カヌルとパトリックと〈黒鉄の玉〉(全3話)
第1話
〈街〉の北側には、〈黒鉄の牢獄〉と呼ばれる古い迷宮があった。それは〈はじまりの戦い〉に参加した神々が、かつては天にも届く高さであったという名も無き山をくり抜いて作ったという巨大な建造物であった。迷宮内部から産出する貴鉱石を加工した金属で外壁を設えられたそれは、〈はじまりの戦い〉で敗北した神々を永遠の労役に囚える牢獄塔なのだと人々の間に伝わっていた。
〈黒鉄の牢獄〉は、その侵入者に対して決して優しい顔を見せることはない。〈街〉の周縁地帯に巣食う野盗を切り抜け〈牢獄〉の麓へ辿り着いた者を待ち受けるのは、固く閉ざされた巨大な正面扉と、高く上に見える擦り切れたカーテンのなびく窓、そしてそこを目指し外壁を登ろうとして滑落した冒険者達の哀れな死体の数々なのだ。
そこで怖気づいて尻尾を巻いて逃げ帰るか。それとも果敢にも壁を登りきり、そして迷宮への侵入を無事果たすのか。その場面でこそ『男の違いがわかる』のだと、〈街〉の酒場である〈赤き角鹿亭〉で、はぐれの冒険者であるウエンは若き美男子のイリーンに熱弁していた。
彼らの間にあるテーブルの上には、ある黒い宝玉が置かれていた。それを撫でながらウエンは話を続けた。
「まあ野盗を撃退するなんてのは出来て当然なわけだよ。それが出来なきゃ俺の剣が泣くね。それどころか、そんなゴロツキ共に負けたなんて噂が広まっちまったらこの〈街〉にも居られないわな」
「はあ」
「はあとはなんだはあとは。お前ちゃんと話を聞いてんのか。まあそういうわけでだ。そんな苦労をしてまで手に入れてきたのが、この〈黒鉄の玉〉なわけだなあ」
ウエンが〈黒鉄の玉〉と呼ぶその黒い宝玉は、小柄な彼の頭ほどの大きさだった。艶の無いその表面は一切の光を返さず、また不思議にもテーブルに影を落とすこともなかった。
イリーンは神経質な顔つきで〈玉〉を見つめながら言った。
「それでこれは一体……」
「俺が知るかよ! とにかくあそこに眠ってたんだから財宝は財宝だ。それにこの佇まい。ただものじゃない。誰か好事家の金持ちにでも売りつけるさ」
「〈黒鉄の玉〉ってのは」
「俺が付けた名前だ。俺が見つけたからな」
「ふうむ。どれぐらいで売れるもんなんでしょうねえ」
「さあなあ。前に〈牢獄〉から拾ってきた鉄鎧……ありゃ重かったなあ。とにかくあれを売りつけた時にはまるまる一月遊べたさ。ま、それは下らんだろうなあ、まず」
◆ ◆ ◆
この最後の一言が決め手になり、その夜ウエンはイリーンに寝床で殺された。イリーンには金が必要だったのだ。ウエンはイリーンに入れあげていたが、イリーンにはイリーンで、懇意にしている踊り子が別にいた。二人での生活を始めるにはまとまった金が必要だった。
そしてイリーンはウエンの死体を川へ投げ捨て、ウエンの有り金と〈黒鉄の玉〉を手に、踊り子と共にどこかへ立ち去った。
◆ ◆ ◆
それから一週間の後のことである。ある宿屋でイリーンと踊り子の持ち物衣類一式が見つかった。ベッドの上にはまるで抜け殻のように寝間着だけが残されていた。彼らの足跡は、この宿屋でぷっつりと途切れてしまっていた。
部屋の中にはひどい腐臭だけが漂っていたが、その源はわからなかった。
しばらくの間、〈街〉の中ではウエン殺しとイリーンの失踪についての話題でもちきりであった。いわく、ウエンが何か〈牢獄〉から持ち帰ったらしい。それを巡ってイリーンと殺し合いになったらしい。イリーンがその何かを奪って逃げたが、そこで奴に何かが起きたらしい……。何が? どうして? おれが知るかよ。そりゃその通り……。などなど。
この噂話にほとほと聞き飽きた店主は、しばらくの間〈赤き角鹿亭〉で彼らの話題を出すことを禁止にしたほどであった。
◆ ◆ ◆
そして今〈黒鉄の牢獄〉の麓に、二人の冒険者が立っていた。冒険者組合である〈炎の大鼠〉に所属している彼らは手慣れた様子で登攀の準備をすると、〈牢獄〉の壁面へと取り付き登っていった。
彼らの目的は〈黒鉄の玉〉の正体の調査であった。
〈炎の大鼠〉は盗掘を主な業務としている。彼らの元には様々な財宝の情報が記載された巨大な目録が存在していたが、ウエンの日記(事件を聞きつけた〈炎の大鼠〉が秘密裏に入手していた……情報は彼らの武器だ)に記されていた〈黒鉄の玉〉はそこにはまだ記載されていなかった。未知のものだったのだ。
これを見逃す彼らではない。未知は奇貨である。
神々の財宝の中には、〈割れたくす玉〉や〈不可視の酒瓶〉、それに〈白剣〉など、ただそこに存在するだけで大きな災いをもたらすものも存在する。後人のために、迷宮からどの財宝を持ち出すべきなのか、どれに触るべきではないのか、またどれが高値で売れるのか……その情報を人々に売りつけることが、彼らの主な収入源のうちの一つであった。
イリーンと踊り子の失踪事件を〈黒鉄の玉〉の存在と関連付けた〈炎の大鼠〉は、レーブルとカヌルと名乗るこの二人の冒険者を〈黒鉄の牢獄〉へと派遣した。
「踊り子に入れ込んで秘宝に手を出して失踪! いやあなんとも頭悪いことしたもんだよねえ、このイリーンって奴は。哀れすぎて泣けてくるぜ」
先を進むレーブルが振り向いておどけながら言った。
「奴らは素人だ。俺達とは知識も覚悟も違う」
カヌルがそれに答えて言った。
「それにそういう奴らがいるからこそ俺達の商売になる。違うか」
「まあ、それもそうだよねえ、ハハハ」
それからは彼らは黙々と、壁面のそこかしこについた窪みに手足をかけながら、はるか上に見える、カーテンはためく〈窓〉へと向けて進んでいった。
登り続けて数十分が経過した頃である。腕に痺れを感じ始めて来ていたレーブルは、少し休憩を取っていた。今回の報酬で何を買おうか、そんなことをぼんやりと考えていた。つまり集中を欠いていた。そのため、突如上から振ってきた火炎瓶に対応することが出来なかった。彼は全身を焼かれながら墜落した。
「何?」
突然の出来事に、カヌルは落ちていくレーブルをただ見ていることしかできなかった。
何が起こった。
レーブルが燃えている?
何故。
レーブル。
叫び声をあげながら落ちていく。
落ちていくレーブル。
その姿を追いかけながら下を見た。
地面が無かった。
「何だと?」
レーブルは眼下に広がった暗い闇の中へ吸い込まれていった。
しばらくの間、カヌルは呆然とその闇を見つめていた。そしてその顔は恐怖にひきつった。彼の全身にどっと嫌な汗が沸いた。彼は遮二無二壁面を登り始めた。闇が塔を飲み込みながら、まるで彼をも喰らおうとしているかのようにじわじわと近づいてきていることに気づいたのだ。
いつの間にか暗く重い雲が空を埋め尽くしていた上空からは小石や枝や冒険者の死体など様々な障害物が落ちてきた。大きなレーブルや小さなレーブルも燃えながら叫びながら何度も落ちてきた。カヌルは必死でそれらを避けながら登り続けた。
カヌルは見た。はるか上にはためくカーテンの向こう、唯一の入り口である〈窓〉の向こうから身を乗り出して、火炎瓶を片手にこちらを見つめて笑っている男の姿を。
次々と死者が空から落ちてきた。
レーブルがまた燃え盛りながら落ちてきた。
小石の豪雨がカヌルを打ち据えた。
燃えて落ちるレーブルは狂って叫んでいた。
空の色は反転した。カヌルは壁を這いつくばるようにして進んだ。レーブルは焼けていて、無数の死者は空から降り止まなかった。
「あああ、あああああ」
誰の声かとカヌルは思ったがそれは自分の声だった。
自分のうめき声に調子を合わせるようにして、遠くから太鼓の音が聞こえてきた。太鼓の音は左右からどんどん近づいてくる。音の方を見れば、腐りかけた死体の群れが人皮の太鼓を鳴らしながら虚空をこちらへ向かってきているのだ。
「あああああ、あああああ」
死体の楽団の奥には〈大いなる死者〉がいた。〈死者〉は腐りかけた女の顔で笑うと、その大きな手をカヌルの元へ伸ばし彼をその掌の上に乗せた。
「ああ、ああ、あああ、あああああ」
もはや〈黒鉄の牢獄〉はどこにも見えなかった。反転した色の空と雲の海に全ては隠され、カヌルは死体の楽団と共にそれに包まれ、燃えるレーブルの泣き叫ぶ声は反響しながら落ち続けていて、〈死者〉は微笑みながらそれを見つめていた。
〈大いなる死者〉の手のひらに包み込まれて、カヌルは気を失った。
◆ ◆ ◆
「君、君」
カヌルは何者かに肩を揺すられて目を覚ました。傍にはカーテンのはためく〈窓〉があった。ここは。〈牢獄〉の内部か。
「こんなところで寝ているとは大した根性の持ち主だなあ。ええ。君。登り疲れたのかね」
カヌルを目覚めさせた初老の男は笑いながらそう言った。肩までのマントに妙に整った髪型と口ひげ。細い身体。何者か。警戒し距離を取ろうとするカヌルの両肩をがっしりと掴むと(彼の拳はその見た目に反して思いの外力強かった)、男はにこやかに微笑みながら言った。
「まあ。まあ。落ち着きたまえ。私の名はパトリック。人呼んで神智探偵パトリックだ。何? 知らない? ふうむ。それは君の勉強不足じゃないかねえ。失礼な男だ」
パトリックは不満そうにそう言うと続けた。
「君の名前はカヌルだな? おっと驚くな! 自分でその背嚢に書いているじゃないか! ハハハハハ。 さてカヌル君。一体全体こんなところまで何をしに来た? 宝探しか? 何かのお勉強か? いや言わなくても結構。その胸元に輝く鼠の証は〈炎の大鼠〉だな? 君らは二人一組で動くはずでは? 何かがあったようだなあ。何かも何も! 落とされたか! 〈死者の眷属〉に落とされたな! そうだろう! ハハハハハ! 当たりか。すまんな。怒るな。いいだろう。カヌル君。君、私の調査を手伝いたまえよ。そうすれば君の相棒の仇がどんな奴かもきっと判明することだろう。期待していてくれていい。ハハハハハ」
「い、一体あんた誰なんだ」
「さっきも言っただろう。パトリック。神智探偵パトリックだよ」
「調査って一体」
「〈大いなる死者〉だよ。君も見たんじゃないのかね」
カヌルに答えてパトリックは言った。
「〈大いなる死者〉。〈はじまりの戦い〉で敗北した神の一柱。死の〈神話〉の紡ぎ手。その神話の正の意味は死、逆の意味は救済。それがどんな智慧を使ったのか。今目覚めているようなんだよ、まだこの〈牢獄〉には繋がれているようだがね。どうもたまにこう言ったことが起こるようだが。私の主からそう告げられてね」
パトリックは立ち上がり両手を広げて言った。
「『そして彼らは眠りについた』。今日眠るのは? 〈大いなる使者〉だ。眠らせるのは誰か? この私だ。フフフ。神智探偵パトリックの出番だよ、君」
〈窓〉の向こうには、反転した色の空のもと穢れた嵐が吹き荒れていた。
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