第6話
全てを飲み込む〈泥〉はかつての〈神話〉の一部の暗示である。魔法は〈神話〉から形作られる。魔法は〈神話〉の悪しき解釈の顕現である。〈泥〉は自らをも飲み込んだ大食の蛇を表しており、その正の意味は豊穣、逆の意味は反転であった。
〈神話〉を汚すエルフ許すまじ。魔法で害なすエルフ許すまじ。かつて起こったエルフ狩りは、あの魔法殺しは、〈はじまりの戦い〉以来の規模のいくさであった。
「魔法殺し。迷宮に対して」
ジャンは考え込んだ。
「姐さんよ。一応聞かせてもらっていいかい」
「なんだい」
「この人数で本当にやりきれると思ってんのかい」
「やらなきゃ出られないんだからね」
「どこまで何を殺せばいいのかわかってんのかい」
「見当もつかないね」
「一体何がしたいんだい……」
「ここから出たいだけだよ」
ジャンは細く長い息を空中に吐き出すと、ひとり呟いた。
「出られない。ここから出られない。確かに出られそうもない。出られなきゃどうなる? 死ぬ。みんな死んじまう。そりゃそうだ。じゃあなぜ出られない。迷宮に魔法がかかっているからだ。誰かがかけているからだ。これは魔法だ。明らかに魔法だ。こりゃあの時と同じだ。確かに魔法だ……。となると、魔法殺ししかないわなあ」
隣でヴィンセントは鼻から〈粉〉を吸っている。そして鼻をこすると言った。
「ああ、これだよ。これ。ううう」
「なあヴィンセントよお。お前は気楽そうでいいよなあ」
「おれはいつでも、楽しくやれればいいと思ってるだけだがね。やるかい」
「いらねえ。姐さん。誰が魔法をかけてるかについてだけどよ」
「十中八九エルフの生き残りだろうね。どこに隠れてたんだか。あれから長い時が経っている。多分数も増えてるだろうよ」
「それでその魔法は、この迷宮のもう入り口間近まで効力を発し始めてるっていう状況なわけだ」
「そういうわけだよ」
「〈街〉はこのこと知ってんのかね」
「さあね……」
「エルフ達は何をするつもりなんだろうか」
「そりゃあ、エルフ達のやりたいことさ」
「といえば」
「あんた、身内を殺されたらどうするね。殺したやつらがすぐそこでのうのうと暮らしているとわかったら、それで自分に魔法が使えたら、どうするね。わかりきってることだろう」
タマリはそっとビュッケの傍に近づき、その髪を撫でた。
「ありがとね」
「復讐か」
「そうだろうね。迷宮まるごと魔法で侵して、次は〈街〉にも侵食するつもりだろう。これはあの時殺しきれなかった、かつてのアタシらの罪だ」
「時間を歪めて、空間を歪めて。今頃エルフ達ぁ、どんだけの数に増えてんだろうなあ」
「やるしかないんだよ」
「やって死ぬかやらずに死ぬか。たまらんなあ」
「この辺でお話はもういいかね? 気が済んだかい? そうかい。ならよかった。さあみんな、立つんだ。ほらほら。立った立った。立つんだよ。アタシ達はこれから、魔法を殺しに行くんだよ。しゃっきりしな!」
一行の中で明るい顔をしている者は、〈粉〉で神経を宙に飛ばしたヴィンセントだけだった。
◆ ◆ ◆
反転した部屋を出た一行(当然ドアは床側についていたため、天井からそこへ抜けるには様々な手間を必要とした)を出迎えたのは、広大なたゆたう地底湖をそなえる地下空洞であった。地下空洞の壁面には青白く輝く苔類や茸類がびっしりと生えており、それらから発されたと思わしき胞子で空中もぼんやりと青く染まっていた。そこは潮の臭いがしていた。
ビュッケが口を開いた。
「クロンコさんよ。この地底湖は確か九階あたりのものじゃなかったかね」
「その通りです。まさにここは、本来であれば九階であるはずです。よくご存知で」
「ここらでも一杯エルフを殺したからね。忘れられようもないさ」
ヴィンセントが笑いながら言った。
「あれは傑作だったなあ。エルフどもをうまく地底湖の際まで追い込んで、次から次へとその中に飛び込ませたんだ。その後は鴨打よ。ざまあみろだぜ。ここでおれは、ヨールのかたきを討ったんだ」
「ご自慢は結構だよ。さてロギイン。お勉強だ。今ここにはある魔法が仕掛けられている。それが何かわかるかね」
ロギインは観察を開始した。魔法破りは周囲を観察することから始まる。何か違和感はないか。何か普段とおかしなところはないか。何も感じられなければ、それは全く魔法が掛かっていないか、それとも自分自身が魔法でおかしくなっているかだ。それ故に、魔法には観察者と、それを観察するものの複数で挑むことが第一の規則であった。
ロギインはその知識を総動員させた。
音。異常はない。会話は正常に聞こえていた。
匂い。異常はない。妙に芳しくもなく、また無臭でもない。この潮の臭いは気に障るが。
触覚。以前師匠に教わったとおり、両手で印を組んだ。異常はない。印自体には意味はない。これは両指の感覚に異常がないかを確かめるためのただの作法である。
では視覚か。ロギインはその場から動かず、目を見開いて地底湖を見つめた。集中した。波が。遅い。それは美しいまでにゆっくりと、とてもゆっくりと流れていた。ロギインはその異常に見とれた。幻覚のように美しかった。地底湖に近づき波に触れてみる。遅くなった波は重さを加えて、その指にのしかかった。ロギインはしばらくその神秘に触れていた。振り返ったロギインはビュッケに言う。
「時間が、遅くなっています」
「その通りだ。こうして見ると、魔法ってのはきれいなもんだろう」
「ええ、本当に……」
ビュッケはロギインの肩に手を置くと言った。
「そのきれいさ故に、魔法に手を出した奴もいた。だがみんなね、結局はその途方もない力に呑まれて破滅したんだ。だからアタシはお前に言うんだよ。魔法なんてものはロクなもんじゃない。興味を持つのもいいけど、勉強するまでにしておきなってね。さてと。それじゃあ順番だ。まずはこの部屋から魔法を殺していくよ」
魔法殺しもまた魔法である。それはかつて神を殺した人間に関する〈神話〉の顕現である。人の血を触媒とするそれの、正の意味は到達、逆の意味は破滅であった。
「いいかい。アタシ達はこれから魔法殺しを行う。それには人の血が必要だ。誰かにそれを出してもらわなきゃならない。もともとは血を出す役目の人間を連れてたんだが、こういう場合は仕方がない。合理的に決めていかないとね」
ビュッケは言った。それに答えてジャンが言った。
「この場合まあそうなるな。合理的にか。そうなると、まず姐さんとおれとヴィンセントは除外されるだろう。魔法殺しの経験がある。おれたちが居なきゃ何にもならねえ」
「それはそうだろうね」
ビュッケは同意した。
「ロギインも除外させてもらうよ。この子の魔法の知識は確かだ。伊達に本ばっかり読んじゃいない。腕も立つ」
「ま、いいだろう」
ヴィンセントは同意した。
「残るは三人か」
タマリ、クロンコ、そしてロールスは顔を見合わせた。ヴィンセントが言った。
「ううううん、おれとしてはロールスだな」
「おれですか!」
「だってお前逃げ出しただろう」
「あんた達が勝手に走り出したんですって!」
「といってもなあ。ついてこなかったのはお前だ」
「そりゃあないでしょう!」
「まあまあ、ロールスだったかい」
ビュッケが立ち上がると言った。
「あんた案内人だったか。今のこの状況じゃあねえ。まあ、血を出すっていってもそれほどの量じゃあない。ちょっと我慢してくれれば済むだけの話だよ」
ジャンもそれにあわせて言った。
「まあそうだな。それに今出して貰えば、これから先お前から貰う必要はなくなる。今だけだよ」
ヴィンセントが言った。
「チクッとするだけだ、チクッとな。お前も男だろ! 覚悟を決めろ! 弱虫め!」
「ま、まあチクッとだけなら……」
そこでヴィンセントは満面の笑みを浮かべると、ロールスの肩に手を置いた。
「同意したな! 今同意してくれたよな。ありがとう。本当にありがとうな。お前のことは無駄にしないぞ、ロールスよ!」
「えっ」
そして、ビュッケ、ジャン、ヴィンセントは猛烈な勢いでロールスに襲いかかった。
ロールスに逃れようはなかった。彼はくぐもった驚きの声を上げた。タマリは咄嗟にそれから目を逸した。クロンコとロギインは驚愕に目を見開いていた。
悲鳴が一つ、二つ。こうしてロールスは死んだ。そして、魔法殺しの触媒が手に入った。
◆ ◆ ◆
「軽蔑してるかい」
ビュッケはロギインに聞いた。その腰には、ロールスの血が詰まった革袋が下げられていた。ロギインは答えを返さなかった。
「前のときはね、アタシ達は触媒用の奴隷をいっぱい連れて行ってたんだ。そうなんだよ。殺したよ。一杯奴隷をね。魔法を殺すために、アタシは人を殺したよ。アタシ達は人殺しなんだ。でもそれが、もっと多くの人を守ることになったのさ」
「なんで、言ってくれなかったんですか」
「誰がこんなこと、言いたいもんかね」
ビュッケは遠くを見たまま言った。
「誰が好きで、人なんか殺すもんかね……」
ロールスの血により、地底湖の魔法は殺されていた。時の魔法の束縛から開放されたさざ波の音だけが、地底湖に鳴り響いていた。
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