第2話

〈黒鉄の牢獄〉は神々の手により造られたものである。その内部には神の忘れ物(もしくは捨てていったもの……誰が知ろう?)が数多く残っており、盗掘されたそれらは高価な収集品として人々の間で売買されていた。今パトリックとカヌルの目の前にいくつか見える〈くす玉〉も、そのような財宝のうちのひとつである。

〈くす玉〉とは両手で抱えられるほどの大きさをした半透明の球体である。その名の通り、天井からぶら下がるくす玉のように浮いていることからその名を付けられた。それらが取引される暗黒市場では、もう少し気取った名前で〈光芒のランプシェード〉などと呼ばれていた。

 窓のない〈牢獄〉の回廊を、連なる〈くす玉〉のぼんやりとした灯りが暗く照らしている。パトリックとカヌルの靴の音が鉄の床に鳴り、冷たい鉄の壁はそれを冷えた空気の廊下の遠くまで反響させていた。


「〈黒鉄の玉〉。そう名付けたか。なるほどねえ」


 パトリックは興味のない様子で呟いた。


「これを期に神話の勉強でもしたらどうかね。〈怯えるヨールの大げさな口伝〉など入門にはおすすめだぞ。語り方が大仰で面白い」

「仕事が忙しい。暇がない」

「飯の種の話か。本を書くといい。馬鹿が読む本を書けば売れるぞ! 馬鹿は絶えることがないからな。ハハハハハ!」

「なあ、あんた」


カヌルは足を止めると言った。


「俺は俺の話をした。次はあんたの番だ。……あんた、一体何者なんだ」

「私の正体か! 気になるかね!」


パトリックはカヌルに答えて言った。


「ある時は寡黙な作家、ある時は辣腕実業家、そしてある時は社交界を駆ける華……しかしてその実態は……」


 パトリックはバッと両手を広げ叫んだ。


「神智探偵! パトリックだ!」

「そういうのはいい」


 カヌルは真剣な目で言った。


「俺が聞きたいのはだ。一体あんた、どうやってここまで登ってこれたんだ。俺はさっき酷い目に……」

「先程〈神話〉の勉強をした方がいいと言っただろう? お守りのような聖句があるのさ。ま、どうやら〈神話〉を詳しく知らぬような君には知りようがないがね。君、どんな〈神話〉を知っている?」

「〈神殺し〉」

「『人は神を殺した』のあれか? オーソドックスだな。他には」

「知らない」

「オイオイオイオイ! 本当か! 嘆かわしいな! 仕方ない、ひとつ役に立つものを教えてやろう……『そして男は声をあげた』だ。〈聖者〉の〈神話〉の聖句だ。争いを続ける神と人々に、もういい加減にしたらどうか、もうそんなことはやめたほうがいいのではないか……と声をあげたある男についての〈神話〉だな。〈神話〉の話の流れは簡単にでも理解しておくといい。ただボサッと唱えるよりも聖句の効きが違う」

「その声をあげた男はどうなったんだ?」

「なんだ? 両方から吊るし上げられて死んだに決まってるだろ! 喧嘩の仲裁なんてよっぽどうまくやらないとどっちからもタコ殴りにされて終いだ。まあとにかく、この〈神話〉を呼び出す聖句を唱えれば、見えざる神の存在が少しだけ見分けやすくなるんだな。ま、この〈聖者〉には常に神の次元が見えていたのだということだよ……この聖句さえあればそのおこぼれに預かれる。ちょっとした神の悪戯を事前に察知出来たりするわけだな。唱えてみろ」

「『そして男は声をあげた』」

「よろしい。さて、どうかね。見えるだろうか」


 そしてカヌルは見た。パトリックの背後に立つぼんやりとした白銀の甲冑姿の女を。その身長はパトリックの二倍ほどもあり、その腰まで伸びた美しい髪は翡翠の色だった。両手剣を捧げ持つその女は、顔全体を覆い隠す流線型の兜の中央に入った一本の縦のスリットからカヌルを一つの瞳でじっと見つめていた。彼女のもとから放たれるぎらついた青い病んだ光を背負いながら、パトリックは両手を広げて言った。その顔は逆光になっていてよく見えなかった。


「これが私の主だ。男よ。頭を垂れよ」


 カヌルは即座にひざまずき頭を下げた。パトリックは続けた。その声は超自然の響きを伴ってはるか遠くから聞こえてくるようだった。


「男よ。聞け。私は我が主からの命により、時ならずして目覚めさせられた〈大いなる死者〉が世界を乱す前に再び眠りをもたらすため遣わされた。お前はこれから我が業の手助けをするのだ。それはひいてはお前を再び生者の領域へと帰還させる助けにもなることだろう」


 カヌルの額を、一筋の冷たい汗が流れた。


「お前達が〈黒鉄の玉〉と呼んでいるものは、〈大いなる死者〉の〈永遠に孵らざる卵〉のひとつである。我が子を盗まれた〈死者〉はその強大な悲しみにより目覚めた。子を求める母は今はまだ悲しみに暮れているだけだが、じきに怒りをもって〈街〉を蹂躙することだろう。お前がなすべき業は私の手足となり〈黒鉄の玉〉を探しそれを〈大いなる死者〉の寝所へと返上することだ。〈大いなる死者〉が街を破壊する前に。わかったな」


 カヌルはぎゅっと目をつぶって頷いた。恐ろしかった。〈黒鉄の玉〉だと? 〈大いなる死者〉だと? 一体なぜこんなことに? レーブルも死んでしまった。わけがわからない状況だ。

 彼は今はただ、何もかも無かったことにして、一刻も早く家に帰りたかった。それだけだった。


「よろしい。男よ。顔を上げよ」


 硬直していた首になんとか言うことを聞かせ顔を上げたカヌルが怯えた瞳で見たものは、満面の笑みのパトリックの顔面だった。


「ハハハハハ! 驚いたか? 与太話だと思っていたか? 私の主はほれこの通り! 存在するのだ。私は常に主の加護と共にある。大船に乗ったつもりでいたまえ! 何、心配しなくてもすぐにでもまた生き返れるさ! 多分な」

「生き返る?」


 その言葉がカヌルの耳に引っかかった。


「そういえばさっきも生者の領域へと帰還する助けになるとか言っていたな。あれはどういう……」

「何? まだ気づいていないのか?」


 パトリックは心底驚いた声で言った。


「君、まさかまだ自分が死んでいないとでも思っていたのかね?」


    ◆ ◆ ◆


「要するにだ。あの空を見ろ」


〈黒鉄の牢獄〉から〈街〉へと続く小道を歩きながら、パトリックは後に続くカヌルに、空を指差して言った。


「色が見事に反転しているだろう。黄色い空。黒い雲。ここが死者の領域である証拠だ」

「だ、だからと言って……」

「死んでいるとは限らないだと? 安心しろ、君は死者の領域に居る、だから死んでいる。これは間違いない。疑いようもなく間違いなく、死んだカエルのように確実だ」


 カヌルは何を安心すればいいのかわからなかった。パトリックは構わず続けた。


「それでも君にはまだチャンスがある。君の死は〈大いなる死者〉のその手により時ならずして与えられたものだ。死ぬべきではないときに君は死んだということだ。もしかしたら〈大いなる死者〉に頭を下げて丁寧にお願いをしてみれば、生者の領域に帰してもらえるかもわからんぞ。試してみる価値はある」

「そのお願いの手土産に〈黒鉄の玉〉を持っていくっていうわけか」

「そういうことだ! 飲み込みが早いぞ! いいぞ! 上出来だ!」


 彼らは今死者の領域にある〈街〉へと向かって歩みを進めていた。パトリックが言うには、死者の領域で事を構えるためにはまず〈街〉へと向かうことが肝心なのだという。


「生者の領域と同じように、死者の領域の〈街〉には死者の領域の全てが集まる。噂話も何もかもだ。だからまずは〈街〉だ。君も〈炎の大鼠〉だ、情報を扱う職業だ。そのあたりの重要さはわかるだろう」

「確かにな。そこで〈黒鉄の玉〉の在り処を探すということか。ところでだが……」


 カヌルは唾を飲み込んで言った。


「俺には相棒がいた。名をレーブルという。あんたの言ったとおり、〈黒鉄の牢獄〉の外壁で、誰かに火炎瓶を投げられてそれで落ちて死んだ。あんたの言うようにすれば、こいつも俺と一緒に生き返ることが出来るのか?」

「どうだろうなあ。なんせ私は〈大いなる死者〉じゃないからなあ。ハハハハハ! ま、そういうことは本人に聞いてみるのが一番だな」

「何?」

「〈街〉に行けばわかる。死者の暮らす〈街〉だがな。それほど悪い場所じゃないぞ。それほどな」


 パトリックは微笑んでそう言った。


    ◆ ◆ ◆


 死者の領域の〈街〉には確かに全てが集まっていた。南洋の樹木から北土の巨大な吊り壺がぶら下がるその脇には東部様式と西部様式の入り混じった奇怪な屋敷がいくつも立ち並ぶ。黄色い空の色もあいまって、整然とした美しい生者の領域の〈街〉とは、黄金都市とも呼ばれるその〈街〉とは全く違った、混沌とした猥雑な様相を呈していた。唯一同じなのは、そこに暮らす人種の幅広さだけだった。

 パトリックとカヌルは、死者の領域の〈赤き角鹿亭〉でテーブルを囲んでいた。奇妙なことに、〈赤き角鹿亭〉に関しては生者の領域のそれと寸分たがわぬ様子であった。


「この酒場の有り様に関しては、まあ色々な想いが反映されているようだからなあ」


 パトリックはあたりを見回しながら言った。


「縁というかなんというか。ま、こういうこともあるということだ」


 カヌルは死者の領域の果実酒を一口飲んだ。その味も生者の領域のそれとは少しも変わることはなかった。


「さてと。まずは状況の整理からだな。まず〈黒鉄の牢獄〉から〈黒鉄の玉〉を盗み出した男がいた。それは恐らくそいつの仲間に奪われた。そしてその仲間は〈黒鉄の玉〉と共にどこかへ消え去った。ここまでが君らの把握していることだな?」

「その通りだ」

「よろしい。実は最近ちょっとした噂を聞いてね。何かを隠している様子でひと目につかぬようこそこそと暮らしている怪しげな新入りがいるんだそうだ。実にそれらしいと思わないかね」

「当たってみる価値はありそうだな」

「そうだろう。その話はここの常連から聞いてね。いつもの通りであればそろそろ来る時間のはずだが……そら来た」


〈赤き角鹿亭〉の入り口に現れたのは老いた女の賞金稼ぎだった。ウェーブのかかった長い髪が輪郭を覆う顔には険しい皺が刻まれており、その眼光は極めて鋭かった。腰には一本の長い刺剣を携えていた。


「よう! よう! ほら! こっちだ!」


 パトリックは手を振りながらその女に声を掛けた。近寄ってきた女は意地の悪そうな顔で笑いながら言う。


「おやパトリック。どうしたんだい。またカモでも引っ掛けたのかい」

「人聞きの悪い! 今回は世界を救う仕事だぞ。ついでにこの男を蘇らせてやるのさ」

「それはそれは大層なことで。あんたもろくでもない奴に目をつけられたねえ」


 女はカヌルに向けて声を掛けた。そして手を差し出しながら言った。


「あたしの名はビュッケ。まあ、このパトリックよりいくらかは信用してもらってもいい女さ」


 ビュッケは酒に焼けた声でそう言った。その右腕は肘から先が、断ち切られたようにして失われていた。

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