第3話
ビュッケの刺剣がひらめいた。その切っ先は〈エルフの従者〉の白いまつげに触れていた。
「〈エルフの従者〉? なんだいそりゃ忌々しい。アンタ何者だ。それ以上近寄るんじゃないよ」
「おお恐ろしい。その剣をおしまいなさいあなた」
〈エルフの従者〉は大げさに驚いた振りをしてみるとそう言った。
「よろしいのですか。あなたがたはここから抜け出したいのでは? 私を傷つければそれは叶いませんよ。私なしでは絶対に出口は見つけられません。それは保証しましょう」
「アンタが危ない奴じゃないってのは誰が保証してくれんのかね」
「ほほほ。ほほほほほ。それはあなた、あなたがたの勘というものでしょう、ほほほ、冒険者さん」
〈エルフの従者〉はビュッケの刺剣から身を離すことなく、まっすぐとその剣先を見据えたまま続けて言った。
「いいでしょう。私の知っていることをお教えします。この迷宮は今着々と変化しています。あなたがたが向かっていた方向には確かにかつてこの迷宮の入り口が待っていましたが、今ではそこには何もありません。ただの行き止まりです。では入り口はどこへ行ってしまったのか? どこにもありません。もはや入り口は無いのです。この迷宮から抜け出すには、今ここから遠い遠く離れた出口に辿り着くしかないのですよ」
「この迷宮に入り口以外の別の出口があるって? そんな話は聞いたことがないね。それに迷宮が変化しているだってさ。そんな馬鹿な話が」
「あるからあなたがたは困っているわけでしょう。そちらの方は案内人さんですね。とても苦しそうです。瞳で覚えたものと現実とのあまりの違いに頭が悩まされているのでしょう。しばらく目を休ませてさしあげなさい」
一行がクロンコの方を見ると、彼は額に脂汗を浮かばせて眉根を寄せ、目頭を抑えて苦しそうな顔をしていた。タマリはビュッケに目配せをしたあと、彼に目隠しをしてやると、そのまま彼を背負った。〈エルフの従者〉は言う。
「この迷宮は、今でもその外からならば入り口は見えているのでしょう。だからこそあなたがたはここに入って来ることが出来た。だが一度足を踏み入れれば? ポン! なんと入り口は消えてしまいました。ここはそういう場所に成り果てたのですよ」
「だが何故」
「魔法……」
ロギインがぼんやりと呟いた。ビュッケがロギインをきっと睨む。
「その通りですお坊ちゃん。魔法のなせる技ですよ」
「いいかい、魔法はね」
「もはや世界から失われた。そうおっしゃいたいのですね。ではこの状況はどうでしょうか。あり得べからんことが起こっているではないですか。ほほほ。まさに魔法の仕業でしかありませんよ。とはいえ、百の言葉よりも一つの真実といいます。ちょうどそこに柱がありますね」
〈エルフの従者〉が指差す先には、一本の大きな角柱が立っていた。
「ひとつあのまわりを一緒にぐるりと歩いてみましょう。そうすればわかります」
「し、師匠……」
ビュッケは刺剣を収めると、苦々しく呟いた。
「いいだろ。くだらない遊びだが付き合ってやるよ、〈従者〉さん」
一行は今、石造りの小部屋の一角に立っていた。中央には大きな角柱がそびえている。そして彼らは一列になり、〈エルフの従者〉に続いて角柱の周囲をゆっくりと歩き始めた。
彼らは角柱の一つ目の角を曲がった。何も起こらなかった。
彼らは角柱の二つ目の角を曲がった。何も起こらなかった。
彼らは角柱の三つ目の角を曲がった。何も起こらなかった。
そして彼らは角柱を一周した。部屋はそのまま、何も変わってはいなかった。ビュッケは勝ち誇ったように先に立つ〈エルフの従者〉に言った。
「さて〈従者〉さんよ。一体全体、今のどこに魔法のなせる技があったのかね」
振り返った〈エルフの従者〉は笑みを浮かべていた。そしてビュッケの後ろを指差した。悪寒を感じたビュッケは驚いて背後を確認する。付いてきているはずの仲間はどこにもいなくなっていた。
「お前、一体何を」
ビュッケは刺剣を構え再度正面を向いた。だが、〈エルフの従者〉もまた、跡形も無くその姿を消していた。
ビュッケはその後、角柱の周囲を右回りに左回りに何周も歩いた。だがしかし、誰も見つからなかった。ビュッケは部屋の隅々まで何かの痕跡を探し回った。だがしかし、何も見つからなかった。
ビュッケは今、この部屋に一人きりだった。
ビュッケは思った。こんなことはありえないことだ。こんなことはあってはならないことだ。だがしかし。この状況。認めざるを得ない。アタシたちは魔法の力に捕らえられている。魔法は復活している。少なくともこの迷宮では。奴らは、奴らの魔法はまだ生き残っていたのか。魔法殺し。エルフ狩り。またあんな戦いをしなければならないのか。今度もまた耐えられるのだろうか。ああ。糞。もうごめんだっていうのに。
ビュッケは一人、部屋の中で立ち尽くしていた。
◆ ◆ ◆
ロギインは困惑していた。確かこの角柱の辺の長さは全て同じではなかったか。角を曲がる度に角柱が自分の立つ空間ごと歪んでいくような、そんなめまいのような感覚がしていた。そして最後の角を曲がりきった時、そこに見えたのはこれまで自分がいた石造りの部屋ではなく、壊れかけた暖炉だけが奥に見える広大な広間であった。傍にあったはずの角柱も消え失せていた。周りには誰もいなかった。あまりの違和感に強烈な頭痛がする。思わずロギインはその場にひざまずき、嘔吐した。そしてそのまま叫び声をあげた。
「師匠!」
ロギインの声が広間にこだました。だがそれに答える声は無かった。
「タマリ! クロンコさん!」
ロギインの声が再びこだました。だがやはりそれに答える声は無かった。
ロギインは頭をかきむしった。魔法だ。やはりこれは魔法だったんだ。本物の魔法なんだ。師匠は最後まで信じていなかったが。
みんなを助けなければ。そして合流してどうにかしてここから抜け出さなければ。師匠にも魔法殺しのあの経験がある。それにこの自分の、書物で学んだ魔法の知識さえあればなんでも解決出来るはずだ。きっとそのはずだ……。
決心したロギインは頭を上げる。そして立ち上がると、広間のドアに近づきそれを開けた。だがその向かい側には、今まさにそのドアを開けようとしていた、疲れ果てた見知らぬ案内人が立っていた。
驚いた二人は同時に悲鳴を上げた。そして二人とも、尻もちをついて倒れた。
◆ ◆ ◆
「するとあれかい、お前さんが案内人になってくれるってのかい」
ヴィンセントは宝飾に輝く部屋で、右耳のない老人に向かって言った。
「ええそうですよ。今この迷宮は少しばかりおかしなことになっています。ですが私の知恵さえあれば、あなたがたをお望みの場所へご案内出来ますとも」
「そりゃすげえな」
「ヴィンセント」
「ああ、わかってる。じいさん、すまんな。ちょっとそこで待っててくれ」
ジャンとヴィンセントは老人から離れると、二人で小声で話し始めた。
「なあジャンよ。これはよお、いくらなんでもおれだって怪しいってわかるぜ」
「そりゃそうだろうな。それによ、気づいたかお前」
「何にだよ」
「知らんのか。人の顔はよく覚えておくもんだぜ」
「だから何に気づいたかって聞いてんだけどよ」
「あいつ。あの背丈にあの風貌。〈右耳と左耳〉の片割れのはずだ。〈街〉の冒険者の。つい一週間前から見なくなってたと思ったが、こんなところに居たのか」
「〈右耳と左耳〉だと? そりゃおれだって知ってるよ。あのチビで耳が無い……双子の……うむ。いや。だけどよ」
「そうなんだよ。一週間前に〈街〉で見たときゃあ、あんなジジイじゃあ無かったんだよ」
「となるとだ」
「そうだ」
「もしかするとだ」
「言ってみろ」
「ありゃあ、〈右耳と左耳〉の生き別れの親父ってことになるわけか」
「その通りだ。それであのオッサン、実はずっとここで迷宮暮らししてたってわけなんだな」
ジャンとヴィンセントはここでお互いの肩を叩いて笑いあった。
「ふう。畜生。馬鹿馬鹿しい。あいつらの両親はとっくの昔に死んでる。前にそう聞いた。ヴィンセント。行くぞ」
「あいよ」
ジャンは幅広剣を、ヴィンセントはクロスボウを抜くと右耳のない老人に向かって歩み寄った。
「おやおやお二人様、そんな物を持って」
「演技はよしな。なんでお前が爺さんになってるか知らないが、とにかくお前、〈左耳〉だろ。なあ」
ジャンは〈左耳〉の残った耳の根本に幅広剣をあてた。
「さあ。隠していることを全部話すんだ。でないとお前さん、〈左耳〉から〈耳なし〉になっちまう」
「隠し事も何も」
「まずその見た目だ。お前さん一週間前に〈街〉で会った時にはそんなジジイじゃあ無かったはずだ。何か上に皮でも被ってるのか? それともよお」
ジャンの幅広剣を持つ手に力が入る。
「この迷宮、何か良くないことでも起きてんのかい」
「一週間。一週間ですか」
呆然とした顔の〈左耳〉は心底驚いた様子でぼんやりと呟いた。
「外の世界では一週間。たったの一週間しか経っていなかったとは。なんとまあ。その間に私はこんなにも貴重な体験を、こんなにも濃密な体験をすることが出来ていたのですね」
〈左耳〉は自分の両手を恍惚として見つめていた。
「お前」
「ああ、時間など……些細な……ああ……」
「ようしわかった。それ以上動くんじゃないぞ」
ヴィンセントがクロスボウの狙いを〈左耳〉の額につける。
「少しでも妙なことをしてみろ、この矢がお前の」
「ああ、ああ、時間、それは、ああ、ああ……」
〈左耳〉のうめき声は徐々に大きくなり、部屋中に反響しだしていた。
「ああああああ、ああああああああ」
「お前、その声をやめろ……」
「ああああああああああ、ああああああああ!」
「お前、やめろと言っているだろ。今すぐにそれをやめるんだ! お前ーッ!」
「ああああああ! あああ! ああああああああああああああ!」
すると〈左耳〉の両目が突然発光しヴィンセントの方をまっすぐに見つめた。ジャンの幅広剣が〈左耳〉の左耳の半ばまで食い込む。ヴィンセントは間髪いれず矢を射った。それは〈左耳〉の額の真ん中に命中した。〈左耳〉はぐらつくと仰向けに倒れた。その瞳はまだ青白く発光していた。
「なんだったんだこいつは……うおっ!」
驚いたジャンは飛び退った。猛烈な速さで〈左耳〉は立ち上がるとうめきながら走り出し、強烈な脚力で部屋の天井まで跳ねそこに張り付いたのだ。そして何かの仕掛けを作動させたか天井の小さな隠し扉を作動させると、そこに流れ込むような動きで逃げ込んでいった。〈左耳〉が入るや否や隠し扉は閉じてしまい、もはやどこにもその痕跡は見えなかった。
ジャンとヴィンセントは、〈左耳〉が入っていったあたりを呆然と見つめていた。しばらくしてヴィンセントが言った。
「まあ何にせよこれで。あの〈左耳〉が音もなく忍び寄ってこれた理由がわかったな。多分あいつら、その辺にある隠し扉を全部把握してるんだろ」
「ああ糞。気持ち悪いもん見ちまったな、糞」
「ああ、ああ、本当にな。しかしそれにしてもよ、まずかないか、この状況」
「ようやくお前もそう思えたかよ。そうだ。さっさと出ないとまずい。本当にだ。何が起こるかわかんねえ。こん畜生め」
その時部屋の四つの扉が全て開いた。全ての扉の向こうには、額に穴が開き左耳のちぎれかけた〈左耳〉が、両目を青白く光らせて微笑みながら立っていた。
ジャンとヴィンセントは、お互いにゆっくりと顔を見合わせた。そして再び、それぞれの武器を手に取った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます