5−2 スクラップ・アンド・ビルド
渓のスマートフォンに着信があったのは、大学の講義でうとうととしている最中のことだった。
待ち受け画面に表示されているのは弦田の電話番号。渓は教授に勘付かれないようそっと足音を潜めて教室を出た。
「はい、伊佐見です」
『弦田です。今、大丈夫ですか?』
「大丈夫です。もしかして……!」
『はい。君たちが申請した補助金が無事通りました』
「本当ですか!!」
思わず大きな声が出て廊下中に声が響いた。他の生徒たちに不審な目で見られ、渓はハッとして声のボリュームを落とす。
「その、金額は……」
『ちゃんと全額許可が出ましたよ。他に応募している団体がいなかったので、思う存分使っていいとのことです』
「良かった……!」
渓は思わず「ありがとうございます」と電話の向こうにいる弦田に頭を下げる。弦田は落ち着いた調子で『君たちの努力の賜物ですよ』と言った。直接顔を見ていないせいかもしれないが、いつもドライな彼の声に少しだけ温もりが灯っているような感じがした。
『今月度の出費から補助対象になるので、できることから進めてください。まずは……』
弦田の言葉を聞いて、喜びに浮かれていた渓の胸に縫い針を刺すかのような痛みが走った。最初にやらなければいけないこと。それは「お肉のあかがわ」の解体だ。
久しぶりに会った赤川は以前よりも少し太ったような印象だった。毎日店頭に立っていた頃よりも運動量が減ってしまったせいらしい。「今なら俺の腹の肉は霜降りだぜ」などと冗談を言うくらい、話しぶりは変わらず陽気な肉屋の店主のままだった。だが、杖をついて腰をかばいながらゆっくりと歩くその姿を見ていると、突如訪れた老いが彼の身体を蝕んでいるのを感じて痛々しい。
渓たちはこの街に元気を取り戻そうとしている。だが元気が戻ったとしても、時間が戻ることはない。常に常に前に進み続ける。
赤川もそのことを理解している。だから渓に呼ばれてこの場所に来た。かつての彼の店が解体される日に。
「赤川さん、最終確認をお願いします」
工事の業者と解体するものと残すものの確認作業を終え、赤川と渓は並んで解体工事の様子を見守った。天井が剥がされ、壁が剥がされ、床が剥がされ、何十年も街の人に愛されてきた店はアーケード街のコンクリートの箱の中の更地へと変わっていく。
「結局カフェをやることになったんだっけ? お前ら若者らしい発想だよなぁ。俺たちオッサンにはとても考えつかないよ」
赤川に声をかけられ、渓はびくりとした。
彼の声音は普段とまるで変わらなかったからだ。目の前で自分の店が崩れていくのに、いつも通り明るい調子で話しかけてくる。
本当は悔しいのをこらえているんじゃないか、あの時代わりにビールケースを持とうとしなかった自分を恨んでいるんじゃないか。
渓は不安だった。赤川になんと声をかければいいのか分からなかった。彼を励ますような言葉が自分の中には見つからなくて、喉が詰まるような思いで立っていたのだ。
すると赤川はそんな渓の考えを察したかのように「ああ!」と言うと豪快に笑いだした。笑いすぎて腰に痛みを覚えるくらいに。
「そうだそうだ。俺、お前に大事なことを言うのを忘れてたわ」
「大事なこと、ですか?」
「うちの店の場所、引き継いでくれてありがとうな」
「……!」
「俺は嬉しいんだよ。うちの店がまるで生まれ変わるみたいでさ」
「赤川さん……」
「本当はずっと気がかりだったんだ。いつか自分が店を続けられなくなったらこのうずら通り商店街はどうなっちまうんだろう、って。この店が空いたら三店舗連続で空きになっちまうだろ。自分が店をやってた場所がそんな風に寂れていくのはやっぱり見たくなくてな。だから……みっちゃんからお前が店をやるって言い出したっての聞いた時はオッサンのくせに思わず泣いちまったよ」
「そんなこと言われたら……今度は俺が泣きたくなるんですけど」
渓が鼻をすすると、赤川は強い力でばんばんと彼の背を叩く。
「よく決心してくれた。ありがとうイサミン」
赤川は「ほらほら、泣きたいなら泣け泣け」とからかったが、渓は首を横に振って自らの頬を叩いた。
「開店するまで、気は抜けないですから」
解体工事の様子を見守りながら、彼はそう自分に言い聞かせた。
その頃、「高木家具店」の店頭には珍しい客が立っていた。
「城山。また今日も来やがったのか」
店の中から作業服を着た高木が出てきて不機嫌そうに言った。城山はゆっくりと顔を上げる。
「ああ、何度でも来るさ。お前がマチカツ部に協力する気になるまで」
マチカツ部。その単語を聞くなり高木の顔がカッと熱を帯びる。
「出資金はもう払っただろ! それで勘弁してくれよ。これ以上は関わりたくねぇんだ。あんなガキどもの遊びに付き合うくらいなら、当たらねぇ馬券でも買った方がマシだね」
高木はそう言って店の扉を閉めようとする。しかしその手を城山が阻んだ。
「お前は本当にそう思っているのか」
城山の低い声に高木は押し黙る。
「伊佐見たちの活動のこと、本当にまだ遊びだと思っているのか? 違うだろう。そんなことを見抜けないほどお前は鈍い男じゃないはずだ」
「……放っておいてくれ。俺はこれから出かけなきゃならねぇんだ」
高木は城山を押し出そうとした。しかし彼の力は強く、揺るがない。
「お前が力を貸さないというなら、俺はあいつらに個人融資をするつもりだ」
個人融資。つまり城山が自らの資産を学生たちの活動に貸し出すということ。
「……ハッ」
高木は鼻で笑った。しかし城山の表情は変わらなかった。それが彼の感情を逆撫でる。
「城山……ふざけるのも大概にしろよ。ついにボケたか? なぁ、どうしてそんなにあいつらに入れ込む? 地域活性化のボランテイア団体なら今までいくつかうちの商店街に来ただろ。で、どこも途中で投げだした。商店会長のお前が一番よーくわかってるはずだ! うずら通り商店街はもう、よその奴らがふらっと来てどうにかなるレベルじゃないんだよ! なのになんであんな世間知らずのガキ共を信頼しようとする!? 自分の金を使ってまで! 俺には理解できねぇ!」
それでも城山は淡々と言葉を返した。
「確かにあいつらは学生で四年間しかここにいないよそ者だ。だが、だからこそ必死でその短い間に何かを残そうとする。ずっとこの街にいる俺たちには持ち得ないエネルギーだよ。俺はそれに賭けてみたいと思ったんだ」
高木は知っている。
商店会長・城山。この男は自分にも他人にも厳格な男で——そんなお堅いところが高木と合わずぶつかることもしばしばなのだが——彼が認める相手というのはそうそういない。
高木自身、一時期はこの男を支える商店街のナンバー2になりたいと思っていたこともあった。だがそうなるためにはハードルが高すぎると悟った時、彼は城山に反発する方向で彼と渡り合おうとした。
そうして保ってきたはずの高木の中での均衡が、今ぐらぐらと揺れている。
「……勝手にしろよ。俺は知らねぇ」
高木は城山と目を合わせずにそう言うと、バタンと強く扉を閉めた。その声はいつもよりひと回りもふた回りも小さく縮こまっていて、扉を閉める音にかき消されてしまったことに彼は気づいていない。
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