1−3 商店街に現れた女神



「野菜、買いに来たんですか?」


 突然声をかけられ、渓は心臓が飛び上がる思いがした。こんな雪降る夜の商店街に自分以外に人がいるなんて思っていなかったからだ。だが後ろを振り返ってそんな些細なことはどうでもよくなった。


 まず目がいったのは声をかけてきた女が着ているグレーのダッフルコートの、上から二番目と三番目の留め木の部分。そこだけ外れている。きっと胸の盛り上がりに阻まれて届かないからだ。開いたフロントの隙間から、薄ピンクの可愛らしいニットが覗いている。


「あの……」


 彼女が再び声をかけてきて渓はハッと我に返り目線を上げた。ナチュラルメイクで引き立たせた柔らかい笑顔が視界に飛び込んでくる。女神か。思わず口元を手で覆った。鼻の下が伸びていたら恥ずかしい。


「え、えっと、そうなんですけど、何で……」


 しどろもどろに答える。顔や服装の雰囲気からして自分と同じ年頃に見えるその女は、「それなら」と言って微笑むと、すっと息を吸った。


「みどりおばあちゃん! お客さんだよ!」


 今いる青果店どころか、商店街中に響くような大きな声で彼女は急に叫んだ。可憐な雰囲気からは想像もできない大きな声だ。


 いきなり大声を出して怒られないだろうか……そんな心配は杞憂に終わる。店の奥の人影がのっそり動いて渓たちの方へと歩み寄ってきた。


 店主は、髪の毛が残さず白に染まっている腰の曲がった老婆であった。


「なんじゃ、客じゃったか。静かにしとるもんだから、お天道てんと様からのお迎えが来たんかと思ったわい」


 老婆は唾を飛ばしながら不機嫌そうに言った。


 いやいや、声はかけたんですけど。渓はそう言いたくなるのを必死で堪える。店主を代わりに呼んでくれた女神のような彼女の前であまり器量の狭い振る舞いはしたくない、そう思ったのだ。


 老婆は店の中央に立つとどれを買いたいのかと尋ねた。渓が答えると老婆は慣れた手つきでそれをビニール袋に包み、「おまけも付けといちゃる」と言って手作りの干し柿を一緒に中に入れた。渓はあまり柿が好きではなかったので断ろうとしたが、声をかけようとしたら「ああ!?」と不機嫌に聞き返され口をつぐんでしまった。


「みどりおばあちゃんは耳が遠いから、大きな声で話しかけてあげないといけないの」


 隣に立っていた彼女が渓にそっと耳打ちする。その息遣いが温かくてぞくりとした。ふわりとした甘い匂いが鼻をかすめて、老婆の対応のことなどどうでもよくなってきた。


 今日は総じてあまり良い日ではなかったが、それもすべて彼女に会うためだったなら全部許せる気がする。


 こんな美人、普通に街中で会ったとして自分から声をかけることができるだろうか。いや、できない。そんな勇気はない。渓は分相応というものをわきまえている男なのだ。だが向こうから話しかけて来たとなれば話は別。たとえそれが偶然だとしても、気まぐれだとしても、千載一遇のチャンスを逃してなるものか。


 買い物が終わると、渓はすぐさま彼女に声をかけた。


「さっきはありがとうございます。えっと、あなたは……」


「あ、突然話しかけてびっくりさせちゃいましたよね。私、朽端くちばし大学社会学部三年の武森花笑たけもりはなえって言います」


「えっ同じ大学の……! 俺は商学部二年の伊佐見渓です」


 花笑は首を少しだけ傾けて、「じゃあ後輩くんだね」と微笑んだ。


 うちの大学にこんな美人な先輩がいたなんて。渓は自分を呪う。


(クソ! この二年の間、俺は一体何を見てたんだ! 教授のダサい私服のルーチン気にしてる暇があったら、もっと周りに目を向けておけば良かっただろ!)


 そもそも彼は大学の中での人間関係が希薄な方だった。入学してすぐに公認会計士の試験を受けるための予備校に通いだしたからだ。


 サークルの見学は行かなかったし、一緒に授業を受けている学生と積極的にコミュニケーションをとるわけでもなかった。定期的に連絡を取る友人はその予備校や、バイト先である個別指導塾で会った同級生くらいである。


 さてこの先輩ともっとお近づきになるためにはどうしたら……必死で言葉を選んでいると、花笑の方が先に口を開く。


「良かったらこの後ちょっとお茶していかない?」


「いいんですか!?」


 思わぬ誘いに、つい声が裏返ってしまった。花笑はくすりと笑った。


「もちろん。ついてきて。私、いいお店知ってるの」


 そう言って彼女はすっと歩き出した。


 渓はひそかにガッツポーズをする。


 いきなり美人な先輩にカフェデートに誘われた。こんなこと大学に入って初めてだ。女子に無縁な生活を送っていたから在学中に彼女を作るなんて諦めかけていたけど、いやそんなことはない。こういう出会い方だってあるのだ。


 そこまで考えてふと自分の服装に気づく。スウェットにモッズコート。ああだめだ、これはだめだ。先輩が知っているお店がもしシャレオツでコーヒー1杯500円以上するようなカフェだったらどうしよう。こんな格好じゃ恥をかかせてしまう。


「あの……」


 前を歩く花笑に、渓は「着替えてきていいですか」と一声かけようと思っていた。だが、彼女が立ち止まった店の看板を見てその必要はないと思った。


 いや、むしろ何かが違うと悟った。


 二人は今、うずら通り商店街の南側の一角にある「スナックHAZAMA」の前に立っていた。店の前には怪しげな紫色の光を放つ電飾看板が置かれているだけで、店内の様子もメニューもここからでは分からない。


「えっと……ここですか?」


「はい、ここです」


 花笑は満面の笑みで答えた。


 そうか、先輩は天然ちゃんなんだな。天然ちゃん! よーし、それはそれでありだ。というか着替える手間が省けただけましだと思おう。


 渓が自分にそう言い聞かせている時、背後から野太い声が響いた。


「ここまで来といて帰るなんて言わないよな……?」


 いつの間にか後ろにはガタイのいい青年が腕を組んで立っていた。分厚いコートを着込んでいてもわかる肩幅の広さ、腕の太さ。


(あれ……俺、もしや何かの罠にはめられてる?)


 その一瞬で、それまで南国のビーチに立ったかのように舞い上がっていた渓の心は、再び雪の降る夜の寂れた商店街へと引きずり落とされようとしていた。



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