1−5 いつの間にニックネーム
あの雪の日から一週間くらいが経った頃だった。
冬学期の最後の授業が終わり、渓は同じ予備校に通う友人・
「そういえばお前のところにもこないだの試験の結果返ってきた?」
「ああ、うん」
渓は生返事をする。「こないだの試験」とは大学の期末テストのことではない、十二月にあった公認会計士試験の一次試験のことだ。
「相沢はどうだった?」
「んー、まぁまぁかな」
その返答に、渓は苦笑いを浮かべる。
相沢がまぁまぁと言う時はだいたい合格ラインの点が取れている時だ。なんせ彼は両親共に公認会計士のサラブレッドな家系である。知り合いが一人でも同じ予備校にいるというのは心強い反面、相沢の存在は渓にとってコンプレックスを加速させる存在でもあった。
(こいつ、悪い奴じゃないんだけどな……)
渓は相沢の顔を見ながら思う。見た目は普通の大学生ながらあまりサークルとか飲み会で騒ぐことには興味がなくて、昨日動画で見たお笑いの話から資格試験の勉強の話まで、いろんな話が気兼ねなくできる友人。
だけど時折資格試験への熱心さの違いに打ちのめされそうになる。
彼は両親の期待を背負いつつ、公認会計士になって企業会計の仕組みを変えたいのだという。対する渓の受験の動機は商学部だから、手に職あって便利そうだから、金持ちになれそうだから……以上。
「伊佐見の方は?」
「俺は……」
言えるような点じゃない。
渓はうなだれた。もうやめてしまおうか。正直そう思っているのだが、「一緒に公認会計士になろうな」なんて目を輝かせる相沢の顔と、予備校に投資してきた授業料が頭をよぎって言い出せずにいる。
ちょうどいいタイミングで交差点にたどり着いた。渓の家はここから西の方に曲がる。相沢は市外から通っているのでこの道をまっすぐ北へと進んで駅へと向かう。
「んじゃ、俺こっちだから」
「おう、また学校でな」
軽く手を振って渓は交差点を曲がった。相沢と別れてほっとしたのもつかの間、渓はハッと道の先を見やる。
(そういえばこの道ってあの商店街を横切るんだったな)
(花笑さんたち……本当に何かするつもりなのかな)
どうせ一瞬の思いつきとかなんじゃないだろうか。学生なんてそんなものだ。何かやってみたいと息巻いても、結局できることなんてたかがしれている。中途半端に終わるか、やらずじまいか。花笑たちもそうかもしれない。
ならそう気にする必要はないじゃないか。向こうだって思いつきだったのだ。それに振り回されたというだけで、こっちは堂々と突っ切ればいい。
そう思っていたのに——
「イ・サ・ミ・ン!」
「ひぃっ!」
いきなり肩を叩かれ思わず声が裏返ってしまう。渓は恐る恐る振り返った。背後にはあのスナックの店主がいた。
「やだー、もうアタシの顔忘れちゃったのん?」
「いやいや、忘れたくても忘れられるわけないでしょ。ってかイサミンってなんですか」
さながらゴマの成分のようである。
「君のニックネームよぉ。伊佐見くんだから、イサミン。渓って名前もカッコいいけどぉ、なんかいじりがいがなくってねぇ」
渓は目を丸くする。
「俺の名前……覚えてくれてたんですね」
「当たり前でしょー。お店に来てくれたお客さんのことはきちっと覚えてるんだから。わざわざうずら通りに来てくれる若い子たちなんて貴重だしねぇ」
渓はどきりとする。渓の方はこの店主の名前を忘れてしまっていたからだ。顔は強烈な印象だったので覚えていたのだが、名前が出てこない。
「間よ。ハ・ザ・マ。でも『みっちゃん』でいいわよう。知り合いもお客さんもみんなそう呼んでるから」
間はそう言ってばちんとつけまつ毛がふさふさと茂る瞳でウインクをする。
「……お見通しですか」
「目を見ればわかるわよん。あなた一瞬うちの店の看板探したでしょう」
渓は苦笑いするしかなかった。スナックの看板に店主の名字が使われていたことは覚えていたのだ。
「まぁアタシのことは顔を覚えてくれてるだけ良かったけど、あなたこないだ一緒にいた学生の子たちの名前はちゃんと覚えてるの?」
「うっ、それは……」
「もしかして花笑ちゃんの名前しか覚えてないなんてことないわよね」
「すみませんその通りです」
間はあからさまに深いため息を吐いた。その横顔には年季の入った中年男性の面影が浮かぶ。
渓は他人の名前を覚えるのが苦手だった。というより、覚える気がなかった。どうせ一瞬の付き合いだからという思いが無意識にそうさせる。幼い頃からの転勤族の生活で身に染み付いてしまった習慣の一つだった。
それは渓の方だけではなく、渓と関わってきた人たちも同じだった。色んな土地を転々とする彼のことを覚えてくれている人は少ない。成人式に出なかったのだってそれが理由だ。わざわざ顔を合わせて「お前誰だっけ」なんていう屈辱を味わうくらいなら、いっそ自分から身を引いてしまった方がいい。
だから余計に、たった一回会っただけの間に名前を覚えられていることは渓にとっては衝撃的であり、同時に気まずかった。
間はしばらく何かを考え込んでいるようだった。今のうちにと思って渓はそろりと彼から距離を取ろうとしたが、その意図に反して力強く腕を握られてしまった。
「まぁいいわ、ちょっとついてらっしゃい」
「え、どこ行くんですか?」
「見学くらいして行きなさいよう。別に減るもんじゃないでしょう? あなた特段忙しそうな感じもしないし」
「それは……まぁ、否定できないですけど……」
「よし! なら構わないわね」
勢いのまま渓は間に引っ張られていく。
ちょうど予備校もやめようと思っていたところだなんて言ったら、ますますつけこまれそうだ。渓はなるべく余計なことを言わないよう黙っておいた。
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