1−4 マチカツへの誘い
花笑がスナックの扉を開く。カウンターに、テーブル席が三つ。店の奥には箱形のテレビとカラオケのセットが置かれていた。壁は間接照明のせいなのかタバコのヤニのせいなのかわからないがくすんだ色をしていて、十年くらい前のものと思われる飲料会社のポスターが貼られている。
「あーら、花笑ちゃん。いらっしゃーい」
左手のカウンターから猫なで声が響いた。高音ではない、低音の。カウンターの向こう側に立っているのはラメの入った黒いドレスで身を包んだ小柄な男で、おそらくかつらであろう紫色のボブの髪に、顔には派手な化粧をしている。
彼はべったりと赤く塗られた唇に指を当てながら渓の方をじっと上目遣いで見た。渓の体感温度が三度下がる。
「この子どうしたの? 新人ちゃん?」
「ううん、違うの。でもこれから勧誘しようかなと思って」
花笑は相変わらず穏やかな笑顔でそう言ったが、渓はより一層身が冷える思いがした。今から一体何に勧誘されるというのだろう。
「あらやだー、曖昧ミーマインねぇ」
男はくねくねとした歩き方で渓のそばまで近づくと、ぐいっと顔を近づけて凝視してきた。そのじとっとした視線に、渓の肌の表面が粟立つ。
「ふんふん。いいわねー、伸びしろありそうな子じゃない! だって見て、このいかにも大学デビューしましたって髪型! とりあえず校則から解放されて茶髪パーマにしてみたかったって感じでしょ。こういう子は調教のしがいがあるわよう。うまく引き入れなさいな!」
渓の後ろに立っている青年は呆れたようにため息を吐いて言った。
「そのためにはまずこいつから離れてやってくれ、
「んもー、妬いてるのぉ? 大丈夫よ、アタシはよしたかっち一筋だ・か・ら! あと、アタシのことは『みっちゃん』って呼んでって言ってるでしょ? 堅苦しいのはナシ!」
間と呼ばれた店主は口を尖らせながら彼の肩をちょんと小突くと、カウンターの中へと戻っていった。
(こいつら一体どういう関係なんだよ……!)
いぶかしむ渓の気はよそに、花笑は彼を奥のテーブル席へと案内する。そこにはすでに一人の細身で眼鏡をかけた青年が座っていた。眼鏡の奥からまるで怪しい人間を見るかのような視線を向けられ、渓はもう目が回りそうな思いだった。
テーブル席には眼鏡の青年と花笑が向かい側に座り、渓の隣にはガタイのいい青年がどさっと座る。逃げられないようにするためだろうか。
「あの……俺は何でここに連れてこられてきたんでしょう……?」
渓は震える声で言った。花笑と他の二人が顔を見合わせる。目の前で三人しか通じないアイコンタクトが交わされ、ますます肩身が狭い。やがて他の二人が頷き、花笑も「分かった」と言って渓に向き直った。
「じゃあ単刀直入に言うね。私たち、一緒に活動してくれる人を探してて」
「活動って、何の?」
「マチカツ……つまり、街で活動するの!」
街で活動する——その言葉から渓は活動内容を連想した。街頭演説、デモ行進。普段政治に無関心なせいで文字どおり右も左も分からない渓にとってはハードルが高すぎる活動だ。
「すみません。俺、政治的なことはちょっと……」
「政治?」
目の前の花笑はきょとんと首を傾げた。どうも違うらしい。ほっとはしたが、ならばどんな活動をするというのだろう。
「一般教養の『まちづくり』って授業知ってる?」
「ああ、あの……」
単位がとりやすいことで有名な授業だ。
大学には卒業要件という、四年間で取得しなければいけない単位がある。所属する学部の授業の単位が中心だが、一般教養と呼ばれるどの学部にも属さない単位もいくつか取らなければならない。学生たちは一般教養の科目には興味が薄いので、なるべくテストや出席のハードルが低い授業を選んで履修することが多い。
「まちづくり」という授業はその中でも特に単位がとりやすいということで有名だった。噂によると、出席を取られることはないし、最後に大学のあるこの古巣市のまちづくりに関して所感をA4一枚にまとめて提出すれば単位が来るのだという。
渓もこの冬学期に履修しているが、最初のガイダンスだけ聴講してあとは一度も講義に出ていない。
「私たちはその授業で知り合ったの。紹介するね。伊佐見くんの隣に座ってるのが
慶隆がにかっと白い歯を見せて笑い、「よろしくな」と言って手を差し出してきた。
なんだ、カタギの人間だったのか。確かにラグビー部ならこの体型にも納得が行く。
それでもまだ油断がならないような気がして、渓はおそるおそるその手を取る。しかし慶隆の方はそんなこと気にせず、強い握力で手を握ってきた。渓は思わず悲鳴を上げる。
「それで、私の隣にいるのが情報学部の
理人は慶隆と違いちっとも愛想よくするそぶりは見せなかった。むすっとした表情のまま、小さな声で「よろしくお願いします」と呟く。
このままだと自分に自己紹介の番が回ってきそうな気がして、渓は「いやいや」と流れを阻んだ。
「待ってください、冬学期の授業はもう一月いっぱいで終わりですよね。二月からは春休みですし。この時期から何やるつもりなんですか?」
「授業のためじゃないんだよね。授業をきっかけに、この街のために活動する学生ボランティア団体を作ってみたいなぁって思ってるの。だから、先生から授業を履修してた人の名簿をもらって一人ずつ勧誘しているんだけど……」
渓は眉間にしわを寄せた。理解ができない。大学の授業なんて社会に出る前の通過点だ。無事に単位をとって卒業できればそれでいい。たかだか一般教養の授業に夢中になるなんて、渓には無い発想だ。
だからつい「どうしてそんなことしようと思ったんですか」なんて少し棘のある言い方で尋ねてしまった。
しかし花笑は気にすることなく、にっこりと微笑んで言った。
「私のおじいちゃんち、商店街の駄菓子屋さんなの。だけどこのうずら通り商店街みたいにどんどん空き店舗が周りに増えてきて、おじいちゃんのお店も経営が危なくなって。おじいちゃんはあと数年したらお店を閉めるって言ってるんだけど、やっぱりそれって寂しいでしょう。だから私、大学にいる間にまちづくりのことを学んで、地元に何か返せないかなって思ってるんだ」
「そうなんですか……そういう理由で……」
自分から尋ねたにもかかわらず渓は押し黙った。
花笑の言葉は彼には重かった。彼女にそんなつもりがないのは知っている。だがそれが無邪気に発せられた言葉であるがゆえに、渓にとっては触られたくない部分に素手で触れられたような気がしてしまった。
(そうか、この人も一つのことに必死になれる人なんだ……俺とは違って)
花笑のことは美人で魅力的な先輩だと思うし、彼女の言っていることは夢があると思うし、確かにこの寂れた商店街は学生ボランティアでも何でも何かやらないとまずそうだってことくらいわかる。
だが渓は自分がそれに関わるイメージを描けなかった。ここで新しく手を出したところで、また中途半端なことが一つ増えてしまうだけなんじゃないだろうか。
少なくとも、花笑を超えるほどこの活動に夢中になれる気はしない。
「すみません……俺は力になれないと思うので、お誘いは断らせてもらいます」
渓はそう言って立ち上がると、呼び止めようとする花笑たちを振り切って店の外に出た。
(別に気にする必要はないよな……急な話だったし、向こうも俺にそんなに期待していたわけじゃないだろうし)
渓はぐいっとモッズコートのジッパーを一番上まで上げて、自宅へと向かって歩きだした。商店街はしんと冷えきっていて、分厚いコートの上からも染み込んでくる感じがした。
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