第3話

 ビュッケ。その名を聞いたカヌルは驚いて即座にその左手を力強く握り返した。世間に疎いカヌルでさえも知っている、〈終の地下墓場〉でのあのエルフ達との壮絶な戦いの末に惜しくも倒れた勇壮な女の名であった。

 ビュッケ。タマリ。ジャン。ヴィンセント。そしてロギイン。〈明けの鴉〉のトルンが、あの酒場で大声で唄っていた名前はそんなところだったか。もしかしたら他のメンバーにも会えるのだろうか? あの勇者達に?

 パトリックと出会って以来沈みっぱなしだったカヌルの心は、今少しだけ興奮に満ちていた。


「それであんたら、いったいどんな用事なんだい」


 椅子にかけたビュッケはパトリックに向けて聞いた。


「いやあ何、この間言ってただろう、妙な新入りがいるって。何か怪しげにコソコソとしているとかなんとか。ちょっとそいつに会ってみたくてね。確か名前は……」

「イリーン」

「そうそう、そんな名前だったな。今どこにいるかわからないか」

「イリーンか。あの男ねえ」


 ビュッケは少し考え込んでから言った。


「そうだねえ、確かにあいつはどうにも怪しげな男だよ。なんだいあんたら、わざわざあんな奴を探しにこんなところまで来たのかい? あいつやっぱり、生きてる間に何かやらかしてたのかい」

「ま、幼児誘拐と言ったところだ」

「おやまあ! なんともだね」

「早いところお母さんが怒り出す前に、子供を取り返さなくちゃならなくってなあ。それはもう大変なことになるだろうからな、ハハハハハ」

「そりゃそうだろうね。さて、それじゃ案内しようかね」


 彼らは席を立ち歩き出した。


    ◆ ◆ ◆


「あいつがここから出てきたのは、ちょうど一週間ぐらい前のことだったかねえ」


 彼らはちょうど〈街〉の中心にある大きな井戸の前に立っていた。生者の領域の〈街〉では、終わることのないバザーが常に開かれているあたりの場所である。井戸の周りに人気は無く、黄色い空と黒い雲の元、あたりはしんと静まり返っていた。


「出てきたって?」


 カヌルがビュッケに言った。それを聞いたビュッケは怪訝な顔をして問い返した。


「そういえばあんたはどこから来たんだい? あんたがこの井戸から出てくるところ、あたしは見てないんだけどね」

「この男はちょっとした方法でここに旅をしに来ていてね。ま、君にも知らん入り口は少なからずあるというわけさ。今度教えてあげよう。おっと。怖い顔をするな、心配するなよ。君の待ち人は……きっと井戸から現れるはずだ。きっとだ。いつかな」


 パトリックがビュッケにそう答えた。そして彼はカヌルに言った。


「この井戸はこの死者の領域への正式な入場手段でね。みなここから入ってくる、普通ならな。そら、今も誰か死んだみたいだぞ」


 パトリックがそう言うか言わずか、井戸からは詰まった下水が流れ出すような、ゴボゴボという湿った音と臭いがしてきていた。何事かと恐る恐るその中を覗き込んだカヌルは恐怖に顔を歪めた。あの暗黒が、〈黒鉄の牢獄〉の外壁で彼を飲み込まんとしていた暗黒が井戸の奥底からせり上がってきていたのだ。思わずその場にへたり込んだカヌルの顔面に、井戸から溢れ出した黒い水が猛烈な勢いで叩きつけられた。

 咳き込むカヌルの目の前に下水の臭いの黒い水に塗れて横たわっていたのは、全裸の男であった。


「新鮮な死人だ。ハハハハハ! ようこそ、死者の領域へ!」


 パトリックが笑いながらそう言った。


「い、今のは……」


 驚いたカヌルのつぶやきを聞いたビュッケは、肘から先が無い右腕をカヌルへ振って見せながら言った。


「人は死ぬとね、あの井戸を通ってここへやってくるんだ。そして、向こうの世界に置いてきたものが腐って、砕けて、風化してしまうまで、この世界で暮らすのさ。そうやって出来ているんだよ、この死者の領域ではね。だからねあんた、死体で悪戯なんてしちゃいけないよ。こっちの世界で暮らすのに不便なことになるからね! あたしのこの右腕みたいにね!」


 男の元にどこからともなく白いローブに身を包んだ介添人が現れ、男を亜麻の布で包むと、彼を〈街〉のはずれの方向へと連れて行った。男はいまだ呆然とした表情のままであった。


「あの白いローブを来た奴らがここでのしきたりを教え込むのさ。あたしも昔色々教わったもんだよ。どれぐらい昔のことになるかねえ」

「君ももうすっかり骨だけになってしまったなあ。嘆かわしいものだ。時よ止まれ!」

「あんたねえ、女に向かってそういうこと言うんじゃないよ」

「骨だけ?」


 カヌルは怪訝な顔をして聞いた。ビュッケはニヤリと笑って答えた。


「おやあんた、あたしの骨に興味あんのかい、ええ」

「い、いや、骨だけってどういう……」


 それを聞いたビュッケは顔の皮をズルリと剥がすと大声で叫んだ。


「こういうことさ!」


 腰を抜かしたカヌルをからっぽの眼窩で見つめながら、顔の生皮を首からぶら下げたビュッケの頭蓋骨はカタカタと音を鳴らしながら心底愉快そうに笑っていた。


「死者の領域ではねえ、生者の領域にある死体の有様がそのまま反映されるのさ。さっきの男はまだ死んだばかりだったからきれいなもんだけど、そのうちどんどん腐り始めることだろうね。いやあ、あんた、自分の手足がどんどん腐っていくのを見るのはこたえるもんだよ!」

「そしてこのパトリックは、今彼女がその骨の上に身につけているような装飾用特殊生皮の製造業も営んでいるというわけさ。死者の領域では必需品だよ! お買い得!」

「あくどい商売をしてるよねえこいつは、本当にね……」


 再び皮を『着た』ビュッケは、じろりとパトリックを横目で睨みながらそう言った。


「いやあ、すまないね。新入りを一度はこれで脅かさないと気がすまなくってね。あたしの悪い癖だよねえ。でもこれ、面白いんだよ、フフフ」

「さて! そろそろ話を進めようか。イリーンはここから出てきたあと、どこに住んでいるんだね?」

「ここからすぐの廃墟をねぐらにしているみたいだね。ま、どこに住もうが人の自由だが、あたしは進んであんなところで寝起きしようとは思わないねえ、いくら死んでるとはいえ」


    ◆ ◆ ◆


 ビュッケの案内したイリーンの住処は、〈街〉の井戸から南東に少し進んだ、古びた遺跡かと見違えるほどに荒れ果てた三階建ての集合住宅の一室であった。イリーンの住んでいる一部屋以外には屋根も壁も無かったせいであろうか、この集合住宅には他には誰も住んでいる気配はなかった。

 ビュッケらはイリーンに会うため、砂壁の階段を二階へと登った。イリーンの部屋の前には、粘土で作られたいくつかの小さな土球が転がっていた。


「イリーン! イリーン! 居るのかい」


 ビュッケがドア越しに声をかける。返事は無かった。

 ビュッケは少し逡巡すると、ドアノブに手をかけた。鍵はかかっていなかった。

 ビュッケはドアをゆっくりと手前に開ける。暗い部屋が見えた。何年もその中で淀んでいたような重い腐臭が、埃っぽい空気とともに外へ漏れてきた。

 差し込む日差しに照らされて見えたのは、〈黒鉄の玉〉を前にして座り込むイリーンの背中と、〈玉〉を挟んで向かいに座る大柄な腐りかけた死体の姿だった。死体はイリーンにくどくどと説教をしていた。それは概ねこのような内容の繰り返しであった。


「いいかお前、一度男がそうと決めて殺しまでして盗んだモンなんだからよ、ええ、簡単にどっかにほっぽろうとなんてするんじゃねえよ、わかってんのか、ええ、だいたいお前はいつもそうだからな、ええ、おい、おれは悲しいよ、本当によお……」


 カヌルは気づいた。あれはウエンだ。腐りかけたウエンがイリーンに説教をしている。


「その顔からすると君はあれが誰か知っているようだね?」


 パトリックはカヌルに聞いた。


「あ、ああ……あれは、やつはウエンだ。イリーンに殺された男だ。もともとウエンが盗んだ〈黒鉄の玉〉をイリーンが奪って……奴らはちょっとした関係だったようだが」

「オラア! 人様のことをそこでコソコソぐちぐち言ってんじゃあねえよ! なんだいあんたら! どこの誰だ! なんか用かい!」


 ウエンは濁った声でカヌル達に呼びかけた。それに答えたのはパトリックである。


「やあどうも、実は私たちはその〈玉〉を持ち主に返そうと思っていてここに伺った次第でねえ。どうも先方、それはそれはもう大変に怒っているようだよ。ここは素直に頭を下げて返したほうがいいと、私としてはそう思うんだがね」

「ヒッ、ヒイイ!」


 イリーンは悲鳴をあげた。


「お、お、怒っている、怒っているんですか! 〈大いなる死者〉が!」

「馬鹿野郎イリーンてめえ怒っているって言ったらお前に殺された俺のほうがよっぽどムカッ腹立てて怒ってんだよわかってんのかてめえは! てめえ! てめえはよ! 女なんかに入れあげやがって! 女なんかに! 裏切りだぞ! とんでもねえ裏切りなんだよ!」


 怯えるイリーンと怒り狂うウエンを遮ってパトリックが続けた。


「まあまあお二方、落ち着いて落ち着いて。ふむ。イリーン君、なぜその名を知っている? その〈玉〉が〈大いなる死者〉の持ち物だと、一体全体どこで知ったのだね?」

「それは私が教えた」


 部屋の奥から現れそう言ったのは黒く濁った半透明の人頭大の原形質の物体であった。部屋中に漂う強烈な腐臭の源はそれだった。


「私には名はない。〈名もなき顔〉とでも呼ぶがいい」


〈名もなき顔〉の通った後には黒い染みが残っていた。


「ふむふむなるほど、だんだん読めてきましたよ」


 パトリックは顎に手を当てながらそういった。


「名無しさん。もしかしてあなたまだ、あの〈大いなる死者〉とよりを戻せると思っているんですか?」


 それを聞いた〈名もなき顔〉は、ほんのちょっとだけその身を震わせた。それはまるで自らの行いを恥じているかのようであった。


    ◆ ◆ ◆


 パトリックの推理するところによれば(そしてそれは当たっていた)、事の顛末は次の通りであった。

 かつて〈大いなる死者〉と婚姻関係にあった〈名もなき顔〉であったが、契りを結んでからも、その力を悪用しての自らの姿かたちを変えて奔放な浮名を流す悪癖はやめられず、それがたたって〈大いなる死者〉とは破局、名と力の大部分を取り上げられて地に落とされてしまった(なおこの様は知る人ぞ知る神話として世に残されている)。

 復権と復縁を虎視眈々と狙っていた〈名もなき顔〉は、ウエンが〈黒鉄の牢獄〉から〈黒鉄の玉〉を盗み出したことを知った。この機会を逃す手はない。だがしかし、力を奪われた〈名もなき顔〉にはウエンから力づくで〈玉〉を奪い取ることは出来ない。どうしたのか。妖艶な踊り子に化けてイリーンに近づき、彼に〈玉〉を奪い取らせたのだ。だが力を奪われた〈名もなき顔〉の変身は長くは続かず……。


「朝起きたら、隣にいたのは黒いぶるぶるした何かになっていました。衝撃でした」


 そう語ったイリーンの顔は打ちひしがれていた。


「そして今ここにイリーンさん、〈黒鉄の玉〉、名無しさんが揃っているということは、名無しさん、本当に最後の力まで使い切ったようですねえ」

「その通りだ。イリーンに知られず〈黒鉄の玉〉を盗み出すつもりだったが、それも失敗した。あのまま状況を放置していては、巻き込んだイリーンも、愛する〈死者〉の子供も何も知らぬ人の手にかかってしまう。それだけは防ぎたかった。なのでまとめて〈死者の領域〉に転移させた」


 イリーンが言葉を継いだ。


「どうしたものかと途方に暮れていたら、ウエンさんに会ってしまって……」

「会ってしまってじゃねえだろうが殺しておいて」

「ええ、あの、本当に申し訳なく……」

「よろしい! 状況はわかりました!」


 パトリックは一度手を大きく叩いて言った。


「これは落ちたとは言え神格の絡んだ事件です。あってはならぬ物事です。全てを元に戻す必要があります。ウエンさん。イリーンさん。あなた方は早晩元の〈生者の領域〉へ送還させます」

「本当ですか!」

「生き返れるのか!」

「本当ですとも、信用してください。さて名無しさん」

「ああ」

「もはやわかっているとは思いますが、あなたに残された道はありません。残念ですが」

「ああ、わかっている」

「次はより良き生を送っていただけること、願っています」

「感謝する」

「では」


 パトリックの背後から現れた白銀の女剣士が、〈名もなき顔〉を一太刀のもとに両断した。〈名もなき顔〉の存在は跡形もなく消え去った。彼はどこにも存在しないものとなったのだ。

 こうして事件は、解決した。


    ◆ ◆ ◆


 ウエン、イリーン、カヌル、そしてレーブル(レーブル自身は〈死者の領域〉の〈街〉で結構うまくやっていた)の四人は、〈黒鉄の玉〉を携えて〈生者の領域〉へ帰還した。準備が整い次第、四人で〈黒鉄の牢獄〉へ再アタックし、〈大いなる死者〉の寝所のもとへ〈黒鉄の玉〉を返上しに行くという。

 カヌルは帰り間際にビュッケの案内でタマリ、ジャン、ヴィンセントらの〈終の地下墓場〉の戦闘の勇者達に会いに行き、それぞれと握手をしていった。タマリは力強く、ジャンはヘラヘラと笑いながら、ヴィンセントは小銭をたかりながら握手を仕返した。

 ロギインに会えなかったことが心残りだとカヌルは言うと、ビュッケはさみしげに笑った。

 そしてパトリックはビュッケの元を訪れていた。ビュッケは今日も井戸の傍に陣取っては、そこから誰か出てこないかと見守っていた。

 パトリックは言った。


「今日も待っているのかね」

「ああ。あいつは本当にどんくさい弟子でねえ。全く、一体いつになったらこっちに来るのやら」


 ビュッケは軽く笑った。パトリックは咳払いをすると続けた。


「なあ、ビュッケさん。その、言いにくいことなんだが。恐らく魔法の煙になった彼はきっと、どこにも……」

「いいよ。それ以上言わなくていい。わかってる。わかってるんだよ。だけど、わかっててもわかりたくないことってのも、あるってことさ。そういうもんなんだよ、あたしってのはね」


 ビュッケは反転した空を見上げた。


「こんな場所でもいいから、もう一度でいいから会いたい。ただそれだけなのさ。よく頑張ったって、言ってやりたいんだよ、あの子にね」


 その日も次の日も、〈街〉の中心の井戸からは、彼女の待ち人が現れることはなかった。その次の日も。そのまた次の日も。

 それでも彼女は、ずっと彼を待ち続けていた。骨が崩れてしまうまで。

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