンは何か一つに尖っているわけじゃないかもしれないけど、誰に対しても柔軟に飛び込んでいける器用なところがあるでしょう。それも一つの才能なんじゃないかなって思うんだよね。色んな人に寄り添っていけるから、みんなが力を貸してくれる。他の誰かじゃない。イサミンだから、たくさんの人たちが支えてくれてるんだよ」


 花笑の言葉に、渓は目頭が熱くなるのを感じた。慌ててまぶたを強く押さえるが、あまり意味はなかった。手の隙間を乗り越えて涙が溢れてくる。


「俺、そんなこと言ってもらえたの、初めてで……」


 声が震えて裏返る。恥ずかしくて、渓はそれ以上続けなかった。ただひたすら、早く涙が収まってくれればいいのにと願いながらその場に立ち尽くす。


 花笑は「ごめんね、泣かせるつもりはなかったんだけど」と困ったように笑いながら渓の背中を優しくさすった。温かくて、ほっとする。彼女の手のひらの感触が、渓の中で強張っていた不安を解きほぐしていくかのようだった。


 やがて呼吸が落ち着いた頃、渓は涙を拭って彼女に向き合う。


「あの……花笑さん。俺、花笑さんに伝えたいことがあって」


「あ、私もイサミンに言わなきゃって思ってることがあって」


 二人目が合う。急に気恥ずかしくなって、お互いに「どうぞ」「どうぞ」と譲り合う。だがやはりここは先輩に譲るべきだろう。渓は押し切って花笑に先に言ってもらうことにした。


 彼女は「しょうがないなぁ」と言いながらその艶やかな髪を耳にかけ、頬を染めながら少しだけ俯向く。




「イサミン、私ね……」




 渓はごくりと唾を飲み、花笑の唇から紡がれる次の言葉を待つ。神社の境内はやけに静かで、風で木の葉がこすれる音とか、どこかで夏虫が鳴く声とか、そんなものがやたらと大きく聞こえた。


 やがて花笑はおもむろに口を開く。










「私、実は……慶隆くんと付き合うことになったんだ」










「……はい?」




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