3−5 進むか退くか迷いの三月




『お前最近予備校来てないよな。大丈夫か?』


 スマートフォンが震えて何かと確認すれば、相沢からのメッセージが届いていた。渓はそれに返信することなく、再びジーンズのポケットの中にスマートフォンをしまう。


 三月もすえとなった。


 古巣市の中心街であるピーコックストリートの両脇ではちらほらと桜が咲き始めているが、うずら通り商店街は相変わらず薄暗くて人通りは少ない。


 合格発表の日から二週間。たびたびうずらちゃんの着ぐるみで配布したことで、印刷済みのフリーペーパーの部数は残りわずかとなってきた。


 今日だって駅前で配ってみたが、何人かは手にとって興味深そうに中身を見てくれていた。


 感触は悪くない……はずだった。


 スマートフォンがもう一度震える。


 渓は渋々、再びポケットに手を伸ばした。


『知り合いの会計事務所で長期インターンさせてもらえそうなんだけど、お前もどう?』


 相沢から立て続けに送られてきたメッセージに、渓はぴたりと足を止めた。


 インターンシップ。最近あらゆる企業が学生向けに実施している職業体験のようなものだ。長期インターンでうまくやればその企業で内定がもらいやすくなるという噂もある。だが場合によっては平日長い時間拘束されることにもなるので、参加すると決めたらアルバイトやサークル活動の両立は難しい。


 ふと足元に視線をやれば、閉まったシャッターと地面の隙間に砂埃で汚れたフリーペーパーが挟まっているのを見つけた。


 渓はそれを拾って砂を払うと、相沢のメッセージに対し『考えとく』と短い返信を送る。


 マチカツ部で活動し始めてもうすぐ三ヶ月。彼の中には迷いが生じ始めていた。


 商店街のためになると思って始めたフリーペーパーだが、未だに店に置いてくれない商店主もいるし、どれだけ配布しても新しい客がやってきたという感じがしない。


 以前掲載店舗にクーポンの利用状況を聞いて回った時、商店主たちから返ってきた答えに愕然とした。クーポンを使っているのは初めてこの商店街にやってきた人ではなく、昔からこの商店街を使い続けている常連客ばかりなのだという。


(俺たちがやっていることは、本当にこの街のためになるんだろうか……)


 うずら通り商店街は創業五十年。対する渓たちはつい先日二十歳を超えたばかりの学生。


 商店主たちに初めてフリーペーパーを見せた時の感覚が再び浮き上がってきていた。


 自分たちが何かを必死にやったところで、この街にはさほど響かない。


 それでもお祭りの手伝いとか着ぐるみを着てフリーペーパーを配るのは間違いなく「楽しい」と感じていた。それ自体が嫌になったわけではない。だが何も形に残せないことにこれ以上時間をかけていていいのか……そういう漠然とした不安が少しずつ膨らんできていた。




 渓が一人迷い始めているのは、先輩二人の環境の変化というのもあるかもしれない。


 少し期待して「スナックHAZAMA」の扉を引く。そして「今日もか」と肩を落とす。


 中にいたのははざまと赤川の二人だけだ。


 花笑と慶隆は最近就職活動の予定が多く入っているのか、以前よりもうずら通り商店街に姿を現すことが減っていた。それに影響されてか、理人が来ている回数も心なしか減った気がする。


「あら? どうしたのイサミン。元気ないじゃなーい」


 猫なで声をあげながらすりよってくる間を適当にあしらいながら、渓はどさっとカウンター席に座り込んだ。赤川が渓の隣の席に移動して声をかけてくる。


「お前がふさぎ込んでるなんて珍しいなぁ。何かあったのか?」


「いや……」


「たまには俺らと飲もうぜ! 花のないおっさんばっかで良けりゃおごってやるから」


「あらやだ、アタシというローズを前にしてそんなこと言う?」


 間はファンデーションとチークを塗りたくった頬を膨らませながらビールを注ぎ、カウンターに二つ並べた。


「まだ昼間なんですけど……赤川さん、お店は大丈夫なんですか?」


「ん? 大丈夫大丈夫。この時間はどうせ客こねぇからさ」


「そう、ですか」


 渓は俯きながら呟いた。


 巻頭インタビューの赤川の店でさえ、フリーペーパーの効果が表れていない。やっぱり自分たちがやったことは意味のないことだったのだろうか。


 すると、隣の席からいきなりガバッと肩を組まれた。ビールがグラスの中から跳ねる。


「ああもうっ! どうしたってんだよ、イサミン! 何か困ってることがあるなら話してみろ、な? 俺ぁお前らなんかよりは全然頭良くねぇけどよ、それなりに長く生きてんだ。何か力になれることがあるかもしれねぇからさ。お前らは大人の知恵を利用するくらいの気持ちでいりゃいいんだって」


「……どうして」


 渓はビールグラスをテーブルに置き、隣に座る赤川の方へと姿勢を向ける。


「どうして赤川さんたちは俺たちのためにそこまでしてくれるんですか? 何の見込みもない俺たちのために。お金使ってフリーペーパー作っても、結局何も変えられてない……! 俺たちに付き合うだけ時間の無駄かもしれないんですよ?」


 赤川は渓の話を真面目な顔をして聞いていたが、やがてふぅとため息ひとつついた後でくっくと背中を震わせながら笑い出した。


「な、なんで笑うんですか」


 赤川は笑いすぎて目尻に浮かんだ涙をぬぐいながら言った。


「あのなぁ……お前、背負いこみすぎなんだよ」


「どういうことですか?」


 渓が尋ねると、赤川はビールグラスを一気に煽ってから彼に向かってびしっと指差した。


「いいか。プライドなんか捨てちまえ。初めっから何でも上手くできるやつなんているもんか」


「……!」


「俺だってなぁ、今でこそここらのナンパ界隈じゃ『百発百中のあっくん』って異名をもってるがよ」


「”異名”じゃなくて”自称”ねん」


「おいみっちゃん! 俺がいい話してる途中で突っ込んでくるなっつーの! ……とにかくだ。女を誘うのだって最初から上手くいくわけじゃねぇ。勇気出して声をかけてもダメで、だけど何度か繰り返しているうちに少しずつどうすれば良い反応が返ってくるのか分かってきて、それでようやく成功パターンを掴むんだよ」


「成功パターン……」


「誰もお前らが一発で成功するなんて思っちゃいねぇ。この街の難しさは俺たちが一番よーく知ってんだ。失敗したって誰も責めねぇよ。だけど、勘違いしちゃいけねぇ。お前たちがやってることは無駄なんかじゃない、少しずつこの商店街を変えてる」


「俺には……そうは見えないですけど」


 渓がそう言うと、赤川はやれやれと肩をすくめる。


「例えばだ。みどりばぁちゃんの店に最近大根とかサツマイモとか重い野菜が増えててな。お前らが段ボール運んでくれるから、今まで注文を避けてたやつを入荷できるようになったんだって言ってたぜ」


 赤川は「それに」と言って続けた。ラーメン屋はさりげなく大盛り無料サービスを始めたし、市役所の弦田からはうずらちゃんを小学校のイベントに出さないかという打診が来ているし、あの厳格な城山が時折赤川に対して「学生たちはどうだ」と尋ねに来るのだと言う。


「俺、知らなかったです……そんな風に思ってもらえていたなんて……」


 話を聞いていて渓は目頭が熱くなるのを感じ、冷ますかのようにビールを飲み込んだ。だがアルコールが回って余計にぽかぽかと身体が温かくなってくる。それに、気持ちも。


 赤川はにっと笑うと、渓の背中を力強くたたいた。


「そういう小さなところからやっていきゃ良いんだよ。それが積み重なっていつかデカくなっていくんだから」


「赤川さん……」


「それに俺だって、お前らみたいな若いもん見てたら負けてらんねぇなって思うわけよ!」


 そう言って赤川はポケットから三つのメモの切れ端のようなものを取り出す。それぞれに色合いが違う。そこに書かれているのは女性の名前と連絡先のようだった。


「そっちですか!!」


「おうよ。俺もまだまだ現役だからな!」




 カウンターのビール瓶が空になり、間はおかわりを出そうとしたがどうやら厨房に置いてあるストックが切れてしまったらしい。間は赤川の足元に置いてあるビールケースを取ってくれと頼む。赤川は「お安い御用さ」などと口笛を吹きながら床のビールケースに手を伸ばしたその時だった。


「——!!!!」


 赤川の動きがピタリと止まる。


「赤川さん……?」


 先ほどまで笑っていた男の顔がみるみるうちに引きつっていく。彼はゆっくりとした動きでその場に沈みこんでいく。


「あっくん、どうしたの? ビールケース見つからないのん?」


 間はカウンター越しで気づいていないようだったが、近くで見ている渓には何が起きたのかおおよそ察しがつき始めていた。


 やがて赤川は腰を押さえながら蚊の鳴くような声を絞り出す。


「こ、これは……やばい……頼む……竜三りゅうぞう、救急車を……」


「えっ、ちょっと、やだあっくん! こういう時に本名で呼ばないでぇーっ!」


 ようやく事態を把握した間が悲鳴をあげながら電話で救急車を呼ぶ。赤川の呼吸は浅い。眉間に深いしわを寄せながら必死に痛みに耐えているようだった。


(え……ちょっと待ってくれよ……そんな、赤川さん……っ)


 渓はどうしたらいいのかわからないまま、救急車が来るまで赤川のそばで立ち尽くしていた。



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