第5話
ビュッケの刺剣が〈エルフの従者〉の左肩を貫く。〈エルフの従者〉はその微笑みを歪ませると、苦悶の声をあげてその場に倒れた。刺剣を引き抜きとどめの一撃を繰り出さんとした彼女は、だがしかしそこで動きを止めた。ジャン。ヴィンセント。見知らぬ案内人。そしてロギイン。何故ここに。予想外の事態である。極度の集中に視界が狭まる。状況は。自分の弟子に幅広剣をあてているジャン。〈従者〉とそっくりの姿をした老人を踏みつけにしているヴィンセント。ジャンとヴィンセントはこちらに目線。チャンスだ。ロギインは。驚きに目をむいて固まっている。なんだと。
馬鹿弟子め。踏み込む方向を切り替えたビュッケはジャンの元へ一瞬で距離を詰めると、その喉元へ刺剣を突きつけた。ヴィンセントは咄嗟にクロスボウをビュッケに向けて狙いを定める。ジャンとロギインは前の姿勢のまま動くことはなかった。動けなかった。
それぞれの視線が交錯する。部屋を沈黙と緊張が支配した。
口火を切ったのはヴィンセントである。彼はクロスボウを構えたまま、引きつった笑顔と共に言った。
「よ、ようビュッケさん。これはどうもお久しぶりで」
ビュッケは鋭い視線と低い声でそれに応じた。
「あんた……誰に弓向けてるかわかってんのかい」
「こ、怖いなあ、よしてくれよ。状況が状況なんだ。しょうがねえだろう」
「何が状況だい……」
ビュッケはえぐりこむような視線をヴィンセントに送った。
「どんな状況なんだい。誰が。誰に。何をやらかしてんだ。言ってごらん。さあほら、聞いたげるから……。誰が。誰に。弓向けてて。誰の弟子に。誰が。手を出してんだい……」
「なんだって! まさかあんたの弟子だったとはよ! 今気づいたぜ。そりゃあびっくりだなあ」
「あ、ああ。本当にびっくりだ」
調子を合わせたジャンは、首元に感じる刺剣の痛みが増したことに気づいた。ジャンの額を冷たい汗が流れた。
「くだらないことを言ってんじゃないよ、あんた達……」
「ああ、悪かった、悪かったよ! 気づいてた! こいつあんたの弟子だよな、その通り」
「なら剣を下ろすんだよ、ジャン……」
「そ、そういうわけには」
刺剣の切っ先がさらに少しだけジャンの首の皮膚に食い込んだ。
「あんたがうちの弟子の首を切るのと、アタシがこの剣をあんたの首に突き刺すの……どっちが速いか、死体でもわかると思うけどね」
「ああ、糞……」
「まあ待った待った。ビュッケさんよ、このおれのクロスボウのこと、忘れちゃいないかね。ええ。ここからキッチリ狙ってるんだがね」
「ほう。大した自信だね。じゃあこうしようか」
ビュッケは刺剣の切っ先を支点に少しだけ身体をずらした。するとビュッケの姿は見事にジャンの陰に隠れてしまった。そして刺剣の切っ先はさらにジャンの首に深く刺さり、ジャンの首からはついに細い血の筋が流れ出すことになった。
「お前、馬鹿野郎! 余計なこと言いやがって! 痛えんだよこれ!」
「ああ、いや、こういうことになるつもりじゃあ無かったんだが」
ヴィンセントは首を傾げた。
「さあ。どうするんだい。やるのかい。やらないのかい……」
ジャンとヴィンセントは目配せをした。
これ、いけるか?
いやあ、まあなあ。駄目だろ。お前、多分、死んじまう。
そうだよなあ。
そうだとも。
降参か?
降参だろ。
ついてねえ。
本当にな。
ため息をつくと、ジャンは口を開いた。
「わかったわかった、降参……」
だが続いてその口から出てきたのは、血の色をした大量の禍々しき〈泥〉の噴流だった。
「ジャン!」
驚いたヴィンセントが叫んだ。当のジャンは白目を剥き痙攣しながら〈泥〉を吐き出し続けている。ロギインとビュッケは咄嗟にその場から飛びのいたが、ジャンの口から溢れ出し続ける〈泥〉の勢いは凄まじく、ロギインの両足は既にそれに絡め取られていた。
案内人が何事か叫んでいる。距離を取ったビュッケは自らが追ってきた〈エルフの従者〉の姿を部屋の中に探した。いない。しまった。奴の仕業か。魔法。魔法。ああ、忌々しい。ヴィンセントの足元にいた〈従者〉によく似た老人もまた同じ〈泥〉に変化しており、ヴィンセントは既に腰まで泥に浸かっていた。
「畜生め!」
彼の罵声は何の役にも立たなかった。ビュッケは戸棚の上に避難していたが、それすらも〈泥〉に取り込まれるまでの時間をわずかに伸ばしただけに過ぎなかった。〈泥〉の海から触腕が素早く突き出ると、それは宙に飛んだビュッケを、いとも簡単に捕らえてしまった。
その部屋に後に残ったのは、静かに凪いだ、大量の血の色の〈泥〉だけだった。
◆ ◆ ◆
ロギインは黴臭い迷宮の通路に立っていた。先程の〈泥〉は。ロギインは辺りを見回す。どこにもその形跡はなかった。彼が立っている通路は前後に無限に伸びているようで、どこにも分かれ道はなく、前にも後ろにも果てが無いように思えた。
少し離れたところに座っているように見えたのは、彼の師匠であるビュッケの姿であった。それは奇妙な黒に全身染まっており、そしてその輪郭は黒くちらついて見えた。それからは絶え間なく、ブーン、ブーンという低い音が鳴り続けていた。
「し、師匠……」
ロギインは恐る恐るそれに近づいた。師匠に何かが起こっている。何かありえては行けないことが。それを確かめたくは無かった。だが確かめなくてはならないとも思っていた。それが自分の義務だと直感していた。
かまわないよ。
ロギインは突然聞こえたその声に驚きうろたえた。それはビュッケの声だった。その声は無限の果ての向こうから、ロギインの頭の中に直接響いてきているように思えた。
あたしはかまわないよ。
「師匠……?」
はやくおやり。
その声はロギインには、とても、とても悲しく聞こえた。
ロギインは涙を流していた自分に気づいた。
その涙と共にビュッケの死体を形作っていた無限の数の蝿の群れはロギインめがけて一気に飛び立ち、ロギインの鼻に、口に、目に、耳に、全身の穴の中に入り込んだ。
ロギインはそれを全て受け入れた。涙を流しながら。
◆ ◆ ◆
「ロギイン。ロギイン。大丈夫かい」
そしてロギインはビュッケの声で目覚めた。全身が冷たい汗で塗れていた。なんて悪夢だ。ロギインは頭を振った。彼はいまだ涙を流し続けていた。
だがしかし、ロギインは未だ自分は夢を見続けているのではないかと考えた。彼の今いる見知らぬ部屋は床が天井になっており、天井が床になっていたのだ。彼の座っている天井からは、豪勢な燭台が宙に浮くようにして吊り上げられている。その燭台のろうそくの炎が燃え下がっている様など、彼には特に奇妙に思えた。上を見ればベッドや棚などの様々な家具が床に張り付いており、今にもこの天井へ落ちてきそうな塩梅であった。
部屋の中にはあの〈泥〉に捕らえられた者全てと、それに加えてタマリとクロンコの姿があった。みな天井に座っていた。タマリとクロンコは、あの〈右耳〉を追いかけていたら突然〈泥〉に変化され、為す術もなくそれに飲み込まれてしまったという。
「ああ、吐きそうだ。気持ち悪い。最悪だ」
こめかみを押さえながらジャンが言った。それに答えてヴィンセントが言った。
「確かになあ、ジャン。さっきはひどい目にあってたな。それにこの光景最悪だ。さてどうしますビュッケさん、続きやりますかね」
「あんたらがそうしたいならね」
「いやあ俺たちはもう結構。それでいいな、ヴィンセント」
「ああ、いいともよ」
「そういうわけですよ。とにかくおれたちゃ、のっぴきならない状況にいる。どうです。ここで手を組みませんか」
「一つ条件がある」
「なんです」
ビュッケは大きく息を吸うと言った。
「これから、魔法殺しを仕掛けるよ。この迷宮に対してね」
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