5章 怒涛の開店準備

5−1 夏の始まり



 商店会で企画が通って、それから二週間後。


 渓はカフェのカウンターに立っていた。当然、自分たちが企画したカフェが開店したわけではない。今は補助金の審査結果待ちなので「あかがわ」の内装の解体さえ進んでいない状態だ。彼が今いるのはピーコックストリート沿いのチェーンのカフェである。


 客がカウンターの前に向かってきた。渓は指導担当の他の店員に小突かれ、頭の中で研修中に叩き込まれたマニュアルを反芻しながら客に向かって精一杯の笑顔を作る。


「いらっしゃいませ、ご注文をどうぞ」


 だが、よくよくその客の顔を見て渓の表情は一気に真顔になってしまった。


「よう、伊佐見久しぶり」


「相沢!?」


 注文をしに来たのは公認会計士試験の予備校に共に通っていた相沢だった。まさかこんなところで彼に会うとは。うろたえる渓には構わず、相沢は慣れた風に言った。


「店内で、キャラメルマキアートのエスプレッソとキャラメルソース多め、グランデサイズひとつで」


「お前、わざとじゃ……フォーヒアアイスダブルグランデエキストラソースキャラメルマキアート!」


 渓がたどたどしく覚えたてのコーリングをドリンクを用意するスタッフに向かって叫ぶと、流暢な復唱が返ってきた。カウンターの向こうで相沢がくっくと笑いをこらえているのが見えた。渓はぶっきらぼうに値段を伝えて会計を済ませる。


「伊佐見、カフェバイトなんて始めてたんだな。メッセージ送っても全然返信ないし、予備校もいつの間にかやめてたから何してるのかと思ったら」


「……悪かったよ。俺も最近までは迷っててうまく返信できなかったんだ。けど、もう覚悟が決まった。会計士になるのはやめるよ。やりたいことができたんだ」


「『マチカツ部』だっけ?」


「な、知ってたのかよ」


「そりゃあれだけ目立つ勧誘とか、お花見のゴミ拾いボランティアとかやってるの見たからさ。このバイトもそのサークルに関係あるわけ?」


「うん。今度空き店舗を使ってカフェ事業をやることに決まったんだ。そのためにオペレーションとか勉強しとこうと思って」


 相沢のドリンクの用意ができて、彼はドリンクカウンターの方へと呼ばれた。巨大でクリームたっぷりのキャラメルマキアート。大学生にもなってあんな甘ったるいものを頼むなんてどうかしている。渓はうんざりした表情でそれを眺めた。


 二十歳を越えると心よりも先に身体が大人になる。舌だって同じだ。中学生や高校生の時にはいくらでも食べられたスイーツは、今や食べた分だけ脂肪に変わるし甘すぎると歯に染みる。


「なんか、お前だけ大人になっちゃった感じがするなぁ。けど、俺も負けないからね」


 相沢はストローでクリームをすすってにっと笑う。渓は頷いた。そうだ、負けてはいられない。同じ土俵に立っていなくてもそれぞれが自分の将来に向かって挑戦を始めている。大学三年生とはそういう学年なのだ。






 バイトが終わって「スナックHAZAMA」に向かう。


 扉を開くと、中にはすでに他のメンバーが集まっていた。皆が一つのテーブルを囲んでいる。そこに広げられている一枚の紙。美耶の描いたカフェの図面だ。


「イサミン先輩! カフェバイトお疲れ様っす!」


 渓が入ってきたことに宗介がいち早く気づく。渓は「続けて続けて」と言いながらテーブルに合流した。


 テーブルに広げられている図面を見る。色んな人が気兼ねなく入れるように通り沿いはすべてオープンな雰囲気のガラス張り。入り口と店内はなるべく段差を少なくしてバリアフリーに、店内にパーテーションは設けず開かれた空間にして、中央には掘りごたつ席を置き色んな人が一つの卓を囲めるようにする。


 まさにコンセプト通りの間取りだ。


「すごいなぁ。さっすが美大生」


「言っとくけど、私建築は専門じゃないからね。こんなの建築学科の子に見せたら笑われるよ」


 そう言いつつも美耶は褒められたことが嬉しかったようだ。頬がほんのり赤らんでいる。


「間取りの基本はこれで良さそうだな。他には……」


 渓はテーブルを囲うメンバーたちの顔を見る。


 彼らは補助金申請が通れば十月にはカフェをオープンさせようとしている。時間が経てば経つほど空き店舗の家賃が発生して赤字が大きくなるからだ。結果が出るのは七月頭。あまり余裕はない。だから補助金の申請結果が出る前にできる準備は進めておこうと、それぞれに役割分担をしてあるのだ。


「メニュー開発の方は」


 口を開いたのは花笑だ。彼女の就職活動は残すところ最終選考のみとなり、時間ができたので本格的にマチカツ部の活動に復帰できるようになったのである。


「私と真美ちゃんで間さんに手伝ってもらいながら順調に進めてるよ。私は料理ってあまり得意じゃないんだけど、真美ちゃん器用だから助かってる。商店街のお店とのコラボについては慶隆くん、どう?」


「ああ。こっちも順調だ。今のところ赤川さんと麦田さんのところのコラボ商品のメンチカツサンド、みどりばあちゃんの特製スムージー、安城さんのところの和菓子はカフェで出してもいいそうだ」


 渓は話を聞いて頷く。メニュー開発は元からマチカツ部に協力的な間がいるのでそこまで心配していなかったし、商店主たちから信頼の厚い慶隆ならコラボ商品の交渉もうまくいくだろうと踏んでいた。


 だが一つの店を開くにはまだまだ問題が山積みだ。


 理人は自前のノートパソコンを開きながら呟く。


「飲食業やるには食品衛生責任者の資格を持っている人が一人は必要らしいんですよね。一日講習を受ける必要があって、受講料も一万円かかるみたいです」


「一万円か……意外と痛い出費だな」


 頭を抱える渓に構わず理人は続ける。


「会計システムはタブレット端末でアプリを使えばなんとかなるんですが、タブレット端末自体がないのでこれも購入するとしたら最低でも一万円はかかりますよね」


「う……」


「それに什器・備品……喫茶店業となると揃えるものが大量にありますね」


「うう……」


「あとはスタッフの賃金です。僕たち学生は平日昼間は授業があって店舗を運営できないので、代わりにお任せできるスタッフを雇う必要があります。ただ東京都の最低賃金は時給932円ですよ。一人雇うだけでもけっこう大きな出費です」


「そうだよな……」


 渓は深いため息を吐いた。


 彼らが補助金で申請したのは上限の300万円だ。うち60万円はうずら通り商店街の加盟店20店舗から3万円ずつ出資してもらっている。しかし一般的にカフェ事業の開業資金は平均500万円。これを300万以内に抑えていくには工事を自分たちの手でやったり、備品をレンタルあるいは中古で揃えたりと節約をしていかなければいけない。


「特に問題は工事だよな……」


 間違いなく一番費用がかかる内装工事。これをいかに抑えられるかが資金的な余裕の決め手となる。


 渓は美耶が描いた間取りと、以前赤川の店の内部を撮った写真を並べながら彼女に修正点を伝えた。赤川の店に元々あるフライヤーと冷蔵庫、そして従業員用として使っていたトイレ。これらをいかに現状の配置のまま店に活かせるかが工事費節約の第一歩だ。


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